0歳教育関係へ

早教育と天才 3
日本で始めて出版された早期教育の本

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   〔1 はじめに〕
   〔2 早教育は英才をつくる〕
      〔§1  ハーヴァード大学の例〕
      〔§2  過去の例=カール・ヴィッテ〕
      〔§3  その他の早教育の例〕
      〔§4  なぜ早教育は英才か〕
   〔3 カール・ヴィッテの教育〕
      〔§1  カール・ヴィッテの教育〕
      〔§2  ヴィッテの結婚論と教育論〕
      〔§3  能力涵養の基本〕
      〔§4  三歳半ころから読書を教えた〕
      〔§5  全方位の教育〕
      〔§6  教育の底流は見聞を広めること〕
      〔§7  玩具とおもちゃ〕
      〔§8  食べ過ぎは、健康にも頭のためにも害になる〕
      〔§9  勉強の時間と遊びの時間は、厳格に区別していた〕
   〔3 カール・ヴィッテの教育〕
      〔§10  徳・知・健康・の教育〕
      〔§11  厳格な自制心〕
      〔§12  ヴィッテの父の躾け方は、合理的なものだった〕
      〔§13  朱に交われば赤くなる=環境への順応がすべてを規定する〕
      〔§14  善行を勧める〕
      〔§15  善行と単なる知識・その一〕
   〔3 カール・ヴィッテの教育〕
      〔§16  善行と単なる知識・その二〕
      〔§17  知徳体のバランス〕
      〔§18  七歳から十歳〕
      〔§19  十歳から十八歳〕
      〔§20  『カール・ヴィッテの教育』は善行を求めた真心〕

3 カール・ヴィッテの教育 

§16 善行と単なる知識・その二

 世に息子くらい人々から讃辞を浴せかけられた子供はあるまい。しかし私はいろいろと苦心した結果、息子はその害に犯されないですんだ。
 ある時、ハレの宗務委員のゼンフ博士が、「君の子は倣慢だろうね」と言うから、私は「いや、少しも傲慢でない」というと、彼は「そんなはずがない。そんな神童で傲慢でないなら、君の子は人間でない。やはり傲慢だろう。傲慢なのが自然だ」といって口をつぐんだ。
 その後私は彼に息子を見せた。彼は息子といろいろな話をしたが、まもなく息子がすっかり気にいってしまった。そして私をかえりみて「いやどうも感心した。君の子は全く傲慢でない。いったいこれは、どういう教育をした結果なんだ」と言う。そこで私は息子に座を立たせて、彼に私の教育法を話して聞かせた。すると彼は、「なるほどそういう教育を施せば、子供が倣慢になるはずがない。いやどうも感心した」と納得した。
 ある時、HというNの督学官が、ゲッチンゲンの親戚の家にやって来た。彼はゲッチンゲンに来る前に、息子のことを人に聞いたり、新聞で読んだりして、かなり詳しく知っていたが、ゲッチンゲンに来てその親戚からさらに詳しく聞いた。なぜなら、その一家はわれわれと親しく交際していて、息子のことをよく知っていたからである。そこでH氏は、息子を試験してみたいと考え、その機会を得るために、その親戚に頼んでわれわれ父子をその家に招待させた。
 私はその招特を承諾して、息子を連れて行ってみると、H氏は息子を試験させてくれと言う。そこで私は例のごとく、「どんなことがあっても決して息子を褒めないこと」を条件として承諾した。H氏は数学が得意だそうで、ほかの試験もするが、特に数学の試験をしたいと言うことであった。私は「褒めないでさえしてくれれば、何の試験をしてもかまいません」と答えて、わざと外に出しておいた息子を呼び入れた。H氏は息子を相手に、世間話から始めてだんだん学問の方に移って行った。そうして、いろいろなことを尋ねて、少なからず満足したふうであったが、ついに得意の数学に入った。すると息子も数学は得意であるから、息子はますます彼を驚かした。息子は一つの問題を、二様にも三様にも、H氏に注文があればその注文通りに解いてみせたので、H氏は思わず讃辞を放ったが、私ににらまれて口をつぐんだ。
 しかし互いに数学が得意な仲であるから、二人は知らず知らず、この学問の奥所に深入りした。そしてついに、H氏の知らないところまで行った。すると彼は思わず、「こりゃ、わたしより学者だわい」と叫んだ。
 私はこれはたいへんだと考えて、「なに、息子はこの半年間、学校で数学の講義を聞いたので、それを忘れないでいるのさ」と水を入れた。するとH氏はついに息子にこう言った。「それでは最後にこの問題を考えてごらん。これはオイレル先生が、三日考えてやっとできたというむずかしい問題です。もし、あなたがこの問題ができたら本当に偉い」
 私はこれを聞いて心配になった。それは、息子がそんなむずかしい問題はできないかも知れないと思ったからでない。もしそんなことを言った問題が、ひょつとしてできたなら、息子がそのために自負心を起こすようになるかも知れないと考えたからである。しかし私は「そういう問題は止めてください」ということもできなかった。なぜなら、H氏はわれわれをよく知っていなかったから、私は息子が、できないのを恐れて、こんなこつを言うのだと思われる恐れがあったからである。それで私は、心配そうな顔をしないで見ていた。

          さて、その問題は、一人の農夫が図のような地面
          を三人の子どもに分け与えようと思うが、その分
          け方は、これを三等分してその各部分が全地面と
          相似形になるようにしたいというのである。

H氏は問題を説明し終ると、息子にこの問題を、前に人から聞くか、本で読むかしたことがあるかと尋ねた。息子が「ない」と答えると、「それでは時間を与えますから、この問題を考えてごらんなさい」と言って、私の手を引いて部屋のうしろの方に退いた。そうして私に、「いくら君の子でもあの問題は、とてもできまい。わしは君の子に、世にはこういうむずかしい問題もあるということを知らせるために、あの問題を出したのだ」と言つた。
 ところがH氏がこれらのことばを言い終るや否や、息子は「できました」と呼んだ。H氏は「そんなはずがない」と言って行ってみると、息子はその分け方を説明して、「この三つの部分は等大で、各部分は全地面と相似形です。これでよいでしょう」と言った。
 するとH氏は、「あなたは、これを前から知っているんでしょう」とにがにがしげに言った。息子はこれを聞いて、くやしそうに目に涙を浮かべながら、「いえ、いえ」と繰り返した。
 これを見て私も黙っていられなくなった。そこで、息子のやつていることは、私はすべて知っているが、この問題は確かに息子に初めてであること、そして息子は決してそんな嘘つきではないことを保証した。するとH氏は、「それでは君の子は、オイレル先生以上の大数学者だ」と言うから、私は彼の手をつねって、「しかし、たまには盲の鳩でも豆をつつき当てることがあるものです。これもそんな偶然でしょうよ」と笑いながら言った。
 するとH氏は私の心を悟って、「なるほどそうです」と、うなずいた。そうして声をひそめて、「いや、君の教育には全く感心した。こういう教育では、子どもはどんなに学問ができても、決して倣慢になるはずがない」と、ささやいた。息子は間もなくほかの人と、快活にほかの話を始めたが、このことがまた深くH氏の気に入ったようであつた。
 (付記)右の問題には間違いがあるようである。右の図の割合は、英訳書のそれによったものであるが、もし、この問題に間違いがないとすれば、これは不可能な問題である。なぜならば、数学的に証明するまでもなく、図のような紙片を三個作って組み合わせて見ると、どう組み合わせても決して図のような形にならないし、またなるはずがないからである。
 しかし、英訳書にはsimilar という語が用いられてあるから、これは相似という意味でなく、もっとルーズに類似という意味ではないかという疑いも起こるが、もし類似という意味なら、この問題は何もむずかしい問題でなく、オイレルが三日も考える必要がないはずである。
 原書の罪か英訳書の罪か分からないが、とにかくこの問題には間違いがある。しかしこれは、ヴィッテの学力を示すための例でなく、彼が倣慢でなかったことを示すための例であるから、こんな間違いはどうでもよいと思う。

§17 知徳体育のバランス

 ヴイッテの父の教育の理想は、彼自らが言っているように、身体においても精神においても、円満な人を造ることであつた。だから彼は知育徳育体育すべてを重んじた。彼の書には、体育のことは特別に書いてない。だから確かなことは分からないが、二人で町や村や野山を歩きまわることが主なことであつたらしい。水泳をやったとか、テニスをやったとか、乗馬をやったとかいうことは見あたらない。しかし体育に注意したことは明らかであって、ヴィッテは子どもとして非常に健康な、元気に満ちた快活な少年であった。そうして一生健康であった。
 しかし、ヴィッテの父は、知育徳育体育の三育を以て足れりとせず、これに趣味の涵養を加えた。そうして、これもきわめて用意周到なもので、彼はまず自分の住宅から始めた。彼の住宅には、無趣味な物は決して置かなかった。また調和ということを重んじて、不調和な物も決して置かなかった。すなわち、壁は気持のよい壁紙を貼り、そこによく注意して選んだ絵の額などをかけ、室内の器具も無趣味なものは一つも置かなかった。また室内に、いわゆる柄にないというような物を決して置かなかった。だから人からいろいろな物を贈られても、自分の家に不調和な物は決して出して置かなかった。衣服も同様であって、いわゆるけばけばしい物は極力排斥し、質素で上品な物だけを用いた。また、だらしのないことを徘斥して、常にさっばりと装っていた。
 次に宅の周囲には、風雅に花壇を作り、春早くから秋おそくまで絶えず花が咲くように、いろいろな花卉を植えておいた。そうしてここにも、無趣味不調和ということを決して許さなかった。
 ヴイッテの父は、またヴィッテの文学趣味を養うことを忘れなかった。その結果ヴィッテは、非常な文学通になり、有名な詩はたいてい暗記していた。彼は決して無趣味な本虫ではなく、早くから詩文を書いた。彼の一生は法学教授であったが、同時にダンテ研究の泰斗であった。そうして最初に博士の学位を得たのは数学によってであった。これを見ても彼がいかに多方而の人であったかが分かるであろう。
 ヴイッテの父は、またヴイッテの感情の陶冶に注意した。ヴィッテが三歳のころ、ある日彼の家に、多くの人が来ていた。彼らはヴィッテを相手にいろいろな話をしていたが、そこに飼い犬がはいって来た。ヴィッテはこれを見ると、子どもがよくするように、その尾をおさえて、自分のそばに引き寄せようとした。すると父はこれを見て、手を差し延べてヴィッテの頭の毛をつかみ、恐しい顔をして引っばつた。ヴィッテが驚いて手を放すと、父も放した。そして言った。「カール、お前はこんなことをされるのが好きか」ヴィッテが赤くなって、「いえ」と言うと、「そんなら犬にもそんなことをするものではない」といって、直ちに彼を室外に出してやった。ここれは一つには刑罰のためであったが、今一つには、ほかの人がヴィッテの肩を持って彼の行為を非難する恐れがあったからであった。そういうことは、非常に非教育的なことだと彼は考えたからであつた。
 ヴイッテの父はこういう教育を施して、ヴィッテに他人の身になって考えてみることを教えたから、ヴイッテは優しい、情深い人になった。彼は同胞に対して同情が深かっただけでなく、鳥や獣に対しても憐みの心が深かった。

§18 七歳から十歳

 こんな教育を受けながら七歳半になると、ヴィッテの学業は驚くべく進歩して、遠近に有名になった。その結果諸方から、いろいろな人が彼を試験に来たが、誰もが舌を巻いて帰ったので、彼の名はますます喧伝されるようになった。
 すると、一八〇八年五月、メルゼブルヒのある学校の教師で、テルチウス・ラントフオークトという人が、自分の学校の生徒を励ましたいから、彼らの前でヴィッテを試験することを許してくれと申し込んできた。ヴィッテの父は、これはヴィッテに自負心を起こさせる危険があると考えて、よほど躊躇したがついに承諾した。しかしヴィッテはまだ子どもであるから、試験するということを、あらかじめ知らせないで試験すること、さらに生徒が決して賞讃のことばを出さないように前もって言い含ておくこと条件とした。ラントフオークトはこれに同意した。そこでラントフオークトは、正式にヴィッテの父を訪問して、自分の学校の生徒を参観して、批評や助言を与えてくれと願った。そこでヴィッテの父は、ヴィッテにこういう招待があるから、行ってみようではないかと言つて、彼をラントフォークトの学校に連れて行った。学校に行くと、ラントフオークトは二人を教室に案内して、後の席にすわらせた。その時はちょうどギリシア語の時間で、教科書は『プルタルコス』であった。生徒らは少なからず苦しんでいたが、ラントフオークトはヴィッテに、生徒らに一つやってみせてくれと願つた。するとヴィッテは、生徒らのできないところをやすやすとやってのけた。そればかりか、他のところも質問に応じて、水の流れるようによどみなくやってのけた。
 そこでラントフオークトは、ラテン語の『シーザー』を渡して質問を試みたが、これも至るところ滞りなくやってのけた。次にラントフォークトは、あるイタリア語の本を出してそれを読ませたが、やはりすらすらとやってのけた。この時父は、イタリア語で何やら口を入れたが、ヴィッテはこれに応じていろいろな話をした。次にラントフォークトは、フランス語の試験をしようと思ったが、教室に適当な本がなかったので、フランス語で話しかけた。するとヴィッテは自国語で話すように、いといとも流暢にいろいろな質問に答えた。次にギリシアの歴史や地理に関して、いろいろな質問があつたが、これも答えられないことがなかった。最後に数学の試験においても、満足な答をして教師と生徒を驚かした。この時ヴィッテは、まだ七歳十カ月にしかならなかった。
 数日たつとこの顛末が、「ハンブルゲル・コレスポンデント」という新聞に詳しく報道された。その記事は、「数日前、当地に教育上驚くべき事件が起きた」という文句で始まって、
 しかしその少年は、決して老人を切っ縮めたような少年でなく、すこぶる健全かつ快活で、しかも柔和無邪気である。その上、こういう少年にありがちな自負心が少しもなく、まるで自分の才能を意識していないようである。この少年はカール・ヴィッテといって、ロヒョウの牧師ヴィッテ博士の一人子である。精神においても身体においても、このように理想的に発達した少年の教育法は、きわめて興味あるものであるが、ヴィッテ博士は遺憾ながらそれを詳説しなかつた。
 というふうに結んであった。するとこの記事は、直ちに諸方の新聞に転載されて、ヴィッテの名は、たちまちドイツ国中に広まった。その結果、ヴィッテを見に来る者がいっそう多くなって、彼はいろいろな学者や教育者に試験されたが、彼らはいずれも噂以上だと言つて帰つた。彼らのうちにはシユッツ、ティーフトルンク、ツェーザル、ベック、マールマンというような当代の一流学者もあった。
 ところでドイツ人には、古来おもしろい気性があつて、学者を非常に尊重する。ドイツの栄えた原因の一つはこれである。それで、ヴィッテの名が天下に知れわたると、ライプツィッヒ大学のある教授と、同市のある有力者とが、ヴィッテを同大学に入学させようと考えて、同市のトマス中学校長ロスト博士に試験してもらったらどうかと、ヴィッテの父に勧めた。ヴィッテの父は、初めはむちゃな試験をされては困ると考えて拒絶したが、再三の勧めについに承諾した。ところがロスト博士は、ヴイッテの父が恐れたような人でなく、きわめて訳の分かった親切な、しかも非常な学者であつた。彼はヴィッテに試験されるという考えを少しも起こさぜないで、談話のうちにうまく試験した。それは一八〇九年十二月十二日のことであった。
 試験が終ると、ロスト博士は証明書を書いて与えたが、その証明書は、
 本日、私は願いによって、カール・ヴィッテという九歳の少年を試験した。私は彼にギリシア語の試験として『イリアス』を数カ所、ラテン語の試験として『アエネイス』を数カ所、イタリア語の試験としてガリニの著書を数カ所、フランス語の試験としてある書を数カ所、いずれも難解なところを読ませたが、いずれもみごとなできばえであつた。彼は単に語学の力ばかりでなく、非常な理解力と非常な知識をもっている。この驚くべき少年は、父ヴィッテ博士の教育の結果だそうだが、その教育法は学者の注意に値すると思う。とにかく、この少年は大学に入学する学力を十分に備えている。だから学問の進歩のために、こういう少年を大学に入学させて学問させることは、きわめて必要なことである。
という意味のものであった。
 ロスト博士の証明書をライプツィッヒ大学に送ると、翌年一月十八日、予想どおり入学を許可された。その日ヴィッテは、父と一緒に同大学に出頭すると、総長キューン博士は非常に喜んで、二人を相手にいろいろな話をした。また同日、市の有力者に、
 ロヒヨウの牧師ヴイッテ博士の子カール・ヴィッテは、まだ九歳の少年に過ぎないが、十八、九歳の青年も及ばないぐらいの知力と学力をもっている。彼は父博士から早教育を受けたのであるが、これを見ると、適当な早教育は、子どもの能力を驚くべき程度に発達させるものであることが分かる。彼はフランス語、イタリア語、ラテン語、英語及びギリシア語の詩や文を、実にみごとに翻訳する。彼は近ごろ、いろいろな学者に試験されたが、誰も舌を巻かない者はなかった。彼はまた国王陛下の前でも試験された。彼の古今の文学、歴史及び地理に関する知識は非常なものである。そうしてこれは、すべて父博士の教育によるのであるが、父博士の教育法も、子の学識に劣らず驚くべきものといわなければならない。
 それでは、この驚くべき少年の健康はどうかというと、彼は多くの神童と違って、きわめて健康で、しかも快活無邪気である。その上、多くの神童に見るような、倣慢なところや横柄なところが少しもない。実に珍しい少年である。だからこの少年を、今後もよく教育すれば、その結果は言うまでもなく明らかである。
 ところがこの少年の父は、収入も少ないし、片田舎のことであるから、今の所にいては、今後の教育はとてもうまく行く訳がない。今までは父が教育したが、今後の教育は父では及ばない。それで家族全部都会に出て、手元に置きながら大学教育を三年ぐらい受けさせたいとは、父博士の希望である。しかしヴィッテ博士は、田舎の貧しい牧師であるから、今の牧職をなげうって都会に出ることは、とうてい不可能である。だから私は諸君に懇願する。ヴィッテ博士は年四マルクぐらいあれば、このライプツィッヒに出て来て、この驚くべき少年を当大学で教育することができるのであるから、願わくはこのために奮って醵金してもらいたい。金額は四マルクずつ三カ年の見当である。
 これは、きわめて美しい事業である。私は、諸君が英才を見殺しにしたという非難を受けてそれに甘んずるものでないと信ずる。なお、ヴィッテ博士は、当地において他人の子どもにも、同様な教育を施してくれるかも知れない。そうすれば教育学上われわれの参考にもなる。とにかく美しい事業であるから、諸君の奮発を希望する。
 という意味の檄を発した。
 その反響は非常なものであった。年四マルクというのに、八マルクの予約ができた。そればかりか、ヴィッテの父のために牧区を作って、二人分の俸給を提供した。だから是非来てくれとのことであった。そこでヴィッテの父は、国王から辞職の許可を得るために、ヴィッテを連れてカッセルに行った。誤解のないように言って置くが、国王とはプロシア王でなく、ウェストファリア王ジェローム(ナポレオン一世の弟)である。一八〇七年ナポレオン一世は、エルベ河の酉の地域に、いわゆるウェストファリア王国を建設して、弟ジェロームをその国王とした。その結果ロヒヨウやハレ地方は、このウエストファリア王国に属することになった。そうして政治はフランス人とドイツ人が共同して行なった。さて、ヴィッテの父がカッセルに行ってみると、国王は旅行中で不在であった。それで翌朝ライストという大官を訪ねると、この人もヴィッテを試験してみて非常に驚いた。彼はヴィッテを三時間ほど試験したが、噂に優って英才なので、これを国外に失うのが惜しくなつた。つまり、ライプツィッヒはサクソニアに属しているからである。彼はヴィッテの父の教育法をいろいろ尋ねたが、結局二人はライプツィッヒに行かないで、国内に止まれとのことであった。
 翌日ライストは、ヴィッテ父子と政府の大官らを晩餐に招待した。ヴィッテはここでも試験されたが、彼らは非常に満足して、相談の結果、国王にライプツィッヒの市民がするだけのことをさせるから、ライプツィッヒに行かないで、ハレ大学かゲッチンゲン大学に行けということであった。しかしヴィッテの父は、それはライプツィッヒ市民の好意に対して済まないからと言って断った。しかし、国王の許可がないので、待ちあぐねながらロヒョウに止まっていると、同年七月二十九日に、ウォルフラットという大官から、
 足下の辞意と令息の非凡な学才を、国王陛下に聞こえ上げたところ、学事に御熱心な陛下は、足下が来たるミケルマス限り、現職を辞めてもよいとご聴許なされ、そして令息が大学を卒業した時は、再び足下の牧区を選定せよと私にご命令を下された。なお陛下は、国内に立派な大学がいくらもあるのであるから、わざわざ国外に行く必要がない、国内で勉強させよ、そうして、外国の世話にならなくともよいように、来たるミケルマスから三年間、年六マルクずつ下賜するから、令息をゲッチンゲン大学で勉強させよと仰せられた。私はこのありがたい思召を足下に伝えることをうれしく思う。また、今後も令息の教育のために、できるだけのことをしようと思う。なお、足下はゲッチンゲンに引き移る準備のために、今からミケルマスまで二カ月間、牧区を留守にして差しつかえない。
 という意味の手紙が来た。

§19 十歳から十八歳

 こういう訳で、ヴィッテはこの年の秋からゲッチンゲン大学に入学し、ここに四年間留まった。この四年間に彼の修めた学科をあげると、一学期には古代史と物理学の講義を聞き、二学期には数学と植物学、三学期には応用数学と博物学、四学期には化学と解析学、五学期には測角学と実験化学及び鉱物学と微積分学、六学期には実用幾何学と光学及び鉱物学の継続とフランス文学、七学期には政治史と再び古代史、八学期には高等数学を継続し、ほかに解析化学、論理学、言語学等の講義を聞いた。在学中、初めのうちは父が学校に同行していろいろな世話をした。それはあまり若年なので、不安心であったからである。
 ヴィッテの大学生活は、余裕綽々であった。十歳前後の少年が、二十歳前後の青年の間に伍して勉強するのであるから、ずいぶん息切れのする生活であったろうと思いのほか、実に余裕綽々で、彼はさかんに遊び、さかんに運動した。彼はよく動物や植物の採集に出かけた。そうかと思うと、絵も描けばピアノも弾く、ダンスもやるという有様であった。それから講義のほかに、古典語と近代語の研究は一日も怠らなかつた。ヴイッテの父は、一八一一年の春、すなわち二学期のできごとをこう書いている。
 復活祭の週の休暇がくると、私は息子を連れて旅行に出かけた。このことは人々を非常に驚かした。思うに彼らは、私がこの週を利用して、一生懸命に息子の復習を助けるだろう。そのためにせつせと図書館にでも通うだろうと予期していたからである。そうして実際私の友人らはそう勧めてくれた。しかし私は、「息子を見世物にするつもりなら、そんなこともいたしましょう。しかし私の目的は、息子を見世物にすることでありません。それで学問よりも息子の健康と見聞が大切です。息子は学問の時間は有り余るほどあります」と答えたが、彼らはこれを諒としてくれた。
 ヴィッテの父はヴィッテの健康を非常に注意して、槍が降ろうが火が降ろうが、戸外運動を日課として必ず励行した。雨の降る日や雪の降る日は散歩だけしたが、吹雪の日などは、途上に二人きりというようなことが珍しくなかった。
 二年目の夏、すなわち二学期の末、国王ジェロームがゲッチンゲン大学に行幸した。国王は校内を隈なく参観して、ついに植物園に行った。ところがヴィッテはこの学期に、植物学の講義を聞いていたので、他の学生と共に植物園にいた。国王の随行者中に、例のライストがいたので、彼はすぐにヴィッテを認めて国王に申し上げた。すると国王は非常に喜んで、ヴィッテと話をしてみたいと言う。そこでヴィッテは国王夫妻の前に呼び出された。同時にヴィッテの父も拝謁を許された。国王は二人を相手にいろいろな話をしたが、今後もよく学業に出精せよと励まし、なおいつまでも保護を与えるから、安心して勉強せよと言い足した。
 二人は畏って国王の前から退くと、随行の貴婦人連が、ばらばらとヴィッテを取り巻いて彼に接吻した。次に二人の将軍が、ヴィッテを中にはさんで国王に従い、国王が馬車に乗るまで送らせた。これはヴィッテが十一歳の時のことである。
 一八一二年の冬、すなわち五学期に、ヴィッテは十二歳で、螺子線に関する論文を書いて公にしたが、学者の間に非常な好評を博した。なお、ヴィッテはその本の中に、自分が発明した曲線を書くための道具を発表したが、非常に便利な物なので、また大好評を得た。七学期は政治史に傾倒したが、それでもその間に、三角術の本を書いた。時に彼は十三歳半であった。しかしこれは、すぐには出版されず、一八一五年、彼がゲッチンゲン大学を去って、ハイデルベルヒ大学にいた時出版された。この年(一八一三年)ヴィッテの父は、国王から、ヴィッテの学費をさらに四年間継続する、そうして勉強はどこの大学に行ってやってもよいという通知を受けた。というのは、前の約束の三年は、この年限りであつたからである。ところが前年のロシア遠征による失脚以来、ナポレオンの勢いが下火になつて、この年十月のライプツィッヒにおける敗戦と共に、ウェストファリア王国は瓦解した。そこでウェストファリア政府はヴィッテを、ハノーヴァー、ブランスウィック、ヘッセンの三政府に推薦した。思うに、ウェストファリア政府の半分はドイツ人であったからである。時は戦乱の世の中で、どこの国も金が足らず、不急なことに金を出すような時代ではなかった。それにもかかわらず、三国の政府はこの推薦に応じて、ヴィッテの学費を分担することを快諾した。これを見ても、当時いかにヴィッテの学才が認められていたかが分かるであろう。ゲッチンゲン大学におけるヴィッテの八学期の学費は、この三政府から出たのであった。
 翌年四月、ヴィッテはヴェッツラルに旅行してギーセン大学を訪れた。すると同大学の哲学科の教授らは、彼を迎えていろいろな学問上の話をしたが、ついに彼の学殖(特に一八一二年に公にした論文の価値)を認めて、学長シャウマン博士は彼に哲学博士の学位を与えた。時に一八一四年四月十日であった。その後マルブルヒ大学を訪れたら、やはり非常な歓迎を受けて、もしギーセン大学に先を越されなかったら、当大学が哲学博士の学位を贈るところだったと言われた。
 ゲッチンゲン大学におけるヴィッテの八学期の学費は、ブランスウィック、ハノーヴアー、ヘッセンの三政府から出ていたから、ヴィッテ父子が学費を受け取りにブランスウィックに行くと、当局者は二人をブランスウィック公に紹介した。すると公は、旅行に出かけようとする間際であったけれども、喜んで二人に面謁を許した。そしていろいろな話をして、熱心に英国留学をすすめ、もしその気があるなら、自分の親族に推薦して、学費を出させようとまで言った。
 同じ理由で、ハノーヴアーにも行ったが、ここでは講演を所望された。思うに、ヴィッテがちょうどその前、ザルツヴェーデルで数学上の講演をして、大喝釆を博したからであった。そこでヴィッテは、何に関する講演をしようかと言うと、彼らはやはり数学上の問題を提出した。そこで交渉を受けた翌日、同地の中学校の大講堂で講演した。これは一八一四年五月三日のことで、彼が十四歳の時であつた。その時の聴衆は、市のあらゆる知識階級を網羅していた。そうしてヴィッテの講演は、立派なドイツ語できわめて流暢、しかもきわめて明瞭であつた。しかし彼は前日、交際のために、遅くまで暇がなかったはずだから、ある人々は不審を起こして、ヴィッテの後に廻つて見た。たぶん、原稿でも読むのかと考えたからであった。そうして、そうでないのを見て再び驚いた。ヴィッテはこれに気がつくと、聴衆の不審を晴らすために、わざとテーブルを離れて講演をつづけた。これを見て人々は一斉に拍手した。大喝釆のうちに講演がすむと、政府はヴイッテの学才を認めて、分担額以上の学費を与えた。そうして、ケンブリッジ公も、ブランスウィック公と同じように、やはり英国に留学するなら、学費の出るように推薦すると言った。また、ヘッセンに行った時も、非常な歓迎を受けて、しばしば宮中に招待された。
 ゲッチンゲン大学の八学期がすむと、ヴィッテの父は、今後はどうしようかと考えた。もし、ヴィッテを早く有名にするつもりなら、これまでやってきた方面に深入りするのが一番得策であるが、それでは一方面に偏した学者になってしまうからいけない。ヴィッテが学ばなければならない方面がまだまだあると考えて、今度は一転して法学をやらせることにした。ある数学教授は非常にこれを惜しんだが、ヴィッテの父は、専門の選定は十八歳後にすべきものだ。それまではあらゆる学問をやらせてみなければならない。十八歳になって、数学が一番好きだったら数学をやらせると言って断った。こうしてヴィッテは、その後ハイデルベルヒ大学に入学して法学を修め、二年後十六歳で法学博士の学位を授けられた。
 同時に彼はベルリン大学の法学教授に任命されたが、教鞭をとる前に、プロシア王からイタリアに留学を命じられた。しかし父は、あまり若くて一人で外国へやるのは心配だからと猶予を乞うて、一八一八年、彼が十八歳になってから初めてイタリアに出発させた。

§20 『カール・ヴィッテの教育』は善行を求めた真心

 ヴィッテの受けた教育は、だいたい右のようなものであったが、そういう教育を受けて、彼の健康はどうであつたろうという人があるかも知れない。これはもっともな疑いであるが、ヴィッテは子どもの時も大人になつてからも、きわめて健康であった。言語学者ハイネが、詩人ヴィーラントに送つた手紙の中にも、ヴィッテが十歳の時、ハイネが彼を試験してその語学の才の非凡さに驚いたこと、しかも彼はきわめて健康快活な少年で、肉体的にも精神的にも少しの異常な点も認められなかったことが書いてある。
 またある人は、ヴィッテはそういう教育を受けては、始終机にばかり坐つていて、楽しいはずの子ども時代が、少しも楽しくなかったろうと考えるかも知れない。しかしこれも決してそうでなかつた。ドライデンのある詩の中に、真理の味のすばらしさには譬えるものがない、これを味わった者は決して忘れることができないという意味の句があるが、早くから真理の味を味わつたヴィッテは、どんな子どもよりも幸福であった。その上、彼の父の施した教育は、すでに述べたようにきわめて賢明なものであったから、彼が机にかじりついている時間はきわめてわずかであった。だから彼はさかんに遊び、さかんに運動する時間をもっていた。
 ヴィッテは早くから物事の訳が分かっていたから、ほかの子どものような聞き分けのないことは決してしなかった。また思慮分別が十分にあったから、ほかの子どもが彼と遊んでもきわめて愉快であった。彼はほかの子どもが足元にも寄りつけないほど知識が進んでいたけれども、少しも倣慢なふうがなく、決してほかの子どもに嫌われるようなことがなかった。それどころか彼と遊べば、親切で愉快で、しゃくにさわる種がなかったから、すべての子どもが彼と遊ぶことを喜んだ。彼はほかの子どもが無理をしても、それを適当にあしらつて、決してそれにたてつくような愚者ではなかった。
 昔から「学者、必ず間ぬけた面っつき」といわれるが、ヴィッテは子どもの時も大人になってからも、決してドライな本虫ではなく、すべての相手に快感を与えた。彼の脈管には早くから文学的鮮血が流れていて、彼は子どもの時から古今の文学に通じていたばかりでなく、自分も早くから、すぐれた詩文を書いた。後にダンテの天才に打たれて、ダンテ研究者となつたのも偶然ではない。彼の人格は、人としても学者としてもきわめて円満であった。

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