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折々の記 2006 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】11/19〜        【 02 】12/25〜
【 03 】00/00〜        【 04 】00/00〜


【 02 】12/25〜

  12 25 干柿の収入
  12 27 平成17年の年賀状
  12 28 日本のバックボーン
  12 30 原一也、忽然としてこの世を去る

12 25(月) 干柿の収入

先月の初めから年の暮れ一杯までの二ヶ月間干柿づくりに追われている。もう一息というところまできた。年寄りのせいかへとへとになってきた。

本日をもって氷川丸観光、マリンタワーを終了。


横浜マリンタワーと氷川丸の営業終了のお知らせ

当社は45年間にわたり「横浜マリンタワー」と「氷川丸」の両施設の運営を行って参りましたが、本年12月25日(月)に両施設の営業を終了し、12月31日(日)を以って、会社を解散することとなりました。
創業以来、「横浜マリンタワー」に約25百万人、「氷川丸」に約22百万人、両施設合計約47百万人の方々にご来場いただき、横浜のシンボルとして広く市民及び観光客の皆様にご愛顧いただいて参りましたこと、及び永年にわたり関係者の皆様から頂きました絶大なご支援に心から感謝申し上げます。 なお、「横浜マリンタワー」は横浜市に、「氷川丸」は日本郵船(株)又はその関係先に譲渡する予定です。

 平成18年12月25日
 横浜市中区山下町15番地
 氷川丸マリンタワー株式会社
 電話:045-641-3902

●氷川丸 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E4%B8%B8

概要
全長163m、高さ42m、乗員130名余り、乗客280名余りで日本郵船の所有。北太平洋で展開されたアメリカやカナダとの貨客船就航(路線)競争の一環として、政府の援助も受けて6隻の船が建造された。17,000総トン・速力20ノットでサンフランシスコ航路に就航した浅間丸・龍田丸・秩父丸(鎌倉丸)と、12,000総トン・速力18ノットでシアトル航路(シアトルからはグレート・ノーザン鉄道が接続した)に就航した日枝丸・平安丸と氷川丸。姉妹船の日枝丸・平安丸は戦没。終戦直後、太平洋を渡れる能力がある3隻の船のうちの1隻であった(多くの船は戦没し、3隻にまで減ってしまった)。

初代船長は秋吉七郎。船名は埼玉県大宮市(現:さいたま市)の氷川神社よりとられた。

B&W社(デンマーク)製のディーゼルエンジン(11,000馬力/1基を2基)、海上人命安全の為の国際条約(SOLAS)に沿った(先取りした)水密区画構造、アール・デコ(Art Deco)様式のインテリア、オーシャンライナーという船型、一流シェフによる料理などのサービスの提供など、建造当時の先端をいく船として建造された。

北太平洋を238回横断、延べ25,000人余りの客を運んだ。

現在は、航路からの引退後、山下公園に係留されており、営業時には船内を有料で見学出来た。ライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが出来たほか、夏季にはビアガーデンの営業もあった。しかし、近年の入場者数減少のため、2006年10月13日、現在の運営会社である氷川丸マリンタワー株式会社は、2006年12月25日で氷川丸の営業を終了し(同社は12月31日付で解散)、その後船体を日本郵船の管理に委ねることを発表した。売却後は観光船として外国に売られる話もあるが、既に動力機構は動かないため実現性は乏しい。横浜観光の目玉として保存を望む声が強い。

前述の発表通り、2006年12月25日をもって営業を終了した。

余談ではあるがこの種の民間船としては数少ない模型化された船でもあり、1/700ウォーターライン・シリーズの一環として長谷川製作所(ハセガワ)から現役貨客船時代と徴用病院船時代のプラモデルキットが発売されている。

[編集] 歴史
1930年4月25日 三菱横浜造船所(横浜船渠株式会社)にて竣工。
1930年5月13日〜5月27日 処女航海 神戸 - シアトル (途中四日市、清水、横浜、ビクトリアに寄港)
1930年 ロンドン軍縮会議の批准書を輸送。
1932年 チャーリー・チャップリンが乗船。
1937年 英国国王ジョージ6世の戴冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船。カナダ・ビクトリア港 - 横浜。
1938年 東京オリンピック誘致のため、カイロのIOC会議に出席した嘉納治五郎が帰国時、シアトルに乗船。肺炎により船内で亡くなる。
1939年 宝塚少女歌劇団がサンフランシスコ公演からの帰国に乗船。
1941年8月 国際情勢によりシアトル航路閉鎖。
1941年 日本政府に引揚船として徴用され、在日米加人を送り届け、在米加邦人を乗せて帰国。
1941年11月 日本海軍に徴用され、病院船として南太平洋海域にて活動。この頃の様子は1943年に製作された戦記映画『海軍病院船』(日本映画社製作・53分)で見ることができる。山本五十六訪問の様子もあり貴重。
1945年 第二次世界大戦終了後、復員輸送に従事。
1947年 北海道航路に就航 横浜 - 室蘭 - 大阪。
1949年 不定期で外国航路に就航。
1950年 不定期で米国航路に貨物船として就航。
1952年 欧州定期航路に貨客船として就航。
1953年7月 シアトル航路に定期貨客船として復帰。
1953年~1960年フルブライト交換留学生が利用。
1959年 宝塚歌劇団が北アメリカ・カナダ公演の渡航に利用。
1960年 氷川丸引退。日本郵船シアトル航路から撤退。
1961年 山下公園前の横浜港に係留される(横浜港開港100周年記念事業)。ユースホステルとなる。
2003年11月 横浜市指定有形文化財。
2006年10月13日 運営してきた氷川丸マリンタワー株式会社が、営業を2006年12月25日で終了すると発表した。
2006年12月25日 営業終了。

●横浜マリンタワー http://www.hamakei.com/headline/1936/index.html

横浜マリンタワーと氷川丸が45年の歴史に幕−今後保存へ

 横浜マリンタワーと氷川丸を運営する「氷川丸マリンタワー」(横浜市中区山下町)は12月25日、入場者の減少などに伴う経営環境の悪化のため、両施設の営業を終了する。

 マリンタワーは1961年、横浜港開港100周年の記念として「横浜らしいモニュメント」を創ろうと建設された。灯台の高さ106メートルは現在も世界一の高さとしてギネスブックに掲載されている。また、1930年竣工の氷川丸は、優美な船型とアール・デコ様式のインテリア、一流シェフの料理などのサービスから「北太平洋の女王」と呼ばれ、主にシアトル航路で活躍した。戦時中は病院船、終戦時は外地からの復員船としても運用され、戦前・戦後で北太平洋を238回横断後、1960年に引退して横浜港に係留された。開業以来の両施設への入場者数は4,787万人。

 同社は両施設の営業終了後、マリンタワーを横浜市に、氷川丸を日本郵船に譲渡する。両施設とも保存される方向で、横浜市は今後同タワーの改装工事を行い、日本郵船は今年末までに同船の運営方法を決定する予定。

 11月18日から12月25日まで、「45年間ありがとうキャンペーン」を実施、両施設でセールや入場料の割引などを行う。最終日は氷川丸が汽笛三声を鳴らし、営業終了を告げるという。


12 27(水) 平成17年の年賀状


  謹んで新年の
   ご祝詞を申し上げます

   花發多風雨
  人生足別離


  よい年でありますようお祈りします

    〒395-1107 長野県下伊那郡喬木村5975  .
           下  平  好  上
             電話 0265-33-2285


以上筆字で5行書いて、住所以下は朱色の住所スタンプを押してコピーした。

漢詩は 11/28 の于武陵「勧 酒」から転句と結句を選んだもの。

●昨夜は原貞次郎先生来宅、奄美大島の黒糖焼酎「黒うさぎ」を頂いてそれを傾け、12時まで語り合った。

 朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。 有朋自遠方来、不亦楽乎。

12 28(木) 日本のバックボーン

日常生活で何時も判るわけではないと思うけれど、人の考え方や行動の奥深くにあってその人を支えている精神的支柱…それは極めて大切なものです。

吉田兼好、鴨長明にしても、松尾芭蕉、良寛和尚にしても、夏目漱石、芥川龍之介にしても、仏教経典、中国の四書五経、漢詩文から得たものが土台になっています。

先哲の教えに学んでいるのです。お釈迦様の考え方や教え、儒教や老荘思想の考え方や教え、そこから生れている詩人の考え方や生きざま、それを学んでいるのです。

学校教育の中にも東洋が生んだ精神的バックボーンの中味を取り入れなくてはなりません。

それは学校だけではなく、個人的な学びの書籍として大事なものです。

たとえば、‘いのち’をどう考えるか。「蜘蛛の糸」など‘命’をトコトン追求したとき、それを人間にとどめず一般化し普遍化して生まれてきた作品でしょう。このような気づきは、お釈迦様の考え方や教えを学び取っていくときに自分の中にそういう感受性が養われてくるのでしょう。

「やれ打つな 蝿が手をする 足をする」詩人は言葉をうまくまとめたから詩人になるのではなく、一つの現象の中に‘いのち’を見い出す感受性を持っているからでしょう。

  朝やけ小やけだ
  大漁だ
  大ばいわしの
  大漁だ。

  はまは祭りの
  ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  いわしのとむらい
  するだろう。


これは「大漁」という金子みすヾの詩です。山口県の仙崎という漁師町に生まれた金子みすヾは、26歳の若さでこの世を去った詩人でした。この優しい研ぎ澄まされた感覚はどのように育ってきたのでしょうか。

12 30(土) 原一也、忽然としてこの世を去る

昨日、12月29日、忽然と世を去る。五歳年配、八十三歳。狭心症。葬儀は1月5日。

幽明相隔ちて語ること能わず。

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