第3章:まとめと提言
 第3章であるが、社会学の「自己言及性」を意識する筆者としては、前章までの議論を踏まえつつ、新たな社会学教育の目的像を提案して結論としたい。

社会学教育問
題のまとめ
 まず、社会学教育問題の論理的構図をまとめると、社会学は現在まで持ってきたその学問的独自性を確かに失いつつあり、「知」に対する意識の変質などにもよって、受験生・学生・そして市民から疎外されている現状があるが、それにおいても学問として成り立っているのは、無意識のうちに、現代日本の大学システムに支えられているからであり、その大学システムは、小学校―大学という単線的な日本の教育制度と「学歴社会」によって支えられている。そしてこの日本の教育制度は、これもまた市民・国民によって無意識のうちに肯定されているという状況があるということである。
 そのような状態で行われる社会学教育は、社会学者をして『半期ないし通年の授業終了時には、学生の人生観(というかそれじたいが社会通念的な「常識」の複製なのだが)と社会学の専門用語とが奇怪に混合されたレポートがほぼ学生の人数分届けられることになる』『社会学教育は必然的に「闘争」たらざるをえなくなるだろう。それは、社会学レポートの名において人生観を表現("ex-pression";まさに「押し付け」)しようとする学生との「闘争」であり、またそれ以上に、知識と教育の傾斜的な構造の上に成立している学校制度との「闘争」であり、またそうした学校を自明視して疑わない我々の社会(話を戻すならば、それを「学歴社会」と特徴づけることができるだろう)それ自体との「闘争」でもあるだろう。こうした幾重にも重なった闘争の場であること、しかも社会学者は「無知」だけを頼りにその闘争を闘わねばならない』[石飛1997]と言わしめている。
そして、それを改善していくためには、教育制度とくに大学システムの改革と、後期中等教育と高等教育との緩衝地帯を設けるような入試改革、学制改革と並んで、社会学の世界における、「教育目的」のコンセンサスが求められる。

社会学界としての対応
 社会学界として目的がないということの意味は、学問的な「究極目的」しかないことである。そのこと自体は、日本の大学における「学問」の状況と比較して格段に劣っているわけではない。しかし、もっと「世俗的」部分に「批判する意味をこめて」でも進めて見るべきではないだろうか。京都大学の学生の愛読書が『少年ジャンプ』『ビックコミック スピリッツ』『少年マガジン』でワン・ツー・スリー・フィニッシュとなる時代 [梶田137p]となり、『世界』『朝日ジャーナル』を愛読していた時代とは異なる状況となっても、他の隣接諸科学に比べてより社会との関係性が密接であることは、社会学にとってはむしろ有利なことではないだろうか。
 現在、日本社会学会を中心に、「社会調査士」資格等、社会学独自の資格創設が話題となっているが、『社会学教育の課題と現状』では、『社会学独自の資格創設の検討』について、「大いにそう思う」「ややそう思う」を合せた肯定的意見が60.9%、「あまりそう思わず」「全くそう思わず」を合せた否定的意見が37.0%と、比率では6:4と意見が分かれている状況が見て取れる。肯定的意見では、「学生の就職に有利」「社会学に何ができるかを広く認知してもらう必要がある」「学生へのインセンティブ」といった実用的な面のほか、「現実にずさんな調査がまかり通っているため」「調査だけでなくさらに臨床的な資格を創設すべし」といった意見もあり、資格の実効性よりも、社会学が社会に対しての何らかのアクションをおこすきっかけとなることを期待しているのに対し、否定的意見では、一般学会員の調査での「資格社会のほうが問題」「ニーズにこたえる必要があると思えない」「社会学は実学ではないから」「制度化による社会学の拘束を恐れる」といった保守的な意見の傾向が強い。もちろんどちらの意見にも理はあるのではあるが、否の意見をつきつめていけば「社会学はどうせ世間には受け入れられないが、学生が問題意識をもたないのはけしからん」というのであろうか。それはあまりにも前章までで述べてきたような、現実に社会学徒がおかれている社会的状況に対して、危険なまでに無関心な行為ではなかろうか。
 無論「学会(日本社会学会)として行うべきものではない」という意見や、大学院生対象の調査では、「資格の実効性への疑問」からの否定が多いことなど、真摯に傾聴しクリアしていかねばならぬ問題は多い。しかしながら、経済成長一辺倒だった戦後日本社会が大きく揺れ動いている現在、いままであまり目が向けられなかった「社会」に視線が注がれる時代である。それにおいて、「社会学」という名称を目にした人間が興味と期待を持たない筈はないだろう。そんな時代状況において、「学問的世界―聖」対「現実社会―俗」という図式のような論争を続けるよりも、仮に資格だけを目的に社会学の世界に飛び込んだような学生がいたとしても、その人間を社会学的視野をもった人間に育成することこそ、社会学教育本来の使命ではないだろうか。それができずに、旧来の大学システムの改革をできない文部行政を攻撃する「資格」はない。社会の変化が大学を、そして「学問」を動かし始めたならば、その動きさえも研究対象にしてしまう「しなやかさ」を持った社会学なればこその柔軟な対応が求められているといえよう。

社会学教育の新たな目的
 私は、学生に充実した『社会化的モラトリアム』(Socializational moratorium)を経験させることを大目標として、「学習者の『自己』中心主義」の社会学教育を行うことを提案したい。「社会学コア」を強化する、もしくは「ここまでが社会学」と境界線を引くのではなくコア自体を改めて作り直した上でなければならないというのが私の立場だからである。
 まず、『社会化的モラトリアム』であるが、これは『社会人化的』と言ってもよいかもしれない。大学を出ることによって「『視野の広さ』を身につけられる」もしくは「さまざまな人間がいる大学での4年間の出会いによって、人間的な経験がつめる」と言う効用を認める人は少なくなく、そのことを大卒者採用の理由に挙げる企業もある。つまり、本格的な社会的経験を最初にして最大に経験する機会である大学生活を、社会学教育と直結させ、自律して社会学的視点をもった社会人を養成することを目的としてはどうかということである。
 次に、「学習者の『自己』中心主義」では、そのカリキュラムもしくは授業内容展開の出発点を、学習者の「自己」に統一した形をとるべきであろうということである。ここでいう「自己」とは、学習者個人の思想、経験、学力、意思など総合的な価値観を指した言葉として使用する。各分野の個別社会学が、学習者の持っている「自己」が如何にして社会的影響を受けてきたかを、「自分史」的な視点から、自己が形成されていく上での関係(恭順・反発・脱落・挫折・評価…etc)を解明していく、その場(ステージ)は人間であれば、今まで生きてきた「社会」であるわけで、その素材として、社会学の持つ幅広さは利点にこそなれ、欠点にはならないのではないだろうか。
 これは、野村のいうような「自己言及性」をより強調した。「自己」を「社会」や「他者」との関係性からみつけるということを目的にした社会学の視座と言えるかもしれない。そしてこのやり方は、ある研究(者)分野だけを狙い撃ちして内容を拘束するのではなく、各研究分野の教育目的と出発点を統合することによっての収斂を図るということでもある。
 たとえばブルデュー研究であれば、「自己」を探るツールとしてのブルデューを知るという教育目標で研究者同士が協力し合い、「文化資本論」であるとか、「ハビトゥス論」などの紹介によって、学習者が自ら生きてきた中での「自己形成に影響を与えている社会的事象」を発見することを教育目的にし、その研究には一切拘束をしない。それが家族社会学や地域社会学、教育社会学であれば、その形態はまさに学習者の数だけ素材がある。社会学教育論においても、自分史においてどのような「伏線」や「きっかけ」によって社会学という学問を選択したのかということを検証する作業は大変重要なことでもあろう。
 学習者にとってもそれは「XX大学の学生」としての自己だけでなく、家族社会学では「AとBの間の子」や「Cの妹で、Dの姉」という自己であり、地域社会学では「N市の住民」としての自己、産業社会学では、「K店の新人アルバイト」としての自己、どれでも素材となり、それを意識しながら生活する『社会学的フィードバックがある社会生活』によって、より深く社会経験が積めるのではないだろうか。 社会学に限らないものではあるが、「討論」というものにおける効用もある。ディベートは現在、就職採用における集団討論などのかたちで重要性を持って行われており、[浅羽1996]では、偏差値上位校の「学生同士が天下を取ったように議論しあう環境(早稲田)」も、これらを突破する能力を身につける影響になっていると指摘する。各学校の校風として『アカデミックな論理をぶつけ合う(東大)』『ジャーナリスティックなハッタリのかましあい(早)』『スマートなセンスが競われる(慶応)』というかたちに特徴が現れるとも言う。それに比べて中堅校では「議論が足りない」という。SONYのように、大学名を書かせなくても上位校が多くなる状況には、こういった環境が影響しているという理由もある。
 逆に言えば、活発な討論とディベートは教育・学習側にとっても、就職を視野に入れた場合でも、それを超えた意思表明のできる社会人となるという目標を立てても、「役に立つ」ものであることは変わりがないことになり、授業における討論の重要性は中堅校であればあるほど増していくことになろう。
 一昨年『上野千鶴子にケンカを学ぶ』という本がランキングによく登場した。東大大学院教授でフェミニズム社会学の権威である上野千鶴子のもとで特別聴講したタレント遥洋子が著したものであるが、その主張はともかく、『「学問のプロ」を育てるところ』の内実が描かれたルポルタージュと読めば興味深い。これぞ学者養成型社会学教育の究極というほどである。ここでも「ケンカを学ぶ」 というという表現ではあるが、討論の訓練という点でいえば、社会学教育の現場における効用として挙げられるだろう。
 これらのようなことを徹底的に行っていったとき、大学3年次過ぎから就職活動に伴って登場する「自己分析」なる言葉に、慌てふためく必要は全くないだろう。考えてみれば、「自己分析」の作業は、社会学的作業そのものではないだろうか。誤解を恐れずに言えば『就職に役立つ学問としての社会学』ということになるかもしれない。社会学はそのための機会が提供でき、訓練もでき、助言ともなるツールとして機能する。
 しかしそれは、無批判に社会に隷従する人間ではなく、社会を批判的・相対的にみる視野と論理的問題解決能力をもち、機会があれば社会的発言もできるような「社会人」、昔風に言うならば「公衆」を養成することであり、社会的貢献のできる人間を育成することは、悪いことではないのではないだろうか。
 また、「自分史」という手段を活用すれば、大学に留まらず。社会教育・生涯学習における社会学教育の素材にもなり。社会学の裾野をひろげることもできる可能性もあろう。この形での社会学教育を行う際に、カリキュラム・学習プログラムとして大事なのは、大学教育の長所である自主性・自由性を維持していくことであり、大学教育は「自己教育の支援」に徹することである。必ずしも、「教え育てる」必要はなく、学習者が求めない限りは、学問のダイジェストやケーススタディーを講義する必要はない。出発点として大学に入り、さまざまな講義と実践、またサークル・アルバイト・ナンパetcの社会経験とのフィードバックを繰り返し、卒業を迎えるころには、先述のような「社会人」となっているように、自己教育を構築する「しかけ」をシステムの中に取り入れていくことが求められるのである。授業選択カリキュラムは「コース=ア・ラ・カルト的」に、おおまかな履修科目集団を決めておき、応用から基礎を学ぶ、社会学に直せば、連字符社会学から基礎理論を学ぶという「遡及的学習」ができるように、学年を問わず先にとっても後からとってもよいような制度も必要だろう。
 この教育目的の場合、大学を総合最高教育機関として位置付けた。戦後の大学改革の際、日本側は大学を「最高教育機関」とし大学院を「研究機能を持った教育機関」と位置付けようとした。しかし、占領下CIEが反対し、大学は研究と教育を「平等な関心を持って(with equal concern)」行うものとした[海後69p]ため、今日のようにどちらにも徹しきれないもどかしさの原因になったのではと思うからである。社会学の「学問としての」研究は、大学院において重点化して教育されるべきであるということも付け加えておく。


おわりに
 私自身が社会学と出会ったことは、幸福なことだった。しかし、はじめに読んだ本が「社会学者」が書いたのではない「社会学」と名のつく本であり、それがあまりにも興味深かったがために、実際に社会学者が書いた本に出会うたびに、「何でホントの社会学はこんななんだろう」という疑問を持ち続けた。社会学理論から離れ、そして連字符社会学でも末端的な研究や、社会学と関連していながら少し距離のあるような研究を続けて行き、3年次も終わろうとしたときに、ふと社会学の理論書を見ていくと、言葉が難解なのは変わらなかったが、自分が末端で研究したようなことが、まとめられたものとして理論が存在しているということに気づいた。それと同時に、なぜ教育段階では理論が先で実践が後でなければならないのか。なぜ社会学が「共通語」の世界へ出ず、「社会学方言」の世界に留まろうとしているのかという疑問もでた。なぜ「社会学はわかりにくい」と認めながら「わかりやすく」しようとしないのか、それに対しての一つの答えを出そうと試みたのが本論である。
大学学部への17歳入学や大学院への3年次からの進学が現実になる気配がある。大衆高等教育時代の社会学教育の目的と、これからの社会学教育のあるべき姿を探るツールは、意外にも各大学の手許にある一冊の大学案内にあるのではないだろうか。18・19歳から22・3歳までの、さまざまなことに挑戦できる期間を、社会学と過ごすことによってより充実させることができるならば、社会学にとっても、社会学徒にとっても、なによりも「よりよい社会」を構築するためにも、悪い話ではないはずである。


参考文献・メディア(順不同)
野村一夫『社会学の作法・初級編』1995 文化書房博文社
野村一夫『インターネット市民スタイル<知的作法編>』1997 論創社
野村一夫『社会学感覚』1992 文化書房博文社
橋爪大三郎『橋爪大三郎の社会学講義』1995 夏目書房
橋爪大三郎『橋爪大三郎の社会学講義2』1997 夏目書房
那須寿 編『クロニクル社会学―人と理論の魅力を探る』1997 有斐閣アルマ
秋元律郎・石川晃弘・羽田新・袖井孝子 『社会学入門(新版)』1990 有斐閣新書
薬師院仁志『禁断の思考―社会学という非常識な世界』1999 八千代出版
池田幸雄『国家U種・地方上級公務員 参考書I社会学』2000 七賢出版
浅羽通明『大学で何を学ぶか』1996 幻冬舎
浅羽通明『教養論ノート』2000 幻冬舎
伊奈正人『サブカルチャーの社会学』1999 世界思想社
遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』1999 筑摩書房
畑田国男『「妹の力」社会学』1991 コスモの本
鈴木みどり『メディアリテラシーを学ぶ人のために』1997 世界思想社
横山宏『成人の学習としての自分史』1987 国土社
石川・竹内・濱島 編『社会学小辞典<新版>』 1997 有斐閣
奥村隆 編『社会学に何ができるか』八千代出版
小室直樹『日本の敗因―歴史は勝つために学ぶ』2000 講談社
村上龍 編 『JMM vol8 教育における経済合理性』2000 日本放送出版協会
山内太地『真実の大学案内』2000 東京図書出版会
海後宗臣・寺崎昌男『大学教育』戦後日本の教育改革9 1969 東京大学出版会
大崎仁『大学改革1945〜1999』1999 有斐閣
梶田叡一『新しい大学教育を創る 全入時代の大学とは』2000 有斐閣選書
吉村作治『それでも君は大学へ行くのか』1992 TBSブリタニカ
川成洋『大学崩壊!』2000 宝島社新書
苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』1995 中公新書
佐藤俊樹『不平等社会日本』2000 中公新書
鷲田小弥太『知の勉強術―大学時代に何を学ぶか』2000 KKベストセラーズ
小林繁『学びのトポス』2000 クレイン
大沢真幸 編『社会学の知33』2000 新書館
丹羽健夫『悪問だらけの大学入試』2000 集英社新書
『2000栄冠目指してvol.3』2000 河合塾・全国進学情報センター
『進学リクルートブック00進学事典・大学短期大学版 関東甲信越』2000リクルート社
『日本の大学2000』東洋経済別冊104 1999 東洋経済新報社
日本社会学会社会学教育調査研究会 編『社会学教育の課題と現状』1999 日本社会学会
アエラムック12『社会学がわかる』1996 朝日新聞社

論文:
布施晶子(日本社会学会・社会学教育委員会)『「社会学教育の実態と動向」に関する調査報告』社会学評論 47(1996) 有斐閣
中山伸樹『社会学教育と民主主義的市民社会』東洋大学社会学部40周年記念論集1999.3
1994年度東洋大学社会調査および実習A調査報告書『U部学生の大学生活に対する意識調査』
中山伸樹『社会学教育の疎外と再生』
苅谷剛彦『中流崩壊に手を貸す教育改革』『中央公論』2000.7.148-163p

電子メディア
ソキウス(制作者:野村一夫)ホームページ(http://socius.org)
石飛和彦「教育社会学教育の社会学」『天理大学生涯教育研究』no.1,pp.49-59.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(1997/3/22)(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ishitobi/kiyo2.htmlより)
日本社会学会ホームページ
片桐新自『社会学を考える』(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~katagiri/socio.html)

その他
『読売新聞』
『朝日新聞』
各大学大学案内