第6章:「総合的な学習」としての社会学教育

 前章までにおいて、社会学教育の活性化のためには、コミュニケーションギャップを埋めることが一案で、それには目標の共有化が必要であり、それは、「自分探し」「自己分析」という課題、学習手段として「ライフヒストリー」「自分史」を学ぶ事という仮説は、調査による学生のニーズの高さ及び事例における有効性の論証によって明らかになったと思う。
 しかしながら、「自分史」だけが社会学ではなく、それが社会学の全てではないことは、言うに及ばない。それは、本論においても同様である。
  したがって、このような教育目標・手段を包含する、社会学教育の「かたち」を構築し、それを構成する一要素として、このような「自分史社会学教育」を位置づけていくことが、その実効性を高める上では不可欠と考える。本章では、本論のまとめとして「自分史」社会学を中心とした、新しい社会学教育の試論を提起する。


1 段階方式


「生活史」社会学教育による構想に基づいた、社会学教育の展開に、学習者すべてをこれに収斂させるように強制する必要はない。従来通りの「テーマ」を追求したい学習者に対して、または、すでに「自分探し」の境地に達している学習者が、それ以上を求める場合にも対応できるような、おおまかな「段階方式」が望ましい。「自分探し」の社会学教育は、その第一段階として位置づけ、それをマスターした後、またはそれを飛び越えて、第二段階に「見識ある市民」となる学習者を目指すという目的が発生する。
  野村一夫は、A=シュッツの「well informed citizen」をもとに「反省する社会」の担い手となるひとびと、「見識ある市民」の養成に社会学教育の目的を見出している。

 社会学は、ヒマ人や趣味人の「知の戯れ」などではない。複雑化した現代社会において、自律的で責任ある主体として生きようとする「見識ある市民」の基本的な生活能力である。だから、本を読んだりレポートを書くのは、そうした生活能力を高めるためにおこなうのであって、エレガントな知的遊戯では断じてない。」「社会学は「ジャーナリスト的存在」であろうとする「見識ある市民」の形成を支援する科学であり、そのような人々によって生み出され、強化され、現に必要とされている科学なのである。[野村1995pp .201-202]


 そこには、論文・レポートの「作法」だけでなく、主体的に情報発信していく訓練も含まれる。これは学習者自身の「利益」にとどまらない、民主主義社会の構成員として「実用的」な社会学教育といえよう。
 その先の第三段階には、「社会学専門職」をめざすという目標、大学院に進学して、専門的研究を続けるに当たっての基礎を学習するという段階が設定できる。ここで専門知識としての社会学を探求する学問的な営みが発生する。
 この三段階の社会学教育のなかで、そのどの段階まで進むかは、学習者の意思及び能力によって異なることであろう。しかし、大学に進学してくる青少年の課題における、最大公約数といえる「進路の検討」に際して、「実用性」を発揮しようとする、第一段階の「自分探し」社会学教育が主眼となる。このなかには、「自分史」が含まれるが、自分史の効用は、あくまで「きっかけ」「動機づけ」である。自分の過去を振り返っただけで終わらせることなく、さらにフォローする体制としての「総合的な学習」としての社会学教育が必要なのである。


2 「総合的な学習」という手法


 「総合的な学習」は、文部科学省「学習指導要領」の改訂により、小中学校で2002年度から、高校では2003年度から教育現場に導入されることになった。これは今日の「教育改革」の一環として、いわゆる「生きる力」を育てるために位置づけられたものとされている。[1]そのねらいとして、指導要領には「(1)  自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。(2)  学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること。とされている。そしてこのねらいを踏まえて「例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題,生徒の興味・関心に基づく課題,地域や学校の特色に応じた課題などについて,学校の実態に応じた学習活動を行うものとする。(傍線:引用者)と規定している。[2]この「総合的な学習」の目的や手法は、新しい社会学教育の目指すものと重なる部分が多い。

繰り返しになるが、社会学が目指すのは、「社会認識」である。「人々が経験している現実を、社会学は理解することに関心を示すのである。」[中根1997:p.24]そして、社会学教育は「社会認識の方法の伝達」である。この「社会認識の方法」を、なぜ教え、学ぶのか、「そもそも教養科目として「社会学」を学ぶとはどういうことになるのだろうか。この問いかけに対して筆者は、「社会学的想像力」を高めることだと応えたい[ミルズ 1995]。あまりも有名なミルズのこの著書は、当時のアメリカ社会学への批判が中心であるが、社会学的視座の基本を唱えたものだと言える。さらに、全体社会とその構成要素両方をつなぎ合わせて見ていくという方向性は、社会学者でない者にも必要なことだと思われる(傍線:引用者)」[川又:2000]という理由からである。
  それでは、為政者でも、社会変革者でもなく、さらには民主主義社会の構成員であるとの意識さえ決して十分ではない、現代の青少年が、「社会認識」を学ぶ目的は何なのか、私は、これまでの調査・事例・理論を踏まえて、こう説明したい。「自分の生き方を知るために社会を知る」のである。これは、青年期社会学教育の目的と言っても良いだろう。「社会学を学ぶ目標は6割が持っていない」という調査結果を裏返せば、学生が求めているのは、学び方(方法よりも)、学ぶ指針と目的のほうなのである。
 このことは、戦前の「教養主義」の流れを汲む「教養」とは異なる、「現代的教養」もしくは「真の教養」を学ぶという言い方もできよう。阿部謹也によれば、「一般教養の核心」をこう述べている。

  大学は、だいたいみんな18歳で入りますね。その段階では、自分がどういう人間なのか、あるいはどういう男、どういう女なのか、まだ見定めがついていない。そこでまず自分がどういう人間なのかを知る。」ことであり、「そのために、自分と過去の関係を考える。両親、兄弟といった家族、高校、中学、小学校の先生。そして自分をはぐくんでくれた地域。さらに、その外側にあってその地域を規制している国家あるいは社会。そういうものと自分との関係を知ることだろうと思うんですね。

 また、そのような機会が「大学のどこかでやっている。つまり、その先生のもとに行けば自己分析ができ、それが同時に家族との関係、仲間との関係、地域との関係国家・社会との関係、宇宙との関係、生物としての人間のあり方と結びついてきて、そこに自己というものが認識されるきっかけがある。そんな講義あるいはゼミナールが行われていることが望ましい。」。[浅羽2000pp.30-31]としている。
 しかし、阿部は同時に、現在の大学には前述のような授業をやろうとする先生はまずいないと喝破している。それを社会学教育の中で実現していこうというのが、学習者の「自分探し」という「教養」を第一段階とする、学習者にとって「実用的」[3]な「学習者の自己の生き方がわかる」社会学教育を提案する。



3 「実用的社会学教育」の構成


 「実用的」社会学教育において、特にその第一段階の「自分探し」教育は、ミニマムでありながら、最も重要な段階である。以下、その構成要素について説明する。
  第一に学習者中心でなければならない。調査結果において見られるような、学生が求める「役立つ知識」という「実用性」[4]と社会学の役割の一致点を引き出すことが不可欠であるからである。「最初の講義でこう話し始めたとしよう「ここではたった一つのことだけを説明する。それは、とっておきの道具の使い方である。わかりやすく、単純なものである。でも、さまざまな現象を社会学的に分析できる。」すると、これこそ求めていたものだと、身を乗りだす人が多い。大学時代という自由な時間のリストラをはかるべく、しきりに叫ばれる高等教育批判のなかで、こうした事情を見透かしたものは少なくない。そして批判は「役に立つ知」の問題を実学主義の問題にすりかえ、実用的なマニュアル知、あるいは受験知に親しんできたものたち、虚学に失望したものたちの渇望と深刻に共鳴する。」[伊奈1999:.201]という状況のなかでは、学習者の興味・関心と学問の内容は、一致すればまだしも、逆の場合は全くと言っていいほど受け付けない。千石保によれば「自尊」の理念である[5]。調査による授業評価の結果からも、「良い授業」の条件には「興味がある」という要素が含まれ、「悪い授業」は「興味がもてない」「つまらない」という理由で片付けられている。社会学全体として学習者に興味を持たせる「しくみ」がなければだめなのである。


 従来の社会学の授業であれば、まず、さまざまな社会問題を含む社会事象というものがあり、それを突きつけられた学生が戸惑いを見せたとき、そこに社会理論による解釈が行われる。あるいはまた、その逆が主流であった。そこでの限界は、学生自身の知的関心が前提とされていたという点である。大学生にもいろいろあり、知的関心が当初から備わっていない場合、そのような論議はあまり意味を成さない。そこで必要なのが、知性よりむしろ感性に訴えかけて、しかるのちに知性の領域にも入っていくという方法である。譬えでいえば、ここに、二つの部屋があるとする。ひとつは知性の部屋、もう一つは感性の部屋。その両方の部屋の扉を開けるためには、片方の扉だけを叩いてもダメである。両方を同時にあけることが無理であるとすれば、どちらかを先に開けるしかない。しかし、どちらが先でもよいのである。一方を開けた後に、他方に取り掛かればよい。」[田口1994:pp.267-268]


  社会調査士等の「資格」論の源泉でもある、より良い「情報(知識)」を与えることを重視する(知性)と、学生のより質の高い経験を重視する(感性)の相克について、「<知性のアプローチ>と<感性のアプローチ>はどちらが先でも良い」というこの論考に対して、私は大きく同意する。さらに敷衍すれば、「基礎」が「先」で「応用」が「後」に学ぶというスタイルも柔軟性を持つべきであると考える。学年配当を問わず、興味があるものであれば、わかりやすい「応用」から入って、しかるのちに「基礎」を学ぶという「遡及的学習」[6]も「公式に」[7]可能であることが学習者中心の社会学教育の前提である。なぜなら、調査によって明らかになった点のなかに、社会学を学んでの「ギャップ」において、「現在の社会について学べると思っていたのにそうではなかった。」や「社会学の歴史ばかりやる」という回答が少なくなかった。無論、段階が進めば、学ぶものであっても、そのときに熱意が失せていては勿体無い。問題意識や向学心が高いうちに、興味があって入りやすいものから入って、そのなかでより知ろうとすれば、必然的に基礎理論は必要になって、結局学ぶことになるからである。
 第二に、カリキュラムもしくは授業内容展開の出発点を、学習者の「自分探し」に収斂した形をとることが効果的と思われる。換言すれば、学習者に即した身近な素材から提供していこうという教授法の開発である。
 これにより各分野の個別社会学が、学習者の持つ「自己」が如何にして社会的な影響を受けてきた・受けているかを解明し、学習者が理解していくことで、「自分」というものをより知る事ができる。[8]その一端を「生活史」や「自分史」の社会学教育が担っていくのである。

 たとえば、理論社会学や現代社会学理論におけるブルデュー研究であれば、「自己」を探るツールとしてのブルデューを知るという教育目標において、研究者同士が協力し合い、「文化資本論」「ハビトゥス論」などの紹介によって、学習者が自ら生きてきた中での「自己形成に影響を与えている社会的事象」を発見することを教育目的にし、その研究には一切拘束をしない。それが家族社会学や地域社会学、教育社会学であれば、その形態はまさに学習者の数だけ素材がある。学習者にとってもそれは「A大学の学生」としての自己だけでなく、家族社会学では「XYの間の子」や「αの妹で、βの姉」という自己であり、地域社会学では「N市の住民」としての自己、産業社会学では、「アルバイト社員」としての自己など、さまざまな「自己」を意識し、理解することが可能となるはずだ。

第三に、社会学の理論・研究と実生活とのフィードバック関係の構築である。
 浅羽通明は、村上龍の論を引き「世の中全体の大目標喪失を指摘した村上龍は、しかし、新しい時代の世の中が必要とする指針を探そうとはしない。むしろシステムには支えてはもらえない「世間」からズレた一人として「自分」一人の生き死にの指針を(当然独力で)模索していきたいようだ。」[浅羽2000:p.79]とし、「個人的な目標」も「世間」が共有する価値観と全く孤立し、無縁に存在しているのではないと批判している。しかし、この点において私の立場は村上に近い。その批判を受け止めつつも、現在求められているのは、社会に生きる人間の「セルフ・マネジメント能力」であると思う。
  近代の大学が、「職業教育」としての機能を大きく持ち合わせているなかで、大学を卒業することによって「『視野の広さ』を身につけられる」もしくは「さまざまな人間がいる大学での4年間の出会いによって、人間的な経験が積める」と言う効用を認める人は少なくなく、それを大卒者採用の理由に挙げる企業もある。[浅羽1996など]そこで、本格的な「社会的経験」を最初にして最大に経験する機会である大学生活[9]を、社会学教育のなかに組みいれて、理論と実生活の経験をフィードバックしていくことで、社会学を意識しながら生活する「社会学的フィードバック生活」によって、より深く学生時代における社会経験が積めるのではないだろうか。そして、最終的に学習者が実生活の中で、「その後の生活が社会的な認識によって高度に反省的なものになり、さまざまな経験が自己理解と他者理解の触媒として相乗的に生かされるような生活態度を、社会学はそれを学ぶ人に引き起こすのである。」[野村1995(1998):p.15]ような、企業人・組織人となった後も、自分自身や所属・関与集団に対して、社会学的なまなざしをもった「自己点検・自己反省」によって問題の発見・分析・解決できる人間に養成することである。
 このような自己の働きかけと同時に、学習者同士が、互いの生き方、経験や視点、考え方に対して話し合うことによって、他者の生きかたについて理解するということで、「他者理解」をすすめることもできる。ゼミナールにおいて「他者の考え方」を聴くことができたという利点をあげる意見は少なくない。[10]コミュニケーション能力の不足が指摘されるなか、これをもっと伸ばしていくことも有効であろう。この両者が車の両輪のように機能していくことによって、「競争」と「共生」のバランスを兼ね備えた青少年を育成することを目標に設定できる。

 そして、最終的には、必ずしも「大卒」という資格付与などを目的にしたり、目的がはっきりしていなくても、同学の人間とのサークル・ボランティア・アルバイト・ナンパetcの社会経験とのフィードバックを繰り返し、卒業を迎えるころには、先述のような「青年」となっているように、自己教育を促す「しかけ」をシステムの中に取り入れていくことが理想である。



4 エスノメソドロジーとの関連


 このような社会学教育には、エスノメソドロジーの考え方を、理論的な基礎においている。H・ガーフィンケルはいくつかのエスノメソドロジー研究について社会学の対象領域を拡大し社会秩序が<ローカルで相互行為的に生み出され、自然に組織され、リフレクシヴな説明(アカウント)>であることを例証したのである。これらの研究はその存在さえ疑問視されなかった現象を明らかにしたとガーフィンケルは述べた。これらによってのみ社会秩序の産出と説明可能性を主張するという点で、古典的な社会学研究とは根本的に異なっている。エスノメソドロジー研究だけが社会のメンバーがいかにして「日常生活において社会秩序の一貫性、頑強さ、秩序化性質、意味、社会秩序の推論、方法を共に生み出し提示するか」ということを明らかにすることができるのである。」[Alan Coulon 山田・水川1996pp.176-177] と述べているが、これは、『エスノ・メソド・ロジー=人々の・方法・学』として「どうやって」「どのように」を追求する「エスノメソドロジー的態度」、すなわち「常識」や「あたりまえ」が生成されるメカニズムの解明や、「カテゴリー化」などの組織・規範形成についてなどは、このガーフィンケルの発言に大いに重なる。また、教育活動に関する考え方についても、「エスノメソドロジストにとっては一方で社会のメンバーがお互いを理解したり、自己の社会的世界を理解するために使う方法と、他方でプロの社会学者が同じ社会的世界について、客観的だと称する知識を獲得するために使う方法とは、まったく変わりがないものである。」[前掲書:p.75] としたほか、P・ブルデューの批判に答える形で、「エスノメソドロジーが、普通の人による社会的世界の素人の知識と社会学者がこの素人の知識から構築する科学的知識とを混同しているわけではない。社会学者は経験的な対象を社会学的対象に変容する客観化を行う必要がある。そして普通の社会のメンバーは自分が日常的行為を行うときにまわりの世界を解釈することにより同様の作業を行っている。しかし後者は社会学者がこの過程を分析する際の興味と同じモノをもってはいない。メンバーであることは社会的身分をさすのではなく、所与の社会集団の自然言語の習熟、もっと一般的にはそのエスノメソッドの習熟を意味するのである。」[前掲書:pp.170-171]と書いている。
 これは、いわゆる社会学の「しろうと」と社会学の「プロ」の違いは本質的な差異ではなく、興味や客観化の点における差異であるという主張が明確にされている。このことは社会学教育には大きな意味を持つ。つまりこれを厳密に捉えるならば、社会学教育は学習者が人間の自然の営み(常識)を行っていることに対するものに「知識」としての新たな何かを付け加えるというよりも、それに対する「視座」の存在を知らせしめることによって成立するということになるだろう。



5 「役に立つ」批判に対して


 一方で、「実用的社会学教育」には、社会学教育に「役に立つ」「立たない」の問題を持ち込むという点について、批判があるとも思われる。
 薬師院仁志は『禁断の思考―社会学という非常識な世界』において、「誤解を恐れずに言えば、社会学は、社会を良くするために行う研究ではないということである。もちろん、社会学の成果が何かの役に立つ可能性など全くありえないと断言することはできない。しかし、仮に社会学が結果的に役立ったとしても、それはたまたま生じた出来事であって、ある研究が社会学に値するかどうかは、それが役に立つかどうかとは全く無関係なのである。」[pp.8-9]社会学は、役に立たないばかりか、われわれの常識的価値観を逆撫でするような帰結を提示することもしばしばであろう。しかし、それが社会学の学問的廉直さというものである。何かの役に立とうなどといったおこがましいことは考えず、できるだけ純粋に、社会的な事実とは何かを考えることこそ、真に社会学的な営みなのである。そして、方法的に正しく導かれた結論に対しては、それがいかに受け入れがたいことであっても、事実は事実として認めなければならない。社会学にできることは、ただ社会学的な研究のみであって、それ以上でもそれ以下でもないのである。」[p. 10]と主張している。
 これに対しては、この「実用的社会学教育」はあくまでも、「社会認識」という課題を学習するための指針であって、「結果としてたまたま生じること」に目を向けて、それをさらに「伸ばすこと」によって、学習者が「役に立つ」ということであり、ときに眼をそむけたい厳然たる事実を「受け入れてこそ」機能するものであると答えたい。



6 短期的/長期的実用性


 以上のような形で行う「実用的」社会学教育は、第一段階における、青少年の学習課題である「自分探し」「他者理解」及び「自己と社会の関係性」を学習することにより、就職活動・進路検討に役立つという「短期的実用性」を発揮するとともに、さらに段階を進むことによって、「ジャーナリスト的存在」となって、民主主義社会を健全に機能させていく、「自省的市民」それは、無批判に社会に隷従する人間ではなく、社会を批判的・相対的にみる視野と論理的問題解決能力をもち、機会があれば社会的発言もできるような、社会的貢献のできる人間を育成し、現実社会に貢献するという「長期的実用性」の双方が、同心円的に展開する。これが「実用的社会学教育」の試論である。






[1] 筆者は、「総合的な学習」もしくは「生きる力」教育について、全面的に支持しているのではない。そもそも文科省が「例示」という形で実質的に指導・監督している文教行政について批判的である。

[2]総合的な学習の時間の学習活動を行うに当たっては,次の事項に配慮するものとする。@自然体験やボランティア活動などの社会体験,観察・実験,見学や調査,発表や討論,ものづくりや生産活動など体験的な学習,問題解決的な学習を積極的に取り入れること。Aグル−プ学習や異年齢集団による学習などの多様な学習形態,地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなどの指導体制,地域の教材や学習環境の積極的な活用などについて工夫すること。

[3] 実用性の議論については、「プラグマティズム」=「真理の基準を有用性に置く」『社会学小事典』などに準拠している。

[4] 調査結果Q1・Q

[5][千石1997]を参照。

[6]日本の伝統的成長・成熟観といえる『守・破・離』は剣道や茶道で修行上の段階を示したもの。守は型、技を確実に身につける段階。破は発展する段階、離は独自の新しいものを確立する段階[日本国語大辞典]守を修めて「達人」、破に至って「名人」、離に至ることによって「名人中の名人」という見方もある[倉沢行洋『芸道の理念と修行』日本の美学30ぺりかん社]この概念に対する新基軸である

[7] 学習者個人の履修計画ではなく、学年配当の撤廃という形での。

[8] この方法は、ある研究(者)分野だけを狙い撃ちして内容を拘束するのではなく、各研究分野の教育における目的と出発点を統合することによっての収斂を図るということでもある。

[9] 調査結果

[10] 調査結果Q20を参照。