11 19(日) 翻訳のソフト |
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11 28(火) いじめ…勧酒 対酒 道樹寺 |
勧 酒 勧君金屈巵 君に勧 スス む金屈巵 キンクツシ 満酌不須辞 満酌 マンシャク 辞するを須 モチ いず 花發多風雨 花發 ヒラ けば風雨多し 人生足別離 人生別離 ベツリ 足る ※金屈巵=黄金製の盃の一種で、椀ような形に柄がついていてそれを持って飲む贅沢な酒器。 ※不須辞=辞退する必要はない。 ※足=たっぷりあること。多いこと。「足るを知らざる者は富むといえども貧し」 于武陵 (晩唐の人) 杜曲(長安の南)の人。名は業という字にオオザトを書いて“ぎょう” と読む。通常は字である武陵でよばれていた。 官界の生活に望みを絶ち、書物と琴を携えて天下を放浪し、時には易者となったこともある ということである。洞庭湖付近の風物を愛し、定住したいと希望したが果たされず、崇山の 南に隠棲したとのこと。 人生には別れもあれば、出会いもある。晴れの時もあれば、嵐の時もある。大切なのは、《今、此処》である。この時この一瞬が私の人生を成している。この時この一瞬以外にわが人生はない。だからこそ、《今、此処》で飲もうじゃないか、と于武陵は云った。 ★この詩についてはわが郷土が誇る文豪井伏鱒二氏の名訳があります。 コノサカズキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトエモアルゾ サヨナラダケガ人生だ ★更に耳学による歌もある。 指触るる ことのみばかり 思えただ 返らぬ昔 知らぬ行く末 |
対 酒 酒に対す 蝸牛角上争何事 蝸牛(カギュウ)角上(カクジョウ)何事をか争う 石火光中寄此身 石火(セッカ)光中(コウチュウ)此の身を寄す 随富随貧且歓楽 富に随い貧に随いて且(シバ)らく歓楽せん 不開口笑是痴人 口を開いて笑わざるは 是れ痴人 そんなチッコイ領地を争うて何してはりまんねん 人間生きてられるのんは、ほんまにアッ!と言う間だっせ 金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに、おもしろうやろやおまへんか 思いっきり、よう笑わんような奴は、ほんま、“アホ”やで 蝸牛角上:魏と斉が常に争っていた時、「カタツムリの左の角には『触氏』という国があり、右の角には『蛮氏』という国があって、たえず領土を争って数万の戦死者が出た。」というたとえ話をして、魏の恵王を諌めたという。無窮の世界に心を遊ばしている者から見れば、どんな大国もカタツムリ角の先くらいでしかない存在である、ということ。― 荘子の「則陽」篇に見える ― 石火光中:火打ち石を打った時にほんの一瞬出る火花。そのように短い時間の事。 白楽天は病のため辞職したが、太子賓客分司(多分閑職でしょう)となり、半ば隠居暮らしの生活をはじめた58歳頃の作。無窮の世界から見れば人間なんて小さな物、人生なんて束の間、貧富の差もあるけれどもそれなりに面白おかしく過ごそうではないか、という、楽天の字を持つ作者の人生哲学。 ほんまに、せやせやと思うのであります。 白居易(字・楽天)は李白の没後10年、杜甫の没後2年の西暦772年に鄭州(河南省新鄭県)に生まれ、846年、75歳で洛陽の履道里に没するまで「白氏文集」をはじめ多くの詩を後世に残し、平安以後の日本文学に大きな影響を与えました。 若い時は“諷喩詩”といわれる施政者を誡めるための詩「軽肥」「塩商婦」など、晩年には静かに心を安んずるの詩“閑適詩”を多く作りました。肉親の縁薄く、40歳の時一人娘を3歳で亡くし、老年にいたって老荘思想・仏教思想に傾倒して行きました。 |
<http://www.ktroad.ne.jp/~dojuzi/ippitu81.html>………「一筆法話」 . |
12 08(金) きょうは78歳の誕生日 |
1928(昭和3)年は戊辰で、本命星は、九紫火星 1928(昭和3)年12月8日は、土曜日 壬午 赤口 旧暦十月二十七日 12月8日は、こんな日です。 太平洋戦争開戦の日 1941年(昭和16年)のこの日、日本海軍はアメリカの太平洋艦船の根拠地ハワイの 真珠湾を急襲、太平洋戦争の火ぶたが切っておとされた。 成道会 成道会(じょうどうえ)は釈迦が悟りを開いたとされる日とされ寺院において法会 が行われる。。臘八会(ろうはちえ)とも呼ばれる。 御事納め その年の農事等雑事をしまう日。江戸時代には、里芋・こんにゃく・にんじん・小 豆を入れた「御事汁」を食べた。農事を始める「御事始め」は2月8日。 針供養 裁縫を休んで、折れた針を集めて豆腐等の柔らかいものに刺し供養を行う。一般に . は2月8日に行われることが多い。 円覚寺 北条時宗が円覚寺を建立(1282年) 津田梅子(1864〜1929)教育者 誕生日 1871年(明治4年)日本最初の女子留学生5人の中の最年少として8歳で渡米、11年 の勉強の後帰国。華族女学校、東京女子高等学校教授になった。7年後再び渡米、 女子教育制度などを研究等1900年(明治33年)帰国し女子英学塾(のちの津田塾大 学)を設立。 英語教育を特色とする個性尊重の教育により、女子教育の発展に力を尽くす。 シベリウス(1865〜1957)フィンランド 作曲家 誕生日 ヘルシンキ大学の法科に学んだが、まもなくヘルシンキ音楽院に転じる(ここでピ アノ教師をしていたブゾーニと知り合う)1889年音楽院を卒業後ベルリンとウィー ンに留学。帰国してから本格的に作曲活動に入り熱烈な国民主義の立場で作曲する ようになる。初期の作品は「フィンランディア」に代表されるように非常に民族色 が濃いが少しずつ洗練された絶対音楽へと移っていった。しかし、あくまでフィン ランドの民族性に基づき、これを大形式にまとめ新しい個性的な表現にまで達して いる。 |