エッセイ「私のバリアフリー」を読んで
阿賀黎明高校校長(前長岡市教育部長) 吉田 博
ホームページからの興味深い記事「私のバリアフリー」をお送りくださり感謝します。
私のその中の「認識のバリアー」について、少し論じてみたいと思います。
藤田さんは、障害者側からの認識のバリアーについて論じていますが、私は、見える方からの認識と言うことについて論じてみようと思います。
私は、市役所の食堂で、よく藤田さんと一緒に食事をさせていただきました。また、食堂の出入りで声をかけることがありました。興味深いことで、しかし、普段無視しがちのことの一つに、この認識の問題があります。
目の見える人間は、例えば、廊下をだれかとすれちがったときに、どういう態度をとるかは、非常に大きな問題です。あいさつをすれば、それ相応の親しさを表すわけですが、目を合わせなかったり、あるいは合わせても挨拶をしなかったりした場合は、たとえ無言であったとしても、あるメッセージを送っています。こういう場合は、たいていマイナスのメッセージ、つまり、俺はおまえを無視してる、とか、俺はおまえが嫌いだ、とか、お前のことなどもう知らない、を伝えています。
しかし、視覚障害を持つ藤田さんのような人とすれ違う場合、あいさつしたくなければ、無視するばそれでいいわけで、何も感情は生じません。そういう、私から言えば、卑怯さが、見える方にはあります。つまり、晴眼者同士のすれ違いと違って、無視したからといってマイナスの感情を生じることはないわけです。そう言う状況に無意識のうちに甘えたり、逃げ込んだりします。例外的には、例えば、藤田さんが臭いに敏感で、言葉を交わさなくても、すれちがったときに誰だか分かるという場合がありますが、多分、例外的でしょう。
広い食堂での出会いも同じです。晴眼者なら、視力の続く限り、誰がどこに座っているのか見えるわけで、誰と一緒に座るのかということは、選択できることであって、ある意味では感情や関係の問題として浮上してきます。
しかし、視界の中に藤田さんを認めたとしても、一緒に座りたくなければ、だまっていれば、藤田さんとの関係は、何も生じません。反対に、見える人同士なら、あいつはおれがここにいるのを承知しながら来なかった、などという感情や関係を生み出します。
そういうわけで、認識のバリアーについては、見えない側からの認識だけではなく、見える側からの点も問題にする必要があるだろうと思っています。
私は、藤田さんが晴眼者だったら私を発見しただろうと考えられる場合には当然のように声をかけていました。つまり、藤田さんの目の部分を私は声で補っていました。それは見える側からの心理的認識の問題だからです。多分それが、一緒に食事を多くした理由なのではないかと思います。
私にとって、藤田さんは「単に」目が不自由なだけの友人でした。普通の人でした。だから、平気で意見交換もできたし、目に関する冗談も言えたのだと思います。
藤田さんのお考えを読みながら、そんなことを考えています。
(2003-12-04)
|