第2章:教育目的の明確化と青少年教育の課題との関連


1:目的の明確化

 社会学教育の再生につながるであろう「コミュニケーション=ギャップ」を埋めるということは、どういうことか。最大の手段は、教育(学習)目標について、「学習者の目標」と「教育側の目標」を合致させ、教育側と学習側において共有し、その目標を実現するための社会学教育(学習)システムを構築していくことにあると考える。「何を」ではなく、「何のために」教える(学ぶ)かを、学習者に提示していくことが、その一歩である。
 無論そこには「真理の追究」というような普遍的な目標があるのであるが、現在において高等教育が大衆化した結果として、資料において示したように、数多くの高等教育機関で「社会学」が教授され、膨大な数の社会学学習者(本人は自覚しているかどうかわからぬが)が生まれているが、そのなかで社会学研究者となる目的を抱いている(「真理の追究」も同様)人間は大変少数であることは第4章の調査[1]によっても推測できる。
 「東大型」と呼ばれる「学者養成型」の教育に限定され、「何のために」学ぶかではなく、「社会学を学ぶ」ことそれ自体が目的化(マンネリ化)している。つまり研究者養成目的として「社会学教習所」の状況を、教育の側が「研究者を希望しない学習者」に対しての目的を提示することが求められる。
  これは社会学の世界だけではない「世の中にはいろいろな大学があるが、そこで行われる教育の中身を世間にほとんど示していない。大学も自分のところの学部や学科で、どんな人材を育てるのか、明らかにしてこなかった。たとえ明らかにしても、実際にそうした学生を育てることができたのかの点検がない。ちょこちょこっと試験をするだけで、後は野となれ山となれだ。まさに大学教育のいかがわしさだね。」「安岡他1999p.16」といわれ、米国でも、Frederick L. Campbell[1985]において「教授団の第一の責任は社会学が何のためにあるかというその目的を決定することである。知的にどこかを進もうとする者はだれでも、そのいく先を知らなければならない。他人を教えることを始めようとする者はだれでも、何が達成されればいいのかを知らなければならない。しかし、目的ということがらはめったに議論されることはなく、またわれわれが語ることはおこなうことにほとんど影響を与えないのである。」そして「慣性(あるいは惰性)の法則が働くことになる。」との指摘がある。高等教育について合理的システムと評価される米国においてもこのような状況は見られるとの見解である。[中山1996p. 213]
 教育目標の明確化は、特に全く新しいことをしようということではない。学習者の特徴を把握した上で、社会学の分野のすでにあるものをより活用し、伸ばしていくことが、その手段になると十分に考えられる。私はここで、青少年教育の課題に注目したい。


2:青少年教育の「自分探し」と社会学教育


  大学における、社会学教育の学習者には主として次のような特徴が挙げられる。
@年齢は18歳から24歳前後が中心となる

A社会学の予備知識は高校までの課程ではほとんどない

B正社員労働経験のあるものはごく少ない

C大学受験を頂点とした「受験体制」教育を経験

D大学時代をモラトリアムとして進路設計を模索している


 私は、これらの特徴は「青少年教育」の目指す学習課題に、共通のものであるとの認識をもった。
 「青少年教育」の学習対象について伊藤俊夫は、「青少年期は、職業的にも社会生活上でも一定の役割と責任を担う「大人であること」adulthoodへの準備期 preparation for work である。特に青年期は依存的色彩が残る少年期と一人前の成人期との間にある境界人marginal manとしての特質をみせる。換言すれば、自足的な成人への移行期transition periodであり、世代カテゴリーとしての「若い年齢層」younger generationである。同時に、見習い期的な若い成人young adultでもある。このため、青年教育は、成人期への準備教育としての期待を中心におきつつも、上限の延長もからまって、自発的・自主的な学習を主軸にしたアンドラゴジーandragogyの理論で展開される。」(傍線:引用者)[『新教育学大事典』:1990pp.418-420]と規定しており、社会学教育の学習者像と重なる。
 また、副田義也は「青少年問題」を便宜的に、「社会問題論的視点」[2]と「健全育成論的視点」[3]にわかれるとし、両者は「互いに重複する部分が出てくる」ことから、「後者は前者を含んでより全体的・総合的に事象をとらえている」と分析し、「健全育成的視点」は、「青少年問題を考えるにあたっての積極的な「まえむき」の姿勢の表現ともみえるが、他方では、青少年が健全に成長するという、ある意味ではきわめて当然のことがらが、あらためて強調されねばならないほど、彼らがおかれている状況が悪いのだともいえる。ともあれ、ここでもっとも重視されるのは、青少年のパーソナリティとその形成過程である。」と、青少年の自己形成研究の役割を指摘している。
  また、「@健全育成の健全の基準がとおりいっぺんのものである。それは十分に科学的に考究されるべきである。私たちの社会の大きい部分が病んでおり、したがってそこでの健全さの通念を手放しに信頼することができないのを忘れてはならない。Aこの視点からの接近が、青少年問題のもつ社会問題的部分をぼかしたり、見失わせたりする場合がある。これは誤りである。むしろ、その接近が、その部分をいっそう全体的に、いっそうふくらみをもってとらえることをめざすべきである。(傍線:引用者)と、社会問題と健全育成双方の視点から捉えていく必要性も補足している。
  副田の指摘に従うならば、次章で述べるような、「自分史」の活用による社会学教育は、その性質上、青少年教育における、社会問題の視点と自己形成の視点、双方からのアプローチが可能である。
 「自分とは何か」と考えるのは、先述までのとおり、青少年の特徴として、常に意識的、無意識的に考える課題であるが、現代の大学生においては、進路の検討に直面するときより強烈に意識されている。ここ数年来の就職難は、就職協定の廃止と相俟って、就職活動の早期化と過熱化がより激しくなっている。それに加えて、就職を果たしても、早期離職者の増加が起こっているということにつれて、就職活動においての「自己分析」について盛んに重要度が叫ばれるようになっている。
  このような変化によって「自分探し」は、もはや就職を控えた学生時代の必要条件となりつつあるといえよう。
 青少年教育の課題である学習者(=青少年)の「自分探し」「自己形成」を、高校までの教育と比較して「自発的・自由」な大学の社会学教育において、学習者・教育者共通の目標として設定しようとするものである。





[1]  調査結果Q3Q4を参照

[2]  @貧困と青少年、A年少労働、B要保護児童、C青少年の疾病・災害(自殺)、D青少年を対象とした犯罪による被害、E青少年の非行・犯罪

[3]  @青少年のパーソナリティ、A青少年の学校生活、B青少年の家族生活、C青少年の余暇生活、D青少年の労働生活、E地域社会・全体社会と青少年