第2章:問題分析
第1節:社会学に起因する問題

 この節のキーワードとして挙げたいのが「フェティシズム」である。小室直樹は『日本の敗因―歴史は勝つために学ぶ』(2000講談社)で、昭和15年日華事変中の「斎藤反軍演説 」を例に次のように指摘した。『第七十五帝国議会の開幕早々、斎藤隆夫代議士は、支那事変の戦争目的について、米内(光政)内閣に質問した。これに対して …中略… 戦争目的について確然と答えられる大臣はいなかった。日本には全く戦争設計がないことについてはこれまでに再三にわたって論じてきたが、戦争目的がなければ当然戦争設計はない。本来手段であるはずの戦争が目的となってしまって、単に戦うために戦わされたのであった。』[247p]『目的を明確に理解すれば、手段も明確に見えてくる。だから、適切な手段がとれる。ところが、制度が疲労し、組織が腐朽してくると、目的が失われ、手段が目的であるかのごとく錯覚するようになる。目的と手段の逆転である。心理学などの用語では「フェティシズム」という。よく性的な事象に用いられるが、根本は、この目的と手段の逆転現象のことだ。』[188p]
 なお、小室がここで使用する「フェティシズム」は『社会学小辞典』では「目標の転移(goal displacement)」 と規定されているものだが、本論文では同一の意味として「フェティシズム」と表記する。
 さて、スペースを割いて長々とこのようなことを書いてきたのは、「社会学教育の目的とは何か」という問題を強調したいがためである。
第1章で述べたような、社会学の拡散と「行き違い」が起こっていることなどの問題の原因として、私は「社会学の教育目的」が不明確である、もしくは「フェティシズム」的に、手段を目的化した「学者養成型」の教育に限定されているところに大きな原因があるのではないかと考える。
社会学の個別範囲として、学問的研究を主としない実践的な分野もあるが、学科もしくは専攻・コースがトータルとしてどのような教育目的をもっているのかが不明確に過ぎるのではないだろうか。実態として「東大型」と呼ばれる研究者養成目的「訓練所」としての「社会学教習所」の単線しかないのではないか。つまり「何のために」学ぶかではなく、「社会学を学ぶ」ことそれ自体が目的化しているように思われる。無論そこには「真理の追究」という普遍的な目標があるのであるが、高等教育が大衆化した結果として、資料において示したように、数多くの高等教育機関で「社会学」が教授され、膨大な数の社会学徒(本人は自覚しているかどうかわからぬが)が生まれているが、そのなかで社会学研究者となる目的を抱いている(真理の追究も同様)人間は大変少数になるはずだ。それ以外の社会学徒たちは何を目的に社会学を学ぶのか。それに対して教員側は何を目的に教育するのであろうか。社会学に全く縁のなかった人間が飛び込んだところで起こる私語問題や、受講態度、学習意欲の低下などの問題は、「疎外」された彼らの見えない反乱と解釈しては買いかぶりすぎであろうか。本来、人間の集合体である社会を対象として研究する社会学は、人間(市民)と直接距離はおきつつも、全く疎外されることがあってはならないと思う。研究のための「訓練所」には目的はなくてよいかもしれないが、教育となると、「『A』という人間が教育を受けて『A'』になる」という意味においての「A´」にあたる人間像、つまり「リアリティがある目標(目的)」が必要ではないだろうか。
 「目的」は、教育を受ける人間が自ら見つけるものであって、提起するものではないという主張もあるかもしれない。しかし、就職対策講座などで、通常私語が発生する大教室を会場としても、全く私語が起こらないのはなぜだろう。やはり目的意識があるなかで参加しているからではないだろうか、それでも目的意識を喚起することを軽視するならば、私語問題や、受講態度、学習意欲などに対してあれこれいうこともまた、はばかるべきではないだろうか。

社会学の役割論
 野村一夫は、『社会学の作法・初級編』のなかで、アルフレッド=シュッツの「well informed citizen」をもとに「反省する社会」の担い手となるひとびと、「見識ある市民」の養成に社会学教育の目的を見出している。『社会学は、ヒマ人や趣味人の「知の戯れ」などではない。複雑化した現代社会において、自律的で責任ある主体として生きようとする「見識ある市民」の基本的な生活能力である。だから、本を読んだりレポートを書くのは、そうした生活能力を高めるためにおこなうのであって、エレガントな知的遊戯では断じてない。』『社会学は「ジャーナリスト的存在」であろうとする「見識ある市民」の形成を支援する科学であり、そのような人々によって生み出され、強化され、現に必要とされている科学なのである。』[野村1995/201-202p]
 この野村の主張は、社会学書の中で目的論に言及している数少ないものであり、評価に値するものである。ただしこの主張には、「教育」という行為が関わってきた際に、大きな問題があるがこれについては後述する。
 一方、薬師院仁志は『禁断の思考―社会学という非常識な世界』のなかで、このように主張する。『誤解を恐れずに言えば、社会学は、社会を良くするために行う研究ではないということである。もちろん、社会学の成果が何かの役に立つ可能性など全くありえないと断言することはできない。しかし、仮に社会学が結果的に役立ったとしても、それはたまたま生じた出来事であって、ある研究が社会学に値するかどうかは、それが役に立つかどうかとは全く無関係なのである。』[8-9p]『社会学は、役に立たないばかりか、われわれの常識的価値観を逆撫でするような帰結を提示することもしばしばであろう。しかし、それが社会学の学問的廉直さというものである。何かの役に立とうなどといったおこがましいことは考えず、できるだけ純粋に、社会的な事実とは何かを考えることこそ、真に社会学的な営みなのである。そして、方法的に正しく導かれた結論に対しては、それがいかに受け入れがたいことであっても、事実は事実として認めなければならない。社会学にできることは、ただ社会学的な研究のみであって、それ以上でもそれ以下でもないのである。』[10p]
 このような『只管打座』ならぬ『只管分析』的スタイルは、表現こそいささかストレートであるものの、オーソドックスに信じられてきた社会学・社会学者スタイルであろうと思う。メディア登場機会が多い社会学者の一人である宮台真司なども、このようなスタイルでテレビの討論番組等において発言しているが、彼独特の「まったり」「うそ社会」などの表現で現代社会の分析論では他を寄せ付けないが、「それではどうすればよいか」という話になると、とたんに旗色が悪くなる。薬師院の言を引けば『望ましい社会像を考案するという作業は、社会学ではなく、むしろ社会思想に属するものである。』『それらは、社会学が分析する対象でありこそすれ、社会学自身が特定の理想や思想を作り出すことを任務としているわけではないのである。』[11-12p]ということではあろう。しかし、彼は「そんなことは社会学の役割ではない」と突っぱねられずに、お世辞にも洗練されてないピントのずれた議論を主張して失笑をかったにもかかわらず、他者の主張を社会学的分析で徹底的に批判して、逆に集中砲火を浴びるようなこともよく見られた。最近では批判されないようなところにしか出ないようだが、「社会学は口だけだ」という大衆の社会学イメージを悪くすることを図らずも助長する形になっているのではないだろうか。
 そう考えると、薬師院のこの主張は「開き直り」ととれなくもないが、本書ではむしろ社会学の初学者に対しては、学問的社会学の基本的スタンスで身近な例を挙げつつ実に明快かつ社会学書にしては平易に語られており、自己弁護的に「社会学は掴みどころがない」といいつつ、初心者に難解な議論を書き散らかす文献が数多く認められるなかで、一読する価値がある。しかしながら、彼の主張のなかには、社会学「研究」の「対象」としての「市民」もしくは「大衆」の視点は存在しても、社会学を学習する主体・教育する対象「市民」もしくは「大衆」への視点が欠けているのではないだろうか、社会学は、「知ろうとした賢者」、「社会学エリート」のみが知ればよい知識であると理解されても仕方がない。
野村一夫の主張する「ジャーナリスト的存在」として社会を見る視点を養う「リテラシー」を目的とした社会学は、「教育目的」としては大局的視点を与えてくれるが、実態 に即して大学生を教育対象とするには問題があると思う。
 これに関して、石飛和彦の文を引いて説明すると『現代社会において、アカデミックな知というものが決してそれ自体として正当性を持たずあくまでも学歴社会という文脈の中に埋め込まれることによって初めて意味を持ちえているということである。』[石飛1997]という状況から、野村が主張するようなある種の「啓蒙」的社会学教育を進めるとすれば、市民は市民でも一般大衆ではなく、学歴社会に権威づけられた大学で、学歴社会を生き抜いてきた、社会経験が多いといえない学生、しかも「社会学」を専攻もしくは選択した人間のみを恩恵の対象に行われることの矛盾が出ることになってしまう。社会学界全体の問題をまとめるなら、野村と薬師院の主張の相違、社会調査士をめぐる議論に象徴されるような、「聖VS俗論争」のごとく発展しているところに、社会学界の抱える問題が投影されている。聖俗を超えたハイブリッドな目的論を最終章で展開したい。


第2節:大学システムと学歴社会
 前節では、「目的」問題について社会学側を考えてみたが、一歩下がって大学教育に目的があるのかという問題について考えてみる。

日本の大学に教育目的は存在され得るのか
 日本における「大学」の歴史は明治以降のいわば「欧米技術訓練校」としてスタートし、その「知識」を伝達することが教育目的となり、その知識を得ることが『立身出世』の手段となることで発展してきた。その構図が「学歴社会」神話を形成する理論的根拠となったわけである。その後大正7年の「大学令」発布以後も、制度的に変化した戦後の新制大学発足においても、大学への教育人口が横ばいか緩やかな上昇に留まった時代までは、教育目的には大きな変化はなく、現在でもないといっていいかもしれない。
 一方で大学に対する権威という点では、戦後の大衆化がもたらした問題として、それまでの大学像が、大学の自治を主張した学生運動によって、大学の自治というベールに守られていた大学の価を相対化させ、「沈静化」以降の「レジャーランド」で、相対化は完成された。そして「学歴神話」だけが「学校歴神話」と形をかえて残った。これが現在の大学であるといえるだろう。
 そして、一言で言えば日本における大学は「大卒資格」をとるための場であることが最大の目的であり機能となっているのである。「京大卒業生の意識調査」において、「学問・教育の内容には満足していないが、京大に在籍したことはプライドを持っている。」という傾向が如実に示している。[梶田164p]したがって、学問内容は重視されない上に、研究を主としてきたため、教育は軽視されてきたという歴史がある。そしてそれを「大学をでて安定した職業につき、安定した豊かな生活を送る」という「学歴神話」 を持った日本国民は無意識のうちに支えてきたのだ。この「目的なき教育」を大学において期待されている環境が維持されている限りは、少なくとも安易にアメリカのように「入りにくく出にくい大学」を創っても多くは期待できないであろう。

基礎的な知識・技能不足の原因
 第1章において、『社会学教育の課題と現状(改訂版)』の、日本社会学会に所属する大学教員に対する調査結果を示したが、基礎知識の不十分さ、レポート論文の書き方などのリテラシーが身についていないという指摘は多い。野村[1995]でも大部分の紙面をその教授に当てている。他方、最近では「学力低下」論が注目されており、理工系学部では数学の補習を行ったり、それを商売にする予備校も出たという。
 そもそも大学受験があるのに「基礎的な知識・技能不足」はなぜ起こるのだろうか。それを探っていくと日本の教育の非効率さが浮き彫りになる思いがする。日本の教育システム自体に起因する問題として、小学校が初等教育、中学校が前期中等教育、高校が後期中等教育、そして大学が高等教育機関と規定されているが、人文・社会科学学科の場合、高校と大学の間に大きな断絶があることがある。具体的に言えば、高校での教育目的が事実上『大学入試の突破』になっていて、高等教育で行われる教育の基礎となるものを教えることがほとんどないということである。また、大学側も入学後に必要となる基礎知識・技能などについては入試で問うことがなく、いわゆる普通の「学力」(それも受験学力なのだが)を入試、センター入試で測り、入学しているという現状である。入試制度が変わらない限り、高等教育の基礎を学ぶ機会は皆無といっていいだろう。そのような状態で大学に入学しても、「目的」は達成されているのであるから、「大学の学問」という目的外のもののために、改めて基礎を身につけようと考えるのはよほどの物好きに成ってしまうだろう。浅羽通明はそのような行為は教育(学習/研究)より重要な大学生活を無駄にすると忠告さえしている。
 それ以前に社会科学系では、物事を批判的に考察し、レポートを書く、討論するという基本的な訓練がなされぬままに中等教育が終了し、高等教育に移行することの問題点は常に指摘されている。浅羽は『高校生に大学の学部や学科を選択せよと言う無理』を主張し、『新制大学が失ったもの―5つの不条理』を挙げている。@高校までと違う大学の授業の聴き方について、ほとんどオリエンテーションがなされていない。A中身がわからないのに、学部・学科、授業を選択させられる。B教養語学では、受験英語レベルからみても、物足りなく、かつ非実用的な訳読ばかりやらされる。Cある学問のダイジェストでもエッセンスでもない、より細分化された一部の講義を、一般教育科目として聴かされる。D成績評価が大雑把に思え、また評価の基準もさっぱりわからない。[1996 49-50p]浅羽はこれらの原因として、戦前の大学予科・旧制高校のような「緩衝地帯」が戦後存在していないことを挙げている。
 戦前の教育制度では、5年制中等学校の上に2年制高等学校、もしくは私立の場合には大学予科が置かれ、高等学校では学部を選ばなければフリーパスで帝国大学(3年制)へ進学できた。また、中学4年終了時で旧制高等学校入学試験受験資格ができ、合格すれば1年飛び越して旧制高等学校に進学できるという、5(4)−2−3システムになっていた。そして旧制高校では、エリート養成を目的とした、教養教育と語学教育が中心に行われていたほか、自由な雰囲気でモラトリアム的な機能も持ちえていた。
 それが、戦後 の教育改革により3−3−4制となり、新制中学・高校・大学の単線システム化されてしまった。占領下行われたこの改革では、アメリカの教育使節団などが、帝国大学卒業者の特権的待遇を修正し、国民大衆に「高等なる学問」(higherlearnning)へ進む権利を与え、少数者の特権ではなく多数者の機会としての自由な高等教育を目指していた。また、「日本教育家委員会」でも、人物養成としても、語学教育としても旧制高校の機能を否定し、階級性の打破、社会的平等のための効用を認めて廃止を提言した。もっとも、敗戦直後で、当時の大学進学率はヒトケタ台であり、さらにそのなかでの帝国大学に進む旧制高校進学者はほんの少数であった時代背景を考えれば無理もないことではある。また、エリートの養成を目的にした旧制高校に女子の入学は認められないなど長所だけがあったわけではないことも考えなければならない。
 当時から、旧制高校廃止による学力低下を心配する声はあったが、各方面で『旧制高校廃止に伴う大学1年分の減少は、新制高校の最終学年と、新制大学1年次で補う』(日本教育家委員会)という考え方に集約されていた。また、『旧制高校の長所を新学制に活かす』(教育刷新会議)のような考え方は「前期大学」構想の源流となり、専門学校の「前期大学」への昇格が「短期大学」として固定化していくわけである。
 いずれにしても、このときの構想は50年以上経過して非常に歪んだ形で受け継がれてきてしまったように思う。急激な経済発展に伴う大学の大衆化と、少子化の進行した時代には、変更せざるを得なくなっているだろう。戦後学制改革のより詳細な経緯については、今回はあまり深く追求する時間的余裕がなかったので断念したが、真に「学ぶ大学」に再生させるならば、現在進みつつある中高一貫教育の対抗軸として、旧制高校・大学予科の長所を継承する教育機関・課程を創設してもよいのではなかろうか。


第3節 知をめぐる状況の影響
 社会学の目的を考える上で、無視できないのは「知」に対する社会の意識変化の問題である。伊奈正人は『サブカルチャーの社会学』のなかで、戦後日本社会における知を取り巻く社会の変化を「マニュアル知」・「サブカルチャー的な知」、「お手軽知」、「ワイドショー的な知」の問題に触れて指摘している。ここで取り上げたいのは、「ワイドショー的な知」「マニュアル知」の問題である。「ワイドショー的な知」では、中野収が『メディア人間』で『「社会」が「テレビ化」するという論点を提起し』たことに触れ、80年代以降、『テレビ番組のなかで、旧来の「教養」「知」に、テレビのスタイルが染み通っていき、「テレビ化」していく。すなわち、自然科学、社会科学、人文科学など、さまざまな学問が、新機軸により、番組化してゆく。その傾向は今日まで続いていると言ってよいだろう。』[28p]そして、80年代以降の「劇場(型)犯罪」などの発生によって、『「社会」や「知」―ないしは「リテラシー」それ自体―が「ワイドショー化」し、「ワイドショー的なもの」でなければ表現・解釈できないものが、今日たくさん出てきているということである。』[29-30p]と中野の主張を整理している。伊奈はこれを補い、『「知」や「社会」の「サブカルチャー化」ということもできる』[30p]とした。これは旧来の「知」「教養」の視点から考えれば『一億白痴化』(大宅壮一)なのかもしれない。そして80年代、大学がレジャーランドと呼ばれた時代には、大学生が「ワイドショー的な知」の担い手となり、「大学生文化」が構成された。かつてタモリの芸が「大学サークル芸」と呼ばれたように。知的遊戯の文化をひきずりつつ、不滅と信じられた好景気のなかで、受験戦争の勝者としてのモラトリアムを謳歌するというエネルギーがあった。しかし、その担い手は高校生に移り、「かつて大学はレジャーランドと呼ばれていた。」「しかしそれは遥か遠い80年代の話。いまや大学はレジャーランドですらない。」[山内2000]という状況に陥っている。
 次に、「マニュアル知」について、伊奈は、浅田彰が提起した『チャート式の学問』は、『晦渋で「どうだわからないだろう」という衒学的な知を破壊し、わかりやすい知を目指していた。』[199p]と述べ、その代表格としての「受験知」や、「資格」「スキル」と提起している。また、本来「マニュアル知」は『「マニュアルの運用」だけでなく「マニュアル化」「マニュアルの創造」をも考慮に入れ』たものであるはず [199p] であるが、それが選別や管理の道具になっていること、マニュアルに固執しすぎたための悲劇(筆者はこれを「マニュアルの目的化(フェティシズム)」と捉えたが)などを紹介し、警鐘も鳴らしている。
 知をめぐる「ワイドショー化」「マニュアル知」の問題を、社会学教育になぞらえてみよう。「ワイドショー化」「マニュアル知」が広まるまでは、大学の大衆化以降も「学者養成型の教育システム」に接触するということそれ自体が目的化し、その目的が受け入れられる「知の土壌(権威)」があった。(もちろんそれは学歴社会に支えられてのものではあったが)しかし、それが広まってからは、たとえば「ワイドショー的社会」で起きている問題に対する、ワイドショーとは異なった視点からの分析や解釈を、「わかりやすく」知るための「マニュアル」として社会学を求めるようなニーズも現れてきた。また、生涯学習=社会教育の世界においても、70年代のように、問題解決のための「学習会」を重ねていくより、「答え=マニュアル」を教えてもらう、「カウンセリング」してもらうための「マニュアル」を教えてくれた方がよいというニーズに対して、どう説得できる論理があるか悩む状況すらある。しかし、そのような流れに対して、社会学は前述のような理由で必ずしも応えられていない状況が発生してしまった。その結果として、『チャート式』に比べると「まだるっこしい」「わかりにくい」と見られるものは、その批判を避けようとすればするほど、細分化した分野に、悪く言えばマニアックな、社会学界に留まる範囲における議論に、内向きにシフトしていき、集中してしまい、「疎外」を一層深めている。ということができるだろう。
 「マニュアル知」を全肯定し、「わかりにくい知」を全否定する気はさらさらない。むしろ「マニュアル知」にはどちらかといえば慎重に考えたい方だが、「わかりやすい知」社会学に求められているなら、市民に開かれ、理解されるために、その社会とコミュニケーションをとって付き合っていかなければ、社会学の意味はないのではないか。また、昼間の学生の意欲低下が叫ばれるなか、夜間・2部生に意欲の高さは話題となっているが、その理由は、彼らの「目的」が旧来の「知への接触」とさほど変わっていないということが大きいのではないだろうか。したがって、昼間・一部の学生であっても、「目的」意識を喚起することによって、学習意欲はある程度改善することは可能だと思うのだが。


第4節:日本・日本人の教育観と国民・市民の意識
 ここでまた視点を変えて、学習者となる日本人の「教育」「学習」意識について触れてみたい。

教育改革
 『新制大学50年、大学の改革が問題とされないときはなかった。』[大崎@p]と言われているが、「教育改革国民会議」をはじめとするここ最近の「教育改革」の動きは、教育内容の細部の改革と『教育基本法』の改正問題のような究極的な問題に集中し、第4節で指摘したような学制改革などのシステム面の改革、そして「教育哲学」に関する議論が見えていない状況がある。

大学レベル=知名度&就職レベル
 大学の偏差値序列については多く研究者によって解明され、文献も多く出版されているが、大学のレベルが、知名度とそれに関連した就職状況(一流企業に多く入っているか)という実利的側面と、イメージ的側面による人気によって構成され、仮に大学が学問においてよい事をしても人気に結びつかないということが問題である。日本人にとっては「大学レベル=知名度&就職レベル」なのだろうか。現に、大学案内を見る限り魅力的なカリキュラムを構築している大学が、偏差値ランキングでは「F」ランク になってしまう。無論[山内2000]で指摘されているような「大学立地」面における人気の優劣も重要ではあるが、特に新設大学の場合は就職の「実績」がないために、相当の苦戦を強いられているのである。
 大学案内に絡めていえば、どこの大学でも就職状況のページに力を入れ、どの学校も航空会社のフライトアテンダント(スチュワーデス)に進んだ出身者を取り上げている。フライトアテンダントというある種の専門職な場合、学校の内容とはそれほど大きな関係があるとは思えなく、学校とはまた別の機関(ダブル・スクールなど)での訓練が必要とされている。現にほとんどの大学で掲載されているということは、学校差がないということでもある。
 バブル崩壊以降、企業の学歴信仰も減少し、「能力主義」採用が増えたといわれてはいるが、現実には、確かにその傾向は見られるものの、景気低迷によって採用人数を絞った企業はかえって「学歴」に頼る傾向もある。また、「能力主義採用」における「能力」は、フライトアテンダントの例を引くまでもなく、大学での「学問」を努力して修めた能力ではなく、『日本の高等教育は、企業内教育にある』[浅羽1996 88p]と豪語される教育を先取りした人間の能力であり、大学で勉強をしない人向きにつくられたシステムといってよいだろう。『専門的な大学教育は不要であるばかりか有害でもある。』といった言説は形を変えて生きているといえる状況が続いている。しかも、就職協定の廃止によって就職活動の開始時期も早まったということは、大学における学業が占めるウェイトはますます軽んじられていることの証左であろう。

ゆとり教育VS学力低下論
 最近、大学生の「学力低下」論が論壇で頻繁に論じられるようになり、あわせて文部省が導入する「新学習指導要領」の「ゆとり教育」についての是非論が喧しい。しかし、これは「大学生が勉強しない」ということが問題にされているのではなく、「分数ができない大学生」のように、「大学生になったときの学力」が受験戦争の時期に比べて低下している。ということであって、このようなセンセーショナルな報道のされかたを見ていると、分数計算ができないことが、そんなに深刻なことなのだろうかと考えたくもなる。それほどまでに重要ならば、入試で課せばよい話である。第2節の冒頭で述べたような事態が起こるのは、入試科目のカットによるものが多いのであるから。
 一方「ゆとり教育」論にも問題がないわけではない。この「ゆとり教育」が「愚民化教育」になってしまうのではないかと、心配する出来事があった。私は、個人指導の塾でアルバイトをしているが、小学生に算数を教えていたときのこと、図のような問題が出題された。この答えは3.14cmになるわけだが、これが「新学習指導要領」施行後は、3.0cmになってしまう。これは円周率が3.14から3になってしまうからである。これによって弓の弦の長さと弧の長さが理論上イコールになってしまうのである。物理的に間違っているにもかかわらずである。私は理数系でもなく、数学を得意としていたわけではなく、むしろ苦手な方であったが、ここまでやってしまってよいものかという気もする。
 この事態が進んで公教育で行う教育内容だけでは、受験に対応できないという事態(すでに私立中受験で常態化しているが)が起これば、学校以外の教育費に資力を投入できる階層、また、教育にそれだけの重要性を認識する「文化資本」をもった階層だけに教育を受ける機会が限定される事態さえ起こりかねない。[苅谷2000など]

 この論争では、教育哲学の問題がないがしろになっていまい、したがって議論がかみ合わない。明治期から高度成長まで、欧米へのキャッチアップ段階までの日本における「教育」は確かに国家戦略であった。しかし、キャッチアップに成功して以降の教育が、「国家戦略」なのか「個人への公共サービス」なのかの議論が深まらずに、「不登校」や「中退」「ストレス」などの教育問題への対応として偏差値の「廃止」や、受験の見直し、そして「ゆとり教育」と、悪く言えば小手先の政策を行ってきたところに、この論争がかみあわない理由がある。読売新聞は2000年11月3日の教育提言で「国家戦略」であることを公言した。また村上龍などの議論も経済的側面からみた教育論[村上2000]である。学力低下と教育問題の根本的解決は、国家的課題であるという認識である。それならば一方で学校を「ドロップアウト」する状況をどうするのか、「フリースクール」などを公共的に行うことの是非などの問題にも言及するべきである。
 このような教育論議、すなわち「国家戦略」か「公共サービス」かの議論が国民的コンセンサスを得ていないところに、教育改革の目的が迷走する原因、地方自治体が「教育委員会」という形で一般行政と距離(実際はそうでもないが)をおいているのに対し、国家レベルでは「文部科学省」という行政機構に組み入れられた組織が教育行政を司っていることに関しての正統性の議論が発展しない要因であるのではないだろうか。

日本人の「勉強」観
 日本人の教育目的から「立身出世」「学歴付与」という目的を取り除いた場合、「学校教育」とくに「高等教育」に関してどのようなニーズを持っているだろう。「学校の勉強=苦労」という意識が高等教育にまで影響しているのだろうか。寺脇研は「〜は勉強しなくてもできた」という言葉をいう人間は多いが、実際には「好きなこと」であったがために「苦労」を感じなかったというだけで、人並み以上の勉強はしているはずだ[村上42p]としている。つまり「苦学じゃない=勉強しなかった」というようなイメージを日本人の多くが感じており、「何かのために勉強する」よりも、「勉強する=苦労する」こと自体に意味を見出しているのではないか。という新たな疑問も現れてくる。
 学問研究にはもちろん結果として苦労することはあっても、苦労するために勉強するのではないはずである。学力低下や私語問題等で、「勉強はつまらないものだ」ということを前提に、「辛抱がたりない」という論を唱える向きも多いが、そもそも「目的のない勉強」は「辛抱するもの」なのだろうか。 ということも議論しなければならないだろう。「勉強しなさい」という目的語がない言葉が何よりこのことの本質をあらわしているように思う。
このようなことのほかにも、日本人の学習観と、『守・破・離』 に代表される成長・成熟観とが合致しているのかという問題があるが、これらは今後の研究課題としていきたい。

 国民・市民の意識としては、大卒であり、さらに言えば有名大学の出身であるということが「ハク」となり、「偏差値と就職こそが世の中一般から見た大学への評価である」(浅羽通明1996)という状況を支える形となっている。その背景として、戦後、「学歴の向上イコール生活の向上という神話が国民に広く浸透した」[苅谷1995]という問題がある。これらは、「学歴社会」を無意識に支え、「目的なき教育」を黙認しているといえよう。