0歳教育関係へ
早教育と天才 2
日本で始めて出版された早期教育の本
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〔1 はじめに〕
〔2 早教育は英才をつくる〕
〔§1 ハーヴァード大学の例〕
〔§2 過去の例=カール・ヴィッテ〕
〔§3 その他の早教育の例〕
〔§4 なぜ早教育は英才か〕
〔3 カール・ヴィッテの教育〕
〔§1 カール・ヴィッテの教育〕
〔§2 ヴィッテの結婚論と教育論〕
〔§3 能力涵養の基本〕
〔§4 三歳半ころから読書を教えた〕
〔§5 全方位の教育〕
〔§6 教育の底流は見聞を広めること〕
〔§7 玩具とおもちゃ〕
〔§8 食べ過ぎは、健康にも頭のためにも害になる〕
〔§9 勉強の時間と遊びの時間は、厳格に区別していた〕
〔§10 徳・知・健康・の教育〕
〔§11 厳格な自制心〕
〔§12 ヴィッテの父の躾け方は、合理的なものだった〕
〔§13 朱に交われば赤くなる=環境への順応がすべてを規定する〕
〔§14 善行を勧める〕
〔§15 善行と単なる知識・その一〕
〔§16 善行と単なる知識・その二〕
〔§17 知徳体のバランス〕
〔§18 七歳から十歳〕
〔§19 十歳から十八歳〕
〔§20 『カール・ヴィッテの教育』は善行を求めた真心〕
3 カール・ヴィッテの教育
§10 徳・知・健康・の教育
ヴィッテの教育をあまり主知的だと考えるかも知れないが、実は決してそうではなかった。彼は言っている。
人々は、私が学者をつくる方針で息子を教育したと思っている。はなはだしいのは、神童をこしらえて、世人を驚かす考えで息子を教育したと思っている。これは非常な誤解である。
私は息子を、ただ円満な人に育て上げようと考えた。だからありったけの知恵をしぼって、事情の許す限り、彼を健全な、活動的な、幸福な青年に育て上げようと努めた。
私は身体においても精神においても、円満に発達した人が好きであって、一方に偏した、いわゆる学者は嫌いである。だから私は、息子がギリシャ語だけに熱中したり、ラテン語だけに熱中したり、あるいは数学だけに熱中したりした時は、早速その矯正策を講じた。
人々は、私が息子の頭だけを教育したと思っているが、これは誤りである。
私は妻と協力して、息子の常識、想像力、趣味等の涵養に苦労した。私は趣味や常識のない人は嫌いである。私はまた息子の好悪が、一時的な気分や感情によってでなく、高い道義と深い敬虔な心によって規定されるようにしようと努めた。私はいわゆる学者は嫌いである。血のまわりの悪い枯れ木のような人、無愛想で親しみにくい人、これがいわゆる学者である。知っていることはこれっぱかしの専門だけで、誰に対しても、どこに行っても、その専門をふりまわす。人が迷惑しようが、どうしようが構わない。そのくせ常識のないことおびただしく、時事問題などに低能児的な判断を下して、世間のもの笑いになる。これがいわゆる学者である。
また、彼らのしゃべったり書いたりすることは、耳とおい学術語や難解なおどし文句ばかりで、さっぱり訳がわからない。彼らは常識や趣味の発達した青年を、俗物と言って一こなしにする。彼らはよく、あの男は交際がうまいし、詩を作ったりするから、とうていろくな学者になるまいなどという。これと反対に、例のものすごく難解な学術語を羅列し、誰それいわくを連発して、おもしろくないこと砂を噛むごとく、長々しくしゃべりたてる。本人のほかには誰にもわからない文章をかく青年をみると、これは偉い、これは物になると感心する。
ある大学教授のごときは、学生に「諸君はギリシャ語とラテン語さえ学べばたくさんだ。いわゆる科学や外国語などは、お茶のみ話をしながらでも覚えられるものだ」というのが常であった。彼らはこういう偏狭者である。また彼らの性格は「学者の嫉妬」とか「学者の傲慢」とか「大学の暗闘」などという言葉があるのに照らしてもわかる。
私は何で息子を学者にしようなどと考えるものか。まして私は神童をこしらえて、世人を驚かそうとしたなどというのは、もってのほかの誣言(ないことをあることのように、いつわりいうこと)である。神童とは何だ。鉢植えの室咲きではないか。もし息子を神童にしようなどと企てたなら、私は人の子を賊した(そこなう)者である。神のみ業を冒した者である。
当時の人々は外観だけをみて、ヴィッテの教育をはなはだしく主知的なものだと考えたが、ヴィッテの父が述べているように、彼の教育は決して主知的なものではなかった。円満な人をつくるのが、父の理想であった。特に力をいれたのは、知育よりもむしろ徳育であった。だから人々は彼を「天使のように純潔」だというほどになった。
§11 厳格な自制心
食べものをこぼした時は、罰としてパンと塩のほかは何も食べてはならないという規則があった。六歳の子の自制をみて、E牧師の家のものにはとても不思議であった。もし、東京の市街は不規則だからといって、当局者が市区改正を厳重に励行したら、市民は非常に苦痛であろう。しかし札幌などは、広野のまんなかにまず街路をつけて、それから家が建ったのであるから、市区は碁盤の目のように整然としているけれども、市民になんらの苦痛もない。子どもの躾もこんなものである。初めからしっかりやりさえすれば、子どもはいささかの苦痛も感じない。子どもの躾は、煉瓦を積みあげるように、土台からしっかりやらなければならない。ヴィッテの父はここを実にうまくやったのである。
彼の子どもの躾け方の根本原理は、「否はあくまでも否とせよ」というごく自然な合理的なものであった。世間いっぱんの親のやり方は、「いけない」ことはきわめて気まぐれで、終始一貫していない。子どもの躾が難しくなるのは、この観念の結果である。
(子どもは、生まれてからの見たもの聞いたことを、全て土台として、自分の価値判断の基準にしている。だから見られてもいい、聞かれてもいいという生活をまわりの者がしていくことしかない)
従って、子どもをよく躾るには、親たるものは全ての善悪にたいして、首尾一貫した定見を持っていなくてはならない。無定見は子どもの教育にも大禁物である。また父と母が、同意見でなければならない。ヴィッテの父は、よくここに注意した。彼は知育においても、体育においても、つねに妻と協力してやった。慈母厳父というが、もしこれが二人の意見が違うようなら、結果は子どもを判断の迷路にたたせることとなる。
§12 ヴィッテの父の躾け方は、合理的なものだった
ヴィッテの父の躾け方は、厳格であったが決して専制ではなかった。専制とは盲従を強いることである。ヴィッテの父は専制を排し、常に合理的ということを重んじた。
子どもの理性を曇らせないこと、子どもの判断力を狂わせないことを、教育上もっとも大切なこととした。子どもを叱るのに、子どもがなぜ叱られるのか判らないような叱り方をしなかった。親が事実を見誤って子どもを不当に叱ることは、教育上きわめて悪いことである。また親の叱責や禁止が正当であっても、子どもがその理由が判らなくてはやはりよくない。しかし、これは世間によくあることである。これすなわち専制であって、子どもの理性を曇らせ、判断力を狂わせることとなる。具体的にヴィッテの父は、次のように述べている。
息子が無遠慮なことをいいなどすれば、私は即座に叱ることをしないで、「息子は田舎者ですから、こんなことをいうのです。どうぞ悪く思わないでください」などといっておく。すると息子は、これは悪いことと悟って、必ず後になってからその理由を質問する。そのとき私ははじめて「お前のいったことは全く本当だ。お父さんもそれを認める。しかしそれを、人の前でいうことはよくない。お前があんなことをいったものだから、Nさんは恥ずかしがって、顔を赤くしたではないか。Nさんはお前を可愛がっているし、お父さんに遠慮しているから、黙っていたけれども、よほど気を悪くしたにちがいない。Nさんはその後何もいわないで黙っていたが、あれはお前があんなことを言ったからである」というふうに説明して聞かせる。こうして彼の判断力を傷つけないように努める。
これくらい説明して聞かせれば、息子はたいてい自分の悪かった理由を悟るが、私の教育法を知らせるために、かりに息子が「でも僕の言ったことは本当ですもの」などと言ったとしよう。そういう時は、私はさらに、「なるほどお前の言ったことは確かに本当だ。しかしNさんはNさんの考えがあって、ああしたかも知れないではないか。Nさんは『私には私の考えがあるんだ。お前のような子どもの知ったことではない』と考えているかも知れないではないか。またお前の言ったことが本当だとしても、お前がそれを言わなければならない理由はない。あのことはほかの人も皆知っていたのだ。しかし、ほかの人は皆黙っていたではないか。あのことをお前だけが知っていたのだと思うなら、お前はまだ十分賢くないのだ。反対に、ほかの人がお前のあらやあやまちを探して、人の前でそれをすっば抜いたらどうだ。お前はそれでもよいか。しかしそれはあまり大したことではない。なぜかと言えば、大人が子どものあやまちを咎めるのは当然のことだから。どうせ子どもにはあやまちがたくさんある。だから子どもはあやまちを数えられても、恥にも何にもならない。それでも人々は、お前のあやまちを知らないふうをしているではないか。お前は人々が、お前のあやまちを知らないでいると思っているなら大違いである。人々はお前のあやまちを知っていても、お前のためを思って黙っているのだ。お前を辱しめたくないから黙っているのだ。しかし人々は、お前のあやまちはいくらでも知っているのだ。それでお前は、人々の親切が分かるだろう。それならお前もそうしなければならない。聖書にも、『人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりせよ』と、あるではないか。本当だからといって、他人のあらや失敗を人の前で言うことは断じて悪いことだ」
というふうに息子が納得するように説明して聞かせるのである。
しかし、息子が ーこんなことは決してないがー まだ納得しかねて、「それでは嘘を言わなければならないんですか」などと言ったとすれば、私はさらに、「いや、嘘を言うのでない。嘘を言えばお前は嘘つきだ。偽善者だ。嘘を言う必要はない。ただ黙っていさえすればよいのだ。もし、すべての人が、互いにほかの人のあらや失敗を拾って、それを人の前に吹聴したなら、この世の中はけんかだらけの世の中となってしまうだろう。そうしてわれわれは、安心して暮しておれなくなるだろう」というふうに、息子が納得するまで、どこまででも説明して聞かせるのである。しかし息子は、こんなにくどく説明して聞かせなくとも、たいてい初めの説明で自分の悪かった理由を悟って、「これからは決してあんなことは言いません」と、目に涙を浮かべながら約束する。
ヴィッテの父の躾け方はこんなふうであった。彼の躾け方はこのように合理的であったから、決して専制ではなかった。だから子どもの理性を曇らせたり、判断を狂わせたりすることがなかった。ヴィッテは言葉をたくさん知っているし、訳がわかっているので、父の訓戒がよくわかった。
子どもに早くから言葉を豊富に教えることの必要な理由は、躾けのことをみても分かるであろう。
§13 朱に交われば赤くなる=環境への順応がすべてを規定する
友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱
喜怒哀楽すべての洞察ができる実体験のために、幼児のとき多くの友達と生活をともにして遊ぶことは必要なことである、と殆どの親は思っている。だが幼児集団はよい環境かといえば、多くの場合そうではない。
類は友を呼ぶという例えがあるが、幼児にそれを求めることは間違っている。善悪すべてを取り入れるし、善悪すべてに反応して自己体験を積み重ねていく。
環境への順応は、植物の生態観察の結果をみても分かるはずである。大根を栽培していて分かるように、間引きや追肥、散水など手を加えてよい環境にしていくと、よい大根ができるではないか。
ヴィッテの父はこう述べている。
私は目のつぶれた子どもや、鼻の欠けた子どもや、指の欠けた子どもや、足がわるい子どもを見ると、よくその原因を尋ねてみるが、それはたいてい遊び中のけがによることを聞いてぞっとする。
と言っている。こういう訳だから、彼はヴィッテを決して野放しにしなかったが、彼はそればかりでなく、ヴィッテをほかの子どもと遊ばせることさえあまりしなかった。このことに関して彼はこう言っている。
人々が重ねがさね、子どもは遊び友達がいなくてはいけない。遊び友達がないと、子どもに楽しみがない。その結果子どもは、不機嫌になつて強情になると勧めるので、私はついに自分の主義を曲げ、妻と相談して、つぎつぎに二人の少女を息子の遊び友達に選んだ。これらの少女は、近所で最も躾のよい者であったし、唱歌やダンスが上手で、息子は彼女らと楽しく遊んだ。ところが私が思ったとおり、その結果はよくなかった。彼女らと遊ばせてから、決して強情でなかった息子が強情になり、決して嘘を言わなかった息子が嘘を言うようになった。また、下品なことばを使うようになり、わがままで倣慢になった。これは少女らが、何事にも彼に逆らうことがなかったからである。それでわれわれは、少女らに、あまり息子の言う通りになってくれるな、息子があまりわがままだったら、知らせてくれと頼んだがだめであった。だから私は、再び息子をほかの子どもと遊ばせないことにした。
いったい子どもがほかの子どもと遊ばなければ、楽しみがないと思う考えは、きわめて間違った考えである。なるほど子どもは、子どもらだけで遊べば、言いたいことを言い、したいことをし、勝手気ままができるから、それを好むのは当然である。人々はこういうことを、子どもの楽しみというのだろう。しかしこんな楽しみは、むしろ無い方がよい。われわれが子どものような心になって、一緒に遊んでやれば、子どもは楽しく、しかも無害有益に遊ぶことができる。そうして、強情になったり、わがままになったり、意地悪になったり、悪習に陥ったりしない利益がある。子どもらだけで遊ぶことは、相手が良くとも弊害があるが、相手が悪ければ、その弊害はますますはなはだしい。良い子どもの良い習慣が、悪い子どもにうつるものならよいが、そういうことは決してなく、ただ悪い子どもの悪習だけが、非常な速力をもって良い子どもに伝染する。思うに、良い習慣は、努力と自制を要するけれども、悪い習慣は、何の努力もなく覚えることができるからである。だから学校というものは、この意味において、子どもの悪習の持ち寄り場であって、非常に危険な所である。そうしてその危険は、生徒の質の悪い学校において特にはなはだしい。だから家庭で学課を十分に授けることができるなら、子どもは学校にやりたくないものである。しかしこれは、多くの家庭では不可能なことであるから、学校ではできる限りこの点に注意して、生徒の遊び時間には、十分に監督してもらいたいものである。
これは余談であるが、とにかく子どもは、遊び友達がなければわがままになるとか、強情になるとかいうのは嘘であって、その反対こそ真である。子どもだけで遊ばせておくと、彼らは互いに我を張り合って利己主義になり、その結果狡猾、偽り、嘘言、強情、嫉妬、憎しみ、倣慢、悪口、争論、けんか、そしり、讒言等の悪徳を覚える。しかし私は、子どもは絶対的に他の子どもと遊ばせない方がよいというのではない。時々、親の監督の下に交際させるのである。時々の交際であれば、互いに遠慮して狎れ合わないから弊害がない。私は息子の交際をこのように制限したが、その結果は非常に良好であった。息子はいろいろな悪習に馴染んでいないから、決してほかの子どもと争ったり、けんかしたりすることがなかった。たとえ他の子どもが意地悪く当っても、巧みにそれを避けるのが常であった。だから息子と交際した子どもは、すぐに息子が好きになった。私は息子をいろいろな所に連れて行ったが、帰る時はその子どもらが、泣きの涙で別れを惜しむょうなことがしばしばあつた。
息子は家庭で争いというものをする機会がなかったから、ほかの子どものようにたやすく激するということがなかった。どんな意地の悪い子どもでも、息子を怒らすことができなかった。だから息子は、たいていな子どもに好かれて、決して争いはしなかった。私は息子が十八歳の今日まで、未だかつて人と争ったのを知らない。大学在学中は学問上のことで、学友と意見をたたかわすことがしばしばあったが、息子は決して彼らの感情を害したことがなかった。しかも息子は学友に比べれば、はるかに年下であったから、そういう危険がしばしばあつたのである。しかし息子は、常に理に服し真に従ったから、自然と多くの友を得た。そうして彼らのある者は、息子と非常に親密であって、私はこれを見てしばしば涙を流した。私はこれらの親切な青年に、心からの感謝をささげる。とにかく私は私の経験から、子どもは遊び友達がなくては楽しみがない、その結果不機嫌になって、強情になるという考えは誤りだと断言する。そうして、子どもは子ども同士で遊ぶことを好むから、そうさせなければならないという説に至っては、僻論もはなはだしいものである。
§14 善行を勧める
善行を勧める古今のいろいろな話を語って聞かせた。ヴィッテがよいことをすると「よし、よくやった」と褒めたが、決して過度にならないように気をつけた。自惚れを起こさせないためである。
ヴィッテの善行録をつくり、きろくをして永く記念するようにした。幼いヴィッテは一生懸命努力した。しかし父がもっとも努力したのが、ヴィッテが善行そのものを楽しむようにすることであった。善行したときの喜び、己に克ったときの喜び、これらの喜びの味を覚えさせることであった。
またしばしば、悪事を行った者の話をしたが、その批判はきわめて峻烈であった。これも、ヴィッテに善行を勧める手段であった。
しかし、善行を勧める手段と、勉強を勧める手段は少し違っていた。一言で言えば、彼の方針は、「勉強はわれわれにこの世の幸福をもたらす。しかし善行はわれわれに神の嘉賞を与える」ということを知らせることであった。だからヴィッテがよく勉強すれば、一日一ぺニヒの報酬を与えた。しかしよく勉強しても、行為に過ちがあれば、その一ペニヒの報酬は与えなかった。ヴィッテの父はこんなことも書いている。
時々、息子のほうから、「お父さん、私は今日は間違いをしましたから、お金はいただきません」などと言うことがあった。私はこういう時は、うれしくて報酬を二倍も与えたい気がした。しかし、ここぞ息子のためと思って、「そうだったか、お父さんは知らなかった。それでは明日善いことをしてくれ」などと、うれし涙を制しながら冷静に言うのであったが、実につらかった。しかし、こういう時は何気なく接吻してやるのが常であった。
金をくれて奨励しながら勉強させたと言えば、諸君はおかしく思うかも知れないがこれは、「勉強はわれわれにこの世の幸福をもたらす」ということを知らせるためであった。彼は、「恥かしいことだが、私は息子がよく勉強した日は、一日一ぺニヒずつ与えた。しかしこのことは、報酬を得ることのいかに困難であるかを息子に知らせる効果があった」と書いている。それでは、その与えた金はどうしたかというと、それをできるだけ賢く使う方法を習わせた。すなわちヴィッテは、菓子ゃ何かを買えば、それはつまらなくなってしまうが、書籍や道具を買えば永く役に立つ。また、クリスマスなどに友達や貧家の子供に贈り物をやりなどすれば、彼らは非常に喜ぶということを覚えさせた。
近所に災難などがあれば、ヴィッテの父はいつも不相応に見舞いをするのが常であったが、こういう時には、ヴィッテも自分の貯金から、これに出金するのが常であった。すると父は、「カールよくやった。お前の見舞金はわずかだが、あの貧しい見舞金はわずかだが、あの貧しい寡婦のレプタのように値うちがある」と言って褒めるのであった。貧しい寡婦のレプタの話とは、聖書の中の話である。マルコ伝十二章の終りに、
イエスは、さいせん箱に向って坐り、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちは、たくさんの金を投げ入れた。ところが、ひとりの貧しい寡婦がきて、レプタ二つを入れた。それは一コラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく聞きなさい。あの貧しい寡婦は、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、誰よりもたくさん入れたのだ。みんなの者は、あり余る中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。」
とある。このようにヴィッテの父は、聖書中の話や、古今のいろいろな話や、詩中の話等を引き合いに出して、ヴィッテの善行を勧めるのが常であった。彼はこのために、ヴィッテに幼い時から、これらの話をよく覚えさせたのであった。だから彼が、「カール、誰それはこういう時どうしたか」と言えば、ヴィッテは直ちに悟って、あるいは悪事を止め、あるいは善行を励むのであった。ヴィッテの父はヴィッテの勉強を励ますために、また、こんな無邪気なこともやった。それはヴィッテが一冊の本の稽古を終えたり、訳読を終えたりすれば、これを非常な重大事として、その著者の名を呼んで、「ホーマー万歳」とか、「ヴエルギリウス万歳」とかと二人で叫ぶのである。すると母が入ってきて、「おめでとう」とお祝いを述べる。次に町に買物に行って、いろいろな物を買って来て、ヴィッテの好きな御馳走を作り、出入の親友を二、三人呼んで晩餐会を開く。席上父は、「今度の本はかなりむずかしい本だったけれど、カールは非常な勉強と忍耐をもって、ついに読み通した。そのためには学力はよほど進んだようである。これからは、誰それの書いた何々という本を読むつもりであるが、その本はこういう本である」というふうに、その本の説明をする。すると人々は、「それはおめでとう」とお祝いを述べ、次にヴィッテにその読み終った本のことを尋ねる。するとヴィッテは、その本のあらすじを述べたり、その中の一部を話したりする。こうして晩餐会は、「神様、あなたが与えてくださつたよき父母と、健康と力と、その他いろいろのお恵みによって、このように学問をすることができますことを感謝します」というような、神に対するヴイッテの感謝をもって終るのであった。
§15 善行と単なる知識・その一
ヴィッテの父は、ヴィッテが勉強した時は金を与えたが、善行に対しては決して金品を与えなかった。そのかわり、それを「行為録」に書き留めた。また勉強した時よりもよけいに褒めた。いったい彼は、子供をあまり褒めなかった。讃辞も乱用すれば、その効がなくなるからである。だからヴィッテが非常に勉強した時でも、「ああ、よくやった」とぐらいしか言わなかった。しかし善行をした時は、「よしよし、よくやった。神様はさぞお喜びになるだろう」というふうに言う。しかし決して褒め過ぎることはしなかった。ヴィッテが非常な善行をした時は、抱き上げて接吻するのであったが、こういうことはめったになかった。だから父の接吻は、ヴィッテに非常に高価なものであった。このようにしてヴィッテの父は、ヴィッテの心に、善行の報いは善行そのものの楽しみである、また神の嘉賞であるという考えを注ぎ込もうと努めた。ヴィッテの父がこのように、ヴィッテを褒め過ぎないように注意したのは、自負心を起こさせないためであった。彼は子供が自負心を起こしたら、後はだめだと考えた。彼はグィッテにいろいろなことを教えても、これは物理学上のことだとか、これは化学上のことだとは教えなかった。これはヴィッテを生意気にしないためであった。さきごろ「東京朝日新聞」にこんな記事があった。
『米国の神童来たる 米国の神童として昨今評判の高いプラトリス・ルイス・ウィラマード(八歳)は、親に連れられ、来たる九月十二日横浜入港の天洋丸で来朝のはずであるというが、同女は七歳で高等女学校に入学し、目下二年級在学中である。今回渡来の目的は、世界各国において神童と称せられる者と、その能力を競うためで、日本、中国、インドを経て、欧米諸国へも行く予定であると聞く。』
私はこれを読んで、この少女の親はヴィッテの父と大違いだ。これでは折角の神童を台なしにしてしまわないかと危ぶんだ。早教育によって生じたのではなく、自然に生じた神童には、ほんの病的な一時的現象もあろう。こういう神童は、いかに注意して教育しても、あるいはだめかも知れない。しかし、そうでない神童もあることは確かである。しかも「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人」という諺があるのは、子供の自負心自惚心によるのである。世に自負心ほど恐しいものはない。自負心は英才をも天才をも台なしにしてしまう。ヴィッテの父が恐れたのもこのことであった。
私は『カール・ヴィッテの教育』を読みながら、再三、「世界開闢以来の最大教育者」と叫んだが、ヴィッテの父が、ヴィッテの自負心を予防した苦心は非常なものであったと思う。彼は自分でヴィッテをあまり褒めなかっただけでなく、他人にも決して褒めさせなかった。他人がヴィッテを褒めそうなときは、彼を部屋から出してやって聞かせなかった。そうして、しばしば頼んでも聞き入れない人は、家庭に出入りすることを謝絶した。このために彼は人情を知らないとか、頑固だとかいう悪評まで受けた。しかし彼は非常に意志の強固な人で、そんなことは何とも思わなかつた。彼の意志の強かつたことには感心せざるを得ない。
ヴィッテが少し成長すると、ヴィッテの父は、
『知識は、人の賞讃を博する。しかし善行は神の嘉賞をいただく。世間には無学な人が非常に多い。そうして無学な人は、自分が知識をもたないところから、知識のある人を見ると法外に賞讃する。しかし人の賞讃は気まぐれなもので、得ることも易いが失うことも早い。きわめて不安定なものである。しかし神の嘉賞は、善行を積みに積んで初めて得られるものであるから、得ることはきわめて難しいが、永久不変なものである。だから人の賞讃などは、眼中に置かない方がよい。人の賞讃に喜ぶ者は、同じようにその悪口に悲しまねばならない。たかが人の評判ぐらいに一喜一憂するのは、きわめて愚かなことである。悪口されて悲観する人も愚かであるが、ちょっと褒められて有頂天になる者はさらに愚かである。』
というようことを、絶えず話して間かせた。また、
『人はいかに賢いの、いかに物知りだの、いかに知識があるのといっても、全知全能の神様に比ベれば、九牛の一毛、大海の一粟にも当らない。粟粒ほどの知識を以て慢心する人は、実に哀れむべき人である。』
というようなことや、
『世間のお世辞というものは、掛け値八割なものだ。考えてみればおかしな話だが、この掛け値八割のお世辞というものは世間の習慣だ。だからお世辞を割引きしないでそのまま信じたら、その人はまぬけ者である。』
というようなことを、懇々と話して聞かせた。そうしてヴィッテに自負心を起こさせないようにした。これは非常に困難なことであったが、彼はみごとに成功した。
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