トップページ 辞職について 棚田.com 自転車で日本一周 バリアフリー活動 わりばしリサイクル
フッ素洗口に疑問あり その他の活動内容 自己紹介 家族の紹介 リンク集 メール

その他の活動内容
第11話 「三俣村と清津川開発」 藤ノ木信子 05/07/09(土)19:28:20
 清津川の水力発電を語る時、湯沢町三俣集落のことを抜きにはできない。今でこそ国道沿いに開けたスキー集客の地域だが、昔は三国街道三宿の一つ三俣宿として名を残した山間の村で、今も本陣跡が残っている。この村の水力発電事業は山口達太郎氏の着眼が最初で、湯沢発電所取水施設は大正5年に起工し、三俣村は工事がもたらした好景気で栄えた。
 その工事の中、大正7年1月9日夜半、集落の裏山から崩れた雪が民家を川原まで押し流した大雪崩は、日本雪害史上最多の158人の犠牲者を出した惨事である。三俣集落の約半数28戸が被災し人々の運命を変えたこの雪崩の記録は、災害規模の割に今まで不思議に資料に乏しく、町史・郡史に少し記載されているだけであった。

 雪崩の原因については自然災害・人災説があるが、明確な判断は避けている。50回忌を過ぎた近年になってようやくその真相が語られるようになり、最新の湯沢町史や町史双書「雪の湯沢」に詳しく書かれている。その中で、注目を引くのが、雪崩の発生時刻・形態・湯沢発電所の隋道工事の進捗度(ズリ出しの場所から発破現場を推定)などから、ダイナマイトの発破作業振動による雪崩誘引説が地元民の口から語られていることだ。
生存者が「当時、誰にも言わないことにしていたが、あの大雪崩は隋道工事のダイナマイトの爆破振動が・・」と語ったのを契機に「もう曖昧にしておきたくない」という村民の思いが吹き出している。今なら、すぐに原因究明と過失の有無が問われるが、当時の山間集落の惨事は事実関係が明らかにされないまま、事件が風化し真相解明ができない頃になって初めて語られ始めた。
 当時2歳で被災し、母親の命と引き換えに助かった最後の生存者は今も三俣に在住されている。清津川の川原で壊れた家屋の廃材を燃し犠牲者を荼毘に伏す様は「鰯を並べて焼くようだった」と村では今も語られている。この雪崩も災いし、湯沢発電所の工事は起工から竣工まで8年もの年月を要し、なぜか発電所の完成に合わせ東京電力が三俣集落各戸に水道を無料で架設した。雪崩の犠牲者の名は石碑に刻まれ80年たった今も集落を見守っている。
 
 この後も、昭和32年の清津川発電所建設時や昭和47年以降の奥清津発電所建設時など三俣集落は一時的な発電景気に沸いた時期もあるが、その後の国交省清津川ダム建設計画では当初より予備調査に反対し、紆余曲折を経ながら平成14年の中止答申まで40年近く水没予定地として生活設計の立てられぬ苦悩と社会資本整備の遅れを強いられ、現在、生活再建を目指しての「三俣未来まちづくり協議会」の取り組みが行われている。
 自然との共生をテーマにこれからの地域づくりを進める三俣集落にとって、目の前を流れる清津川が発電取水によって最も著しい減水区間となっていることは忍び難いことであり、国県と協働での「川の回復」が注目される。三俣村のたどった歴史はまさしく清津川水源開発事業の歴史と言っても過言ではない。 

 白く乾いて川原砂漠となっている取水堰直下の清津川に立つと、これからのこの集落の多幸と平穏を祈らずにはいられない。

このページのトップへ


第10話 「現在進行中の河川史」 藤ノ木信子 05/07/09(土)19:24:49
 真冬1月、2月にどうしたら雪の上に足跡を残さずに、毎週一回、川原まで行って流速を
記録できるのだろう・・・
川の形が変わらないのになぜ同じ水位で流量が2倍以上になる日があるの?・・・
雪になるほど寒くないのにどうして雨が降っても川の水位が増えてないのだろう・・・
支流が流れ込んで流量が増えるはずの下流地点より、1km上流地点の流量が多いのはなぜか・・・
降る雨は変わりないのに、どうして清津川は中流だけ1.5倍も水が豊かなのか・・・

 これらは東電の水位流量表・国交省の資料・アメダス降雨記録などを解析して出てくる数字の疑問点である。資料を調べれば調べるほど疑問は増えていく。グラフや表の数字に川の音が聞こえてこない。このような不思議がいっぱいの基礎データをもとに東電の取水制限流量素案は作られている。「納得のいくよう説明をしてほしい」「信頼関係を築こう」と私たちは訴える。
 でも、返事は「正当な理由に基づく根拠ある数字である」だ。だんだん、人と話していると思えなくなる。そして私が対しているのは、会社の名札を付け人の形をした「構造」なんだ、だから何を言っても会話にならないんだと気づく。

 河川工学の教授の著書に渋海川沿いの岩塚小学校校歌が紹介してある。2番の歌詞は「青田を潤す川瀬の水も 時には溢れて里人たちの たゆまぬ力を鍛えてくれる 我らも進んで仕事にあたる 心とからだを作ろう共に」とある。
 川の恵みも災害もすべて許容して流域の「川と人の関係」はこんなにも豊かに成り立っており、他人まかせでない凛然とした姿勢と深い感謝が感じられる。この歌を紹介した著者の言う「技術の自治」は治水にも利水にも人としての「作法」があったことを説いている。世界に誇れるすばらしい倫理観を何故日本人はなくしてしまったのだろう。
 河川史の中で「川と人の関係」が変わってしまったのはいつ頃だろう。縄文時代から豊饒の恵みを運んでくれた川を囲んで、長い年月を経ながら「川と人の関係」は文化として受け継がれた。川を囲んだ地域共同体が、恵みを分配し、川を維持して災害をも受け入れる「作法」を守ってきたのだ。時間とお金が支配する市場経済構造が効率を優先させるまでは・・・効率よく管理することは煩わしい川との付き合いから人々を開放したが、同時に川は地域文化から消えてしまう。
 川の恵みは企業独占となり専門家の管理となって、生活の中から川は遠ざかってしまった。河川法・通達・法令・河川維持流量・渇水比流量・水位流量曲線・・・目の前の川を語るのに、こんな難しい言葉を使わないと説明できないなんておかしいと私は感じている。みんなが普通の言葉でわかっていた川の知識はどこへいったんだろう・・・

 水問題に取組んでから、ずっと考えていたこと・・・権利でも専門知識でも数字でもない、もっと身近なもっと親しい「何か」が現在進行している私たちの話し合いには欠けている。この校歌の歌詞にヒントは歌われていないか?川と付き合う技術・自治・知恵を水利権問題の解決に活かしてはじめて「川と人の関係」は取戻せるのかもしれない。

このページのトップへ


第9話 「地震で施設が壊れたら?」 藤ノ木信子 05/07/09(土)19:16:01
 国土交通省の水利権実務集では、同じ水利権でも発電用と灌漑・水道用は捉え方が違う。発電用水は取水後も水の消費(土に浸透)がなされず、単にその位置エネルギーだけを利用するので私水とならず、放水するまでの間一貫して公水と考えられているのだ。
 だから、発電所の導水路の途中から農業用水に取水する時は、川から取水する時のように水利権の許可が要る。この場合、発電者側の都合で発電の停止などがあると、灌漑用水の取水ができない恐れがあるので、取水口の位置は原則として発電施設の取水口と同一にして許可するのだ。
 つまり、水利権は発電停止によって影響を受けないように許可される・・・「清津川の水がないと南魚の米作りができない」のであれば、もし中越大震災のような地震が起こって湯沢発電所の施設が被災し、清津川の水が導水できなくなったら、魚野川流域の農家はどうなるのだろうか?JR東日本の小千谷発電所のように発電導水施設は地震被害を受けやすく、まったくあり得ない話ではない。

 清津川の水を魚野川の流量と見なして魚野川沿川に水利権を許可するなら、発電停止時を想定して暫定水利権として許可するのが筋だと思う。しかし、魚野川の水利権は単純に申請前10年の河川流量にぶら下がって許可されており、発電停止時を考慮していない。これは清津川分水がなくとも取水ができる範囲内でしか許可しなかったからではないだろうか?
では実際にはどうなのだろう・・・客観的に魚野川流域の灌漑用取水について、過去10年の渇水年に清津川導水がない場合をシミュレーションした新潟大学の研究結果では、もともと支流が多い魚野川で影響が出るのは西部開田幹線用水のみであり、それより下流の取水には支障をきたさない。西部開田幹線用水も清津川からの導水がなくても、代掻き期ではまったく問題はなく、管理期でも十年間で数日のみ水利権量に対して2トン程度の不足(実際の取水量に対しては更に少ない)が生じただけであった。
 そのような状況下では、もとより清津川でも渇水状態であり、両流域が取水制限や番水など互譲の精神で渇水を乗り切らねばならないのは当然である。なお、それ以外の平年並みの流量年には、清津川からの導水がなくとも魚野川では水不足は生じない。この研究結果からみると、地震で施設が壊れても魚野川流域の米作りには大きな影響はなさそうだ。(よかったね!)

 河川全集第1巻(建設省河川研究会著)では「流域変更方式には紛争を伴うことが多い」と記され、国としても昔から注意を促している。河川史の上でも松神(赤石川、追良瀬川)や潮(神戸川)などが例とされている。清津川・魚野川流域の灌漑取水の問題は、発電効率を優先させる設計をした企業者が結果的に県民にもたらした問題であり、もし発電を停止した時に灌漑取水に支障がでるのなら、企業者が積極的に解決にあたらねばならない。全国の発電取水ダム湖の堆砂処理や原発の使用済み燃料処理など、収益だけを得て発電の後始末ができていない現状を国も電力会社も直視し、次の世代に負の遺産を残さぬように取組んでほしい。
 また、両水系の権利者も既得権水量でなく、近年の取水実績量に忠実に現状分析をすることが大切である。川の水は誰のものでもなく、川の恵みを受けて生きるすべての生き物のものであることを忘れてはならない。

このページのトップへ


第8話 「河川台帳が語る事実」 藤ノ木信子 05/07/09(土)19:10:38
 小学生の頃、社会の時間に「日本は三権分立の法治国家」と習った。権力の濫用を防ぎ、人民の政治的自由を保護するために国家権力を立法・司法・行政の相互に独立する機関に委ね、行政は法律によって行われると。だから、河川行政は河川法によってちゃんと河川管理者(国・県)がやっているから、国民は安心していて大丈夫と思っていた。・・・しかし、水利権問題に関わるうちに、「こんなにたくさんある権利をどうやって管理しているのだろう?」と疑問になってきた。

 水利権の管理については、河川法第12条(河川の台帳)で「河川管理者は、その管理する河川の台帳を調製し、これを保管しなければならない。」と定めている。河川台帳は現況台帳と水利台帳からなり、清津川の水利台帳は国土交通省北陸地方整備局とその支所である信濃川河川事務所に保管されている。しかし、昨年閲覧したその内容は双方が一致しないばかりか、調製年月日も記入されておらず、素人の私でさえ簡単に間違いが指摘できた。一級河川に限らず、全国のほとんどの河川台帳は正しく調製・保管されておらずどこの役所でも放って置かれている。河川史の昔の資料にも河川台帳を正しく管理するよう建設省が達しているものがある。
どうやら、昔から台帳をつけるのが苦手だったらしい。水三法を読むと、一級河川の河川台帳調製費用は河川管理費、二級河川は国の補助事業であることがわかる。予算要望書のリストに「河川台帳の調製・保管」を上げないと仕事にならないのに、こんな仕事は誰も得したり損したりしない事業だから要望しても真っ先に削られる。
明らかに違法だが、台帳がきちんと記載されてようがデタラメであろうが、「堤防が脆弱で被害に遭った」というハード事業ほど誰かに直接被害が及ぶ訳ではないので、追求しようがない。水政課の職員でさえ形骸化した台帳を開いたことがなかったのではないだろうか。河川事務所で放って置かれた水利台帳の湯沢発電所のページには現在の施設ではなく、昭和33年以前の昔の取水施設内容がそのまま記載してあった。

『書き直しされなかったことは、正式な取水口増設の許可書が交付されなかったことを物語っており、未認可工事の証拠品として50年近くそのまま保管してくださった河川事務所の職務怠慢に感謝してしまう・・・』
果たしてこんな台帳で正しく水利権管理ができていたのだろうか?国の財政事情を思うと今後も台帳調製費は後回しにされるのだろう。

国民から公の水の管理を託されている河川管理者として、国や自治体が法に反して職務を果たしていない現状は法治国家として由々しきことである。平成10年の河川法運用に関する通達では、河川台帳の磁気ディスク化についても積極的な推進を図ることとされている。(パソコン使っていいのですから多くの人手や費用はかからないはずですよ) 公平な水利権許可行政のために、台帳の調製・取水実態の明確化・流況の把握をされ、正しく権利が行使されるよう監督されることを切に望む。

このページのトップへ


第7話  「一滴残らず…は超過取水の始まり?」 藤ノ木信子 05/07/09(土)19:07:26


 県立文書館資料に、昭和10年、東京電力の集水工作物の設置申請書がある。湯沢発電所三俣取水堰のすぐ上流の川の中に、「牛枠」という組木の柵をずらりと並べて流れを変え、取水口側に導くものだ。一滴でも効率よく取水口に水を取り入れることは電力会社にとって重要課題で、たいへんな努力だ。「牛枠」は半年ほどで出来上がったらしいが、その後どうなったのかは不明である。
この興味深い木製の工作物は、現在の河川管理施設等構造令ではまず許可にならないだろうが、河川史から学ぶ自然工法のヒントとして面白く、後学のために現物を見てみたい。

 取水に関しては、東京電力の取水量報告でも、昭和27年から34年まで8年間、許可水量6.121トンを上回る8トン近い超過取水をしていたことが記されており、東電自身その事実を概ね認めている。ここで注目することは「昭和34年まで?」である。この前年の12月、対岸の清津川発電所は竣工し、その放水路は清津川の下をくぐって湯沢発電所取水口に直結され、三俣取水堰からのものと合わせ取水口は2箇所に増えた。
上流清津川発電所の取水許可が8トン、下流湯沢発電所が6.121トンの頭でっかちの直結であるから、その差1.879トンは余水路から本流に戻されることになっている。しかし、なぜか聞き取り調査では30年を前後して下流の水量は激減している。また、昭和47、48年の発電量からの逆算でも許可量を超えて取水しているデータがある。水利権許可に伴う水利使用規則には「水利使用者は毎日の取水量を測定し・・・」とあるが、実際には東電は実測値による報告をしておらず、建設省と通産省に出したデータにも違いがある。  
水利使用規則に反することは、河川法違反と同等に見なされるが、河川管理者の目は届かず、水盗人の罪は5年で時効になる。

 河川法第75条「河川管理者の監督処分」では、国は法に違反した者の許可を取り消すことができる強い権限を持っている。国交省の担当者は「よほどのことがないと・・・」と言われるが、河川史の中で、超過取水・水利使用規則違反・許認可の不明確な取水口増設工事過程など、ずさんな湯沢発電所の諸行を上回る「よほどのこと」をして第75条が適用された例があれば、どのような不正か教えて頂きたい。

 他地域の例では、超過取水や発電企業者の権利を優先したの法の見逃しは、長野県大町市の高瀬川でも行われ、瀬切れや青木湖の水位が異状に下がる要因となり、住民団体が原告適格を認められ、国を相手取った訴訟となった。また、水道水で富山市が超過取水をした事例では、河川法に反するとして国会質問されている。

このページのトップへ


第6話 「どこへ消えたかカツサ川」 藤ノ木信子 05/07/09(土)19:04:33
 昭和28年新潟日報記事(湯沢町史)によると、当初の清津川上流の発電計画は現在と大きく違っていた。当初は浅貝川三国村に高さ80mの大きな三国ダムを造り、右岸の第一発電所で発電した後、放水路を三俣に建設する第2発電所に直結し、2万4千KWの発電をする計画で総工費45億円とある。昭和30年代の東京電力の変更申請書(文書館所有)を見ると、ダム高は49mになっており、何度かの計画変更があったと思われる。
この第一、第二発電所の放水路はそのまま湯沢発電所(既存)の三俣取水口に直結すると、更に下流の石打発電所を入れて計4箇所の発電所が同じ水を利用することになる。いくつもの発電所を直結することは取水管理が楽で発電効率もよい。大正時代の初めは第一発電所のみに占用料が課せられ、第二より下は免除された制度もあった。企業者にとっては良いこと尽くめだが、河川にとっては上流で取水された水が川に戻らず、水のない区間が長くなり最悪である。

 当初の計画は浅貝川のダム地点での地盤の悪さから止めになり、上流で集めた水は清津川の左岸支流カツサ川に調整池を造って貯めることになる。この時代、日本各地で発電ダムが造られ、いくつかが構造上(施工上)の不備で壊れ、ダム規定が厳しくなった頃である。集落の上に大きなダムを造り、大雨が降るたびに洪水ゲートを調節して放流管理するのは難しい。山中の支流に越流型(満タンになると溢れる型で操作をしなくてもいいもの)を造ったほうが簡単である。実際にカツサ調整池は遠隔操作で常駐している職員はいない。
当時の電力需要は日間ピーク電力を求めており、調整池から清津川・湯沢・石打と3箇所の発電所を直結し、同時にピーク供給する計画だったらしい。(清津川発電所・湯沢発電所の申請書にはピーク供給の尖頭出力の記載がある)

清津川発電所の不思議は申請と許可の大きな違いである。調整池のダムも始めは重力式ダムのはずがアーチ式ダムになり、導水管も変わったり、更に上流に貯砂ダムを造ったり何度もの計画変更が繰り返された。もっとも不可解なのは許可取水量の変更だ。申請書では渇水時の補給用とされていた上流の小渓流(赤沢・小栃沢・小沢)からの取水を 常時の取水とし、カツサ川に調整池を造るにもかかわらず、申請書にあるカツサ川分の取水量1.3トンを含まないで許可を与えている。カツサ川にバイパスなどないから、この1.3トンは無許可で使っていることになる。見学に行った時の東電職員の説明は「上流に奥清津発電所の上池があるのでカツサ川には水がない」というものであった。(ご冗談でしょ?上池ができたのは清津川発電所許可の20年後です!)

今でもこの取水量は変わりなく、調整池に流れ込む水の水利権は曖昧になっている。地図の上では川であるカツサ川は、水利権の上では川ではなくどこかへ消えてしまった。清津川上流の沢という沢の水をかき集め、カツサ川の水も知らぬ顔で使って清津川発電所の水利権は下流湯沢発電所より大きな8tとなり、頭でっかちの直結施設はできあがった。

このページのトップへ


水力発電今昔物語 第5話 「水のお値段 占用料の徴収」 05/07/06(水)21:19:38
 発電取水の流水の占用料は大正時代、最大取水量を基準に課せられていた。県立文書館の資料では大正15年には「一理論馬力に付き 一年間80銭」となっている。貨幣価値が現在と異なりどのくらいになるのか判らないが、湯沢発電所の場合、最大24,200馬力で19,360円ということになる。

昭和3年の改正では単価90銭、昭和7年の通達からは最大・常時取水量を算定基礎とする方法になり、今の算定式が作られたらしい。現在、東京電力は湯沢発電所の流水と土地の占用料合わせて年間27,367,649円を県に支払っている。(これは県の全発電水利使用料の1%に過ぎない)

 この水の値段の「単価」は国交省が最高限度額を決めるので、ほぼ全国一律である。地方自治体は限度額に準じて条例を改正し徴収する。では、この「単価」をかける「算式」はというと、各発電所の最大・常時取水量から算定する。では、この水量はどうやって設定するのか?と国交省の担当者に聞くと「更新時前10年間の実際の流況によって」との答えが返ってくるが、湯沢発電所の常時取水量2.782トン(100立方尺)は更新時の実測によるものでなく、大正13年発電所竣工当時から80年間変りなくそのままである。

 資料によると、上流清津川発電所を建設しその放水路を湯沢発電所に直結した時、東京電力は「水利使用計画変更許可申請」をしている。その中には「既許可使用水量は本発電所建設当時の流量資料に基づいて決定されたものでその後の実測資料によれば、今日の実状に則しない点がありますので、この度変更いたしたい」とある。そして、清津川発電所着工にあたりその使用水量も考慮し、残流域分を足し、常時取水量を増やして3.371トンとして申請した。 
しかし、現在も許可はもとの通りの2.782トン(100立方尺)のままとなっている。増設に下流の了解が得られなかったためであろう。

本来はここで水利調整が行われるはずであるが何の手立てもなく、既に施設は出来上がってしまい、2つの取水口からの水を使い続けて現在に至っている。「常時取水量は利水者の申請により改正される」と国交省の実務集にもあるが、この45年間にわたり、申請者が「もっと払う」と言ったのに占用料は安価のままであり、累積すると県民の収入約8,000万円が徴収損となっており、現在も施設に見合わない安い占用料のままである。誰が笑い、誰が泣いたのだろうか。ここまでの清算もできないで水利権をまた更新するなら、この不合理な占用料を次の世代にどう説明すればいいのだろうか。

 なお、湯沢発電所の取水施設は取水口増設の他に、堰堤の嵩上げ、排砂ゲート設置など改良が加えられ、平水・低水〜渇水時の取水効率は上がり、全量取水されるため、直下流の湯沢町三俣地区では年平均5ヶ月間(最大8ヶ月間)は、一滴の水も流れないカラカラの川原砂漠となっている。

このページのトップへ


水力発電今昔物語 第4話 「先につくったもん勝ち」 05/07/06(水)21:16:33
第4話 「先につくったもん勝ち」

 県立文書館の昭和28年の資料に、建設省が当時の河川管理者(県)に出した通達がある。取水施設を許認可前に造ってしまい、既成事実をつくって申請することがまかり通っていたため、取り締まるよう注意したものである。

 発電用水利使用の申請特に既許可の計画変更及び同工事実施認可について当省の認可前に着工し甚だしきは、認可前において既に工事の相当程度を完了しているという例も見受けられるが、斯くの如きは河川管理官庁として誠に遺憾に堪えない次第であって一朝問題が起るときは河川管理者としての由々しき責任問題に迄発展する可能性なしとしないので爾今は絶対斯かることのない様厳重に監督されたい。 

 かなり強い文調に当時の建設省の苦悩が見られる。旧河川法でも計画変更には大臣の認可が求められたのである。今なら認可前に工事をすると、河川法違反で水利権取り消しもあり、罰則規定で懲役・罰金が課せられるところであるが、当時は中央省庁の目が行き届かなかったのかも知れない。この通達の5年後の清津川発電所建設時、その放水路は下流湯沢発電所に直結されたのだが、この時の湯沢発電所の増設許可書は国交省に問い合わせても存在しない。しかも東電が既許可とする「幻の文書(許可書の日付と番号だけがある)」の許可日は、その申請書の日付より早く、辻褄が合わない。中央からのこんな通達など何の効き目もなく、地方ではやりたい放題に工事は進んでいたのだろう。また、通達では事務処理を迅速に行うよう追記しているが、当時の諸事情から考えると、事務能力の不足ではなく、故意に事務を進めなかった疑いがある。流域の既得水利権との折衝で時間がかかることが予測される場合は、先に工事をして事後承諾を求めたと考えるほうが自然である。
 現にこの「幻の文書」の許可内容の下流への照会は、施設ができてから1年後に県農地部長(?本来なら土木部河川課があたる)によるものであった。この時の照会文書の最後の一行が傑作である。「大正12年に東京電灯鰍ニ協議の際の契約書を添付願います」というものだ。
つまり、「36年前に中里村は将来にわたって取水量に異議を申し立てないと約束したんだろう?黙っていろ」ということだ。
 しかし、断りない上流施設の増設に下流中里村長は「関係住民の絶対に忍び難い問題であり、最小限、現水量を確保することはこれまた絶対の要請である」と同意していない。

 この時に水利調停が行われた記録もない。県の河川課がどのような水利権管理をしていたのか保存すべき許認可書類が保存されていないことからも推して知るべしだが、「できちゃった結婚」の如く「できちゃったから認めろ」という先に造った者が勝ちの時代だったのだ。このようにして成り立った水利権は現在もそのまま存続し、今年更新を迎えようとしている。

このページのトップへ


水力発電今昔物語 第3話 「授業を休んでも残る学籍?水利権」 05/07/06(水)21:08:46
 年寄りが清津川のことを話すと決まったように「オラが子どもん頃はげぇに水があった」とか「若ぇ頃は、ごうぎ魚が獲れた」と言う。80年以上前の記憶がある人は少ないはずなのに、いつ頃まで清津川が川らしくあったのかと不思議だった。いくつかの聞き取りをするうちに大正12年の次に、どうやら昭和30年代が清津川の変わり目だったことが浮かんでくる。

 河川全集第1巻(建設省河川研究会著)では、昭和30年当時東京電力所有の遊休水利権(未開発水利権)が全国で40件ある。清津川でも山口達太郎氏から無償譲渡された湯沢発電所の水利権の他に、大正14年に東京電力は清津川上流に4件の水利権を許可されている。これらの水利権の成り立ちに下流への照会や了解があったという記録はない。

 4件の水利権は遊休水利権(未開発水利権)として30年以上失効とならず存在しており、清津川発電所竣工後もどのように処理されたのか定かでない。水利権の許可が出ると6ヶ月〜1年内に工事認可申請を出さねば権利は失効する。しかし資金調達や電力需要がない場合、企業者は開発の準備が整うまで、工事実施の認可が延引することを希望し、河川管理者もこの希望に暗黙のうちに応えて、認可の処分を保留する。
 清津川の場合、昭和28年新潟日報記事(湯沢町史)によると「大正年間東京電灯時代から計画されていたが、採算が取れぬために今日まで見送ってきたもの」とあり、明らかに権利を引き伸ばしてきたことがわかる。このようにしてできた未開発水利権は、許可はあるものの実際に発電をしていない権利で、何十年も存在し続ける「授業を休んでも残る学籍」のようなものだった。
 しかし、戦後復興に電力が必要となり、水利権の価値が高くなると状況が変わってくる。たとえ使っていなくても上流に水利権が存在すれば、下流で新たに申請者があっても許可できない。昭和25年、建設省は円滑なる電源開発の障害として都道府県に、水利権者が工事に着工しないなら台帳から抹殺するよう通達を出している。更に昭和28年、建設省が知事に宛てた資料で興味深いのは「電源開発促進の見地から、開設・増設したものは河川占用料を3年間半額にする」というのがあり、「今ならお得!」とばかりに飴と鞭で水利権者の尻を叩いた様子がうかがえる。その結果、昭和30年代は発電所建設ラッシュとなり、各河川の様相は様変わりすることとなる。清津川も例外ではなく、昭和33年に湯沢発電所の上流に清津川発電所が竣工し、この頃を前後して清津川の水量は減っていった。
 なお、現在の国交省(水利権実務一問一答)では「遊休水利権は、実態上の水利を伴わない為にその権益を保護する理由がなく、許可期限の満了を持って許可が失効する」とされていることを加筆しておく。

このページのトップへ


水力発電今昔物語 「知らぬ間に太った取水量」 藤ノ木信子 05/04/11(月)09:11:25
第2話 「知らぬ間に太った取水量」

 古来、清津川の水は流域の灌漑用水として利用されており、記録に残るものでは江戸時代、庄屋五郎兵衛による桔梗ヶ原開田の水路隋道掘削が知られている。
水力発電用水として最初に許可を取ったのは、大正3年、資産家であった長岡市のカーバイト工場経営者山口達太郎氏らで、自家発電のため100立方尺(2.78トン)の水利権を取得した。
 三俣地点で最大100立方尺を取水し、山中をトンネルで導水して、流域の異なる湯沢村にて発電後、魚野川に放流するもので、つくられた電力は「東京に送電」とされている。
流域変更を伴う導水については、発電効率を考えて一気に落差の取れるよう計画されるものであるが、大正2年、同意を求められた清津川下流の田沢普通水利組合は「下流地区の水利の影響を考慮せず漫然と応諾した」と村史には記されている。

 この頃の年表を調べると、当時田沢村(現中里地区)は度重なる洪水に見舞われており、少しでも水害が軽減されることを期したものと思われる。
しかし、水利権取得から竣工までの10年間に2回(大正4年・5年)の計画変更を経て、取水量は220立方尺(6.121トン)に膨れ上がった。この変更に下流の応諾があったという資料は見当たらない。
 取水量は導水設備や水車の容量に合わせてもっとも効率よく稼動できるよう設定されたため、この頃の許認可は何度もの変更を伴うことが多い。
山口一族は産業振興・教育に尽くし、何人もの県会議員を出す地域の有力者であったらしく、この水利権も大正6年に東京電灯鰍ノ無償で譲渡された。

 当時発電は国策であり国の発展のため寄与したのである。かくして大正12年、湯沢発電所の取水が始まると、2.2倍にも膨らんだ取水量のため、下流の灌漑用水の取水は困難になっており、清津川の渇水はここから80年続いている。
 田沢村では県知事に陳情し、東京電力と田沢村の間で調停が行われ、取水困難となった灌漑施設の改修費として1万5千円を受け取り、少ない流量を何とか取水できるよう取水堤工事をした。

 「将来にわたって取水量に意義を申し立てない」という条項はこの時の調停書にある。
この時点では、魚野川沿川の農業取水については両水系の郡・町・村史に一切の記録は見当たらず、南魚沼の農業用水と清津川発電取水はまったく無関係である。水利権の更新は、その権利が時局に合っているかを見直すためにある。
 80年前の一条が現在の公序良俗に合致するかどうかは、世論が決めることではないか。

このページのトップへ


水力発電今昔物語  (人と川の関係を考える) 藤ノ木信子 05/04/11(月)09:02:26
 新しい気持ちで十日町市の誕生を迎え、新市の皆様に中里地区が取組んできた清津川分水問題へのご理解を深めて頂けますように、県立文書館・国交省保管資料・郡町村史などから、清津川にまつわる水力発電の河川史を紐解くことにしました。この連載が人と川の関係を考えるきっかけになれば幸いです。

 第1話 「昔の議会は偉かった」

 県立文書館の大正時代の資料によると、大正78年頃の新潟県の財政は逼迫しており、更に大正15年には洪水の為多くの橋や道路が流された。その改修費に困った県議会では臨時議会を開き、発電水利権の占用料徴収方法の変更を提案し、建設大臣に要望している。県も「水利権だけを取得して実際に発電していない遊休水利権」についても占用料を課せないか、他府県に照会している。
 当時の考え方は、平常時に河川の恵みを受けて発電をしている者は、当然、非常時には河川設備の改修に尽くさねばならないというものであった。また、権利だけを取得しているものも、弾力ある水利用に支障をきたすものであり、流水を使っていなくても当然使用量を払うべきではないか?という考えで、水の利用に地元への感謝や他の水利権者への配慮が求められた。

 さて、昨年大きな被害のあった7.13水害や中越大震災において、大正時代と同じような取り組みをすると、長年、信濃川水系の水の恩恵を受け利益をあげている東京電力やJR東日本は、すすんで復興に尽くさねばならないがどうであろうか。JR東日本は自らの施設が被災し、県民への配慮どころではなく、復旧までの占用料免除を申し出るだろう。

 東電は大きな被害を免れ、発電不可能となったJRに売電し、電力供給に貢献している(一人勝ちとなっている)。多少の見舞金や物質援助はあるが、この際、県議会で発電取水の占用料について災害復興特別条例を提案しても良いのではないだろうか?

 現在の占用料は平成11年に国が定めた基準に基づいて地方自治体が条例で決めており、それぞれの地域の事情に関わらず全国一律(国が定める限度額)である。しかし売電額に比べ原価が格段に安い占用料(湯沢発電所の試算では約3〜4%)は、災害改修費として一定期間値上げの大臣要望をしてみてはどうか。  国も「占用料は河川の管理に要する費用に充当するよう配慮すること」としている。電力会社にとっても「災害に乗じて儲けている」と揶揄されないよい案だと思う。

このページのトップへ