第1章 社会学教育の現状と障碍

1 「社会学教育」の分類

  第1章において、「社会学教育」とは何かを確認しつつ、これが行われる過程における障碍[1]を指摘していく。
 まず、本論における「社会学教育」という用語の使用について定義づけをしておきたい。そもそも、「社会学教育」という用語は、社会学の主要な辞・事典[2]には、項目として登場してこない。日本社会学会に「社会学教育委員会」があり、社会学教育に関する調査も数と実績を重ねてきたにも関わらずである。米国においては、‘Teaching Sociologyとして、同名の雑誌が刊行されているが、ここにおいても‘Education’でも‘pedagogyでもない。したがって筆者は、「社会学の知識・技術及び情報を伝達する営み」と定義し、本論において、日本における社会学教育を以下のように分類した。

                      大学教育         .社会学専攻学生に対する専門基礎教育

社会学教育                            .社会学専攻学生に対する専門一般教育

                                          .社会学専攻以外の学生に対する専門教養教育

                     大学以外のフィールド

社会学教育の実践の場については、現在大学及び大学院という高等教育のフィールドが主となっている。また、短期大学や専門学校においても「社会学」が教養教育の一環として行われている。さらには、生涯学習・高校段階での教育実践の報告はあるが、制度的に位置づけられてはいない。本論での対象は主として「大学教育における」社会学教育についてと規定する。

さらにこれを(1)(2)(3)の分類に分けた[3]

1:「社会学専攻学生に対する専門基礎教育」は、大学院進学を視野にした、社会学者養成を前提とする、言い替えれば従来型の社会学教育である。
 次に2:「社会学専攻学生に対する専門一般教育」は、大学卒業後就職することを前提とした学生に対する社会学専門教育である。
 そして、3:「社会学専攻以外の学生に対する専門教養教育」は名のとおり大学設置基準大綱化以降、教養部の再編によって多く様変わりしつつあるが、いわゆる「パンキョウ」の社会学教育であり、一年ないし半期のうちに完結させ、学習者はそれ以降社会学に触れることがないことも考えられる条件下での教育である。
 本論では2.「社会学専攻学生に対する専門一般教育」について中心に議論していきたい。3の「社会学専攻以外の学生に対する専門教養教育」及び「その他」の分類に関連部分があるが、それは副次的なものとして考える。そして、他専攻学生が少数の社会学関連科目をア・ラ・カルト的に学習する場合も同様である。
 また、夜間大学等に在籍する職業人や、社会人経験を経た学生を対象とした教育は除外する。除外する理由としては、まず、職業人が制限された時間の中で学習しようとする営みには、モラトリアム学生に比較して、強い目的意識をそれぞれが持っていると思慮される点、そして高校卒業直後の学生に比べて社会経験を持っていることから、問題意識も比較的豊富である点で、異なる状況があると思われるからである[4]
 同時に、夜間部学生であっても、学力等の理由から昼間部に入れなかった等の事情を持つ高校卒業直後の学生は除外の対象とはならない。
 この「社会学教育」を受ける学習者については、後に詳述することとし、社会学教育が「行われる場」としての大学についてみていく。



2 「社会学教育」の概況と問題点


  社会学教育を行っている大学の状況については、筆者はすでに卒業論文[2001]において、受験生向け大学案内でのカリキュラム分析により、「社会学が学べる」と紹介されている大学にもかなりの差があり、「名が体を表さぬ」状況が少なくないことを紹介しており、重複は避けるが、要点について説明する。

  第一に、社会学専攻学部・学科・コース等をもつ大学の実数であるが、各種資料[5]においてばらつきが見られ、確実な数値は不明である。ただ、筆者の大学案内カリキュラム分析によって、私立大学において、約60大学(「社会学科名称」・「社会学科以外の名称」含めて)では体系的な社会学教育が行われていると思慮される。

 第二の問題は、「大学案内」等大学から受験生に対する情報に、カリキュラムが詳細に説明(表示)されていない、もしくは表示さえされていない大学が少なくないこと(特に国立大学・「偏差値上位校」)である。また、表示はしてあっても、講義要項からそのまま転載したものがほとんどであり、「社会学特講T」等がどういった内容であるのかという、受験生にわかるような説明はほとんどない。これで受験生への説明責任を果たしているのかという疑問があること、裏返せば、このような情報を与えられずに、選択させられる状況で入ってきた学生に対しての批判が、正当な批判といえるかという疑問。さらに、このような「大学案内」などに対して教授団がどのように関わっているのか、(チェック体制等)という問題があることを指摘した。

 第三に、学部名称・学科名称が非常に多様化していることである。この理由として、「人間」・「国際」・「環境」、「―社会」という、使いやすく語感の良いものを「接頭語」として大学のイメージアップを図ろうという狙いと並んで、「学際系学部・学科」の増加という動向が挙げられる。慶應義塾大学に「総合政策学部」が設置されて以来、いわゆる「学際系学部」が話題を集め、それ以降に新設された学際系学部・学科や、大学設置基準の大綱化による教養課程の改編に際し、新設学部・学科名に「社会」の2文字を使用することにより、あたかも社会学専攻のような印象を与えられる。さらには、入学者の減少した短期大学の四年制大学格上げを行う際、また教育学部にできた、いわゆる「ゼロ免」と呼ばれる「非教員養成課程」についても同様である。確かにこれは「学際」である以上、実際に社会学も他の学問と並んで「学ぶ」ことには間違いはないのであるが、「学ぶ」が「専攻」とイコールでなくなった事態をどう捉えるかが問題となってくる。
  また、受験生の主要な情報源である入試ガイドブックにおいても、社会学の事情に精通した人間が編集に関わっているとは限らず、大手予備校『河合塾』を例に挙げれば、社会学は『社会・国際系』の分類より、観光学科や最近の流行である「国際〜学科」も、社会学と同じ範疇と紹介されており、介護保険制度の開始などで社会福祉関連学部・学科の新増設も進んでいるが、これらも社会学に含まれて表示されるものも多い(2000年現在)。しかし一方で、人文学系統はまた別のカテゴリーになっているガイドブックもあり、それらの分類では、「文学部社会学科」「人文学科社会学専攻」はこちらに分類されてしまう。
 さらに、カリキュラム上、社会学専攻とは言えないように思われる学部・学科の名称に、「社会」の2文字を加えることによって、「社会学が学べる」学科と解釈されてしまうような、「看板に偽りあり」と呼ばれかねない状況も読み取れる。[6]
  以上のように、社会学教育を受ける前段階ですでに、名称やイメージと実態の「食い違い」の影響はかなり大きく、教育における学問的な社会学の定義(学科名称等)と受験生・学生が持っている「(イメージ形成された)定義」が著しく乖離している点が大きな問題であると指摘した。[7]

 そして第四に、学生に教える「社会学」自体の「オリジナリティ」、「アイデンティティ」が問われる時代になってきたということの指摘である。大学設置基準の大綱化の影響について[布施1996:p.70]によれば、社会科学のなかでの社会学のオリジナリティが、それを超えた学際性のため弱まっている状況においてなお「学際化」を進めることに疑問を挟みつつ、学部段階の教育では、現実社会の変化のもとで、学際化、多様化を求めるニーズに対応し、より専門性に特化した専門教育は大学院で行おうとする志向を固めながら、社会調査法・社会調査実習の開講で実証科学としての社会学教育の特徴を収斂し、なんとか堅持しようとしていると分析している。[8]
 しかしながら、先述のカリキュラム分析においても、社会学科を名乗る大学で「社会学史」を開講していない大学も少なくなく、社会調査においても、方法論までを必須とする大学と実習まで行う大学、社会調査関連科目それ自体を、必須もしくは自由選択かの違いなどが起こっている。この状況の是非については、その判定が社会学の範囲を限定する作業であり、大変困難な問題である。
 この結果から、社会学教育が抱える課題として、「アクチュアルな社会に透徹したまなこを注ぎつつ、社会調査や統計の技法をインテンシブな面接調査とPCを駆使しての大量観察法ともどもに身につけた職業人の養成が課題となる。」[布施1996:p.81]と提言していた。[9]
  また、その方向性づくりとして、「社会調査士」などの資格作り、大学院教育、そして社会調査実習等を行う条件整備などの課題を挙げ、最後として「社会諸科学間、社会諸科学と自然科学間の学際化、広域化、多様化が進む今日、社会学が社会科学の中でうたってきた柔軟な学際性、広域性といった学問的独自性そのものが変容の波の中でオリジナリティを失いつつある。(傍線:引用者)社会学の独自性、専門性をいかに鮮明に打ち出し、他の社会諸科学との差異化を明確にしうるか。言い換えれば社会学がその学問的中枢にいかなる自己規定の確立をなしえているかが問われてきている。」と結論づけており、社会学のアイデンティティの喪失問題は、このレポートから年数を経るにしたがい、ますます深刻化していると警告した。


3 社会学教育の根拠



 大学における「社会学教育」の状況を確認したところで、改めて「社会学教育」の位置づけについて考えてみる。
 社会学教育論を存立させる基盤となる根拠概念、さらに言えば「教育哲学」としては、P・ブルデューの次の言葉に代表されよう。

社会学は少なくとも次の一点で他の諸科学とは異なる。それは近づきやすさが求められているという点であって、物理学にはもちろん、記号学や哲学にも求められたりはしないことである。しかし、難解さを託つこともまた、おそらくは、ぜひ知っておいたほうがいいと予感した事柄をともかく理解しておきたいとか、必ず理解したいとか、そういう気持ちをあらわすひとつの方法ではあろう。いずれにせよ、「専門家の権力」や「専門的能力」の独占が社会学の領域以上に危険で、許しがたい領域は、おそらくない。いわんや社会学が専門家だけに任された専門的知識でなくてはならないとしたら、それは一時間の苦労にも値しないだろう。 [P.ブルデュー・田原音和監訳1991(1997):p.7]


 その核心とは、「専門家による知識の独占を排し、広く社会に生きる人々に知識を伝達してゆくことである」ということであろう。しかしながら、果たしてそれはほんとうに実現されているのであろうか。それに対する問題意識こそが本論の主要な論点である。



4 教育側の視点から


 多くの社会学教育研究者は、社会学教育の現状を「一歩社会学の世界に踏み込むと、多くの学生たちは、大変奥深い学問で、下手をするとつかみ所がなく、一年や二年触れただけでは、結局何を学んだのかを他者に説明できないということになりかねないということに気づくようになる。そして彼女ら/彼らの多くは、社会学に触れただけで、大学を巣立っていく。」[川又2002:pp.208-209]などと異口同音に発言している。
 さらには、社会学教育研究者に限らず、「社会学を志して大学に入ってきたばかりの一年生に同じような(引用者注:社会学にたいしてどんなイメージを持っているか)質問をしても、多くの学生は『漠然としていてよくつかめません。これから四年間の勉強のなかではっきりつかんでいきたいと思います』と答える。そして四年たって卒業間近のコンパの席などで同じ質問をしてみると、『結局よく分かりませんでした。就職試験のときにそれをきかれて弱りました。』などとつぶやいて去っていく者が少なくない。」[石川他1978]や、「社会学はつかみ所のない学問だという声をよく耳にする。もっともだ、と私は思う。大学の教養課程で教えることになっているので、社会学の講義をとった読者も多いことでしょう。ところが、教えるテーマが人によってまちまち。中身もいまいち、要領を得ない。これが「経済学」や「政治学」なら、むずかしいなりに学問の骨組みも、そうした学問の必要性も理解できる。しかし社会学の場合、言ってることは社会常識みたいな当たり前のことか、さもなければ哲学めいたむずかしい議論。これが果たして学問なのか、という印象をもつのは当然なのです。」[橋爪1995]というような、社会学教育の機能不全状況を示し問題を指摘する論考もある。
 さらには、「社会学専攻の学生が他の専攻の学生にくらべて特別に不勉強だというわけではない。罪はむしろ、社会学そのもののほうにありそうだ。」[石川他:1978]という社会学それ自体の問題を問う見方もある。

また、社会学教育についての教員側の認識について、『社会学教育の課題と現状(改訂版)』(日本社会学会社会学教育委員会社会学教育調査研究会)では、日本社会学会に所属する大学教員に対する調査において、「学部レベルの講義を進める上で困ること」の質問がある。それについて、1:受講者多すぎ…34.6%、2:社会学の基礎知識不十分…32.1%、3:現実問題に無関心…29.7%4:学習意欲低下…29.5%、5:自発的勉学機会減少…27.3%、6:図書館蔵書・設備不十分…26.3%、7:受講態度悪い…23.6%の結果となっている。
 設置者別では国公立が、「図書館蔵書・設備不十分」が多く、私立では「受講態度悪い」「学習意欲低下」「受講者多すぎ」という意見が多い。この回答の2,3、4,5、7からは、教員は学生に対して、問題意識の不足、基礎が不十分であり、現実社会問題へ無関心であることを問題としているさまが見える。
 しかし、「社会学教育のあり方(理念および方法)について積極的に議論をすべきか」という質問に関しては、40.6%が「大いにそう思う」、38.8%が「ややそう思う」と回答し[10]、両者を合わせると80%近くが何らかのアクションを起こすべきとは考えているようである。


1:受講者多すぎ                   34.6
2:社会学の基礎知識不十分         32.1
3:現実問題に無関心               29.7%
4:学習意欲低下                   29.5
5:自発的勉学機会減少             27.3
6:図書館蔵書・設備不十分         26.3
7:受講態度悪い                   23.6


 このような状況は、何によってもたらされているのであろうか。社会学そのものが悪いのだろうか、そうは思わない。私は、ブルデューの言葉のような社会学教育の理念を、社会学を学ぶ側=社会学学習者へ伝達していく営み、つまり教育の過程において、何らかの「障碍」が発生しているのではないかと考える。その障碍とは何だろうか。


5:コミュニケーションギャップ


 「障碍」を抱えたまま行われている社会学教育の一つの結果として、「半期ないし通年の授業終了時には、学生の人生観(というかそれ自体が社会通念的な「常識」の複製なのだが)と社会学の専門用語とが奇怪に混合されたレポートがほぼ学生の人数分届けられることになる」[石飛1997]状況が発生し、教育側(社会学者)をして、「社会学教育は必然的に「闘争」たらざるをえなくなるだろう。それは、社会学レポートの名において人生観を表現(”ex-pression”;まさに「押し付け」)しようとする学生との「闘争」であり、またそれ以上に、知識と教育の傾斜的な構造の上に成立している学校制度との「闘争」であり、またそうした学校を自明視して疑わない我々の社会(話を戻すならば、それを「学歴社会」と特徴づけることができるだろう)それ自体との「闘争」でもあるだろう。こうした幾重にも重なった闘争の場であること、しかも社会学者は「無知」だけを頼りにその闘争を闘わねばならない」[石飛:1997]と言わしめているのである。
 これは、「教える側」である社会学者(社会学専門職)と「学ぶ側」である学生(社会学しろうと)との「認識の違い」を意味している。野村一夫の表現によれば「コミュニケーション=ギャップ」[11][1995:p.12]である。前述の教育側の認識に対して、学習者側は、イメージと違うものを要求されるいわれはない、こんな役に立たないことを学びに来たのではない、そもそも大学の学問に意欲はない、という不満と失望を抱いているのではないか。その結果、「コミュニケーションギャップ」という社会学の障碍を生み出す結果となっているのではないか。
 そしてこのような、「コミュニケーションギャップ」状態で行われる社会学教育は、「社会学の世界(学界)」と「一般の国民・市民」との間の行き違い」「食い違い」の投影といえ、社会学そのものが「疎外」[中山:1996]されることでもある。この疎外の状態が続けば、社会学は社会(市民・国民)からますます遠いものとなり、ブルデューが危惧したような社会学界の「タコツボ化」による「専門知識の独占」に拍車がかかることによって「知識の還流」が滞り、さらにギャップが深まるという悪循環により、衰退に向かってしまうのではないかという危機感すらある。
 私は、この「コミュニケーションギャップ」こそが、社会学教育を機能させる過程における、最も大きな障碍と思慮される。したがって、この「コミュニケーションギャップ」をいかにして埋めるかが社会学教育の再生と活性化を図る鍵となることを認識した。




[1]  必ずしも「害」であると断定しないため、以下「碍」を使用する。

[2]  『社会学小辞典』(有斐閣)・『現代社会学辞典』(有信堂高文社)・『新社会学辞典』(有斐閣)

[3]  この分類は筒井清忠[1995]による「高等教育における「教養」」を三つのカテゴリー概念に整理したものを参考とした。@専門に対する基礎としての教養、A幅広い知識としての教養、B文化の習得による人格の完成という意味での教養である。
 筒井によれば(2)について「人文・社会科学を専攻する人間も自然科学を教養として知っておいた方が良い」という場合、「教養」は幅広い知識としての「教養」である。しかし、この「教養」概念の最大の問題は、「学生達の頭はたんなる雑駁な知識の集積場となってしまう危険性が高い」ことだという。そして中・高校から大学教養課程までの知識の詳細化と増大化が「汎正解主義」と結合し、成績「優」を獲得することで就職を有利にするなどの功利的思考とつながっている。また、「優」の数を増やすことを自己目的化するというケースも出てくると指摘している。[pp.173175
 筆者はこれを、何割かの興味と、知的関心を持ち履修しながらも、「単位」という成績を得、「大学を卒業する」という目的のための手段としてシステマティックな学習行動と取得する知識についてがこれに分類できると考える。また(3)については、筒井によれば、ドイツ流の「Bildung」の系統から出た哲学、歴史、文学など人文学を学ぶことで身に付く「人文的教養」であり、この人文的教養を修得することで人間についての理解を深め、人生や運命についての洞察力を養うことができるというもので、この教養概念は元来、明治期の「修養主義」を源泉に、「修養」と「教養」を同義とし、人格の陶冶を主眼とするものである。そして「教養」が次第に「修養」から分離、離脱し、旧制高校の「教養主義」がそれに相当し、特定のエリート層と結び付き発展していくこととなる。これは日本のいわゆる「高等教育」の歴史を端的に表現したものといえ、新制大学設置の際の教養課程創設の発想である。そしてこれが教養課程の中に盛り込まれた科目の中の「社会学」を「ワン・オブ・ゼム」として履修し、「『単位』という成績を得るための学習行動とそれにより取得する知識について」がこれに分類できると考える。

[4]  『社会学の現状と課題』調査報告・社会人学生調査を参照。

[5]  日本社会学会・社会学教育委員会(研究代表者:布施晶子)『社会学教育の実態と動向に関する調査報告』(1996)において、「日本社会学会会員が所属する319大学を対象とし」て、240大学(国公立81・私立159)から回答があった。そのうち、社会学専攻設置(社会学部・社会学科など)が30.6%(国公立の29.6% 私立の31.4%)、準社会学専攻設置(人文学部間科学科・コミュニケーション学科など)17.8%(国公立30.9%・私立10.1%)、学部関連科目設置(法学部における法社会学・教育学部での教育社会学等)37.6%(国公立42.0%・私立35.8%)、専門課程で全く開講されていないのは、全体の22.7%(国公立12.3% 私立28.3%)となっている。専攻および準専攻を加えた数値では、国公立で60.5% 私立で41.5%が何らかの体系によって専門として社会学教育を受けていることになる。これによって換算すると国公私立115大学程度ではほぼ確実に社会学が体系的に学べると予測される。
 また、中山伸樹「社会学教育と民主主義的市民社会」(1999)では、アエラムック『社会学がわかる』(1996・朝日新聞社)の、「社会学が学べる大学」の一覧表をベースに「1998年版『全国大学職員録』」によって加除」して、社会学科名称・社会学科以外の名称含めて国公私立135機関を挙げている。さらに、受験生にとってのガイドとなる『進学リクルートブック00進学事典・大学短期大学版 関東甲信越』(2000・リクルート社)では、「学べる分野別INDEX」「『社会』をテーマに学びたい」のなかで、国際関係学、地理学、法学、商学、政治学、経済学、経営学、情報学、福祉学、経営工学と並んで、社会学の欄がある。そこでは、国公私立222機関2000)である。

[6]  東洋英和女学院大では、人間科学部人間科学科と社会科学部社会科学科があったが、社会学専攻があるのは人間科学部人間科学科である。しかし2001年度より社会科学部社会科学科は、国際社会学部国際社会学科へ改称し、「社会学」と名につく学部に社会学がないという状況になる。
 また、私学の雄と呼ばれる早稲田大では、『社会学がわかる』では第一文学部哲学科社会学専修と掲載されていたが、大学案内を見ると演習科目しか表示されていなかったのに対し、他学部の、「教育学部社会科社会科学専修」では、社会学概論が選択必修で、文化人類学、国際関係論、社会学研究、社会学方法論、などが開講されている。「社会科学部社会科学系」では、社会学、文化人類学が基礎科目、現代都市・地域論、社会調査、社会史、ジェンダー論などが開講、さらに「人間科学部人間基礎科学科」では、村落、家族、都市、産業各社会学実習があるほか、社会心理学、社会変動論、人口学、余暇論などが開講されている。つまり、これらの学部のどこでも社会学の個別分野として学べる科目自体は履修することができるという現実がある。
 法政大学社会学部では「社会学科」・「社会政策科学科」の二つの学科があるが、一部の必修科目を除けばほぼ同じカリキュラムとなっている。この実態はあまり知られておらず、受験倍率は「社会学科」のほうが圧倒的に狭き門になっている状況も見られる。
 一方、横浜市立大学では、商学部経済学科の中に「地域社会コース」があり、科目数は少ないものの体系的な教育が行われているという場合もある。

[7]  また、学部・学科の組み合わせにおいての多様化も起こっている。いわゆる「現代社会学科」では「(現代)社会学」と「現代社会・学」があり、カリキュラムを見る限り、前者は成蹊大や広島国際学院大など、後者は「現代社会・学」を公言している京都女子大や愛知淑徳大などに分けられる。「現代社会・学」の方では、高等学校までの「社会科」に近いものを目指しているようである。さらに、A大学では人間関係学科と社会〜学科があり、B大学では人間関係学科と現代社会学科がある場合、A大学では人間関係学科が社会学で、B大学では現代社会学科に社会学が開講されるという事態も起こっている。

[8]  「社会学教育の目標・理念などに変化はありましたか」の問いに対し、「学際性に富んだ幅広い視野の育成」(39.3%)「情報化、国際化など時代の要請にあわせたカリキュラム改編」(38.4%)「一般教育重視から専門教育重視」(29.7%)また、「社会学の専門教育について」では、「現状では十分でない」が87.7%の回答を占め、その理由として「学問の広域化・学際性重視」「社会学の学問としての多様化への対応」「社会学の専門性重視が不十分であるから」と回答している。

[9]  専門教養教育については「大学教育のいわば入り口にあたる全学共通基礎科目的な段階における社会学教育は、相対的にその比重を軽減しつつあるように見える。しかしながら、それ故にこそ、学際化、広域化、多様化の一途をたどる科学全般のなかにおいて、アクチュアルな社会への興味、関心を惹起する役割とともに、社会科学あるいは自然科学と社会科学をつなぐアマルガム的な役割を果たしている現実を踏まえ、その存在価値を練磨する内容、方法、教授法、そして魅力あるテキストの開発が待たれる。」としている。

[10] 「あまりそう思わず」15.6%、「まったくそう思わず」2.3%「無回答」2.8%

[11] 原文のまま。以下「コミュニケーションギャップ」と表記する。