社会学教育の目的とは
学習者の視点から見た社会学教育の現状批判と展望
〜150冊の大学案内から



目  次
はじめに:
第1章:問題提起
社会学教育の現状と問題点
社会学専攻大学の実数さえ不確定な現状
大学案内にカリキュラムの説明表示がされていない
学部名称・学科名称の多様化
社会学の「疎外」状況
社会学のオリジナリティ、アイデンティティが問われる時代

第2章:問題分析
第1節 社会学に起因する問題
社会学のフェティシズム
社会学の役割論
第2節 大学システムと学歴社会
日本の大学に教育目的は存在され得るのか
基礎的な知識・技能不足の原因
第3節 知をめぐる状況の影響
「社会のワイドショー化」と「マニュアル知」
第4節 日本・日本人の大学・教育観と国民・市民の意識
教育改革
ゆとり教育VS学力低下論
大学レベル=知名度&就職レベル
日本人の「勉強」観

第3章:まとめと提言
社会学教育問題のまとめ
社会学界の対応
「社会化的モラトリアム」と「学習者『自己』中心主義」

おわりに

参考文献・メディア一覧

はじめに:
歌手・倉木麻衣は『日経エンタテインメント』誌(2001年1月号)のインタビューで次のように答えている。
―立命館大学産業社会学部(人間文化コース)合格おめでとうございます。
● ありがとうございます(笑)。
―大学ではどんなことを勉強するのですか。
●人間と文化のコミュニケーションです。
―4月からは大学生活と音楽活動、どちらに比重を?
●大学で学んだことを、音楽を通して表現していきたいですね。
このやり取りを読んだ、「社会学」を学んだ経験のある恐らくかなりの人間にとって、「気持ちはわかる」「俺もこの頃はそうだった」と苦笑を隠せないのではなかろうか。「どんなことを勉強するのですか(しているのですか)?」というこの素朴な質問に答えることが、社会学を学ぶ人間にとってどれだけ苦しいか。そして、社会学を何かに活かすということがどれだけ難しいことか。
私の基本的な研究スタンスは、現代人が社会生活を営んで行くなかで、その周辺にあるさまざまな事象や制度、状況などを社会学の視点から分析していきたいというもので、そのなかで2年次のゼミ論文では「食の社会学」、3年次は「テレビのデジタル化が社会に与える影響」を研究した。そして、どちらの場合でも、「食育」の重要性や、「メディアリテラシー」の必要性を認識するに至り、「教育」という事象に対しての関心が高まった。
また、どちらかといえば、社会学理論の実証主体として社会的事象を見るのではなく、社会的事象・問題の分析・解決などの方法として、社会学理論・視点を利用しようという形であり、応用社会学(臨床的?)といえるかもしれない。そこで今回本稿では、社会学を手法として利用した「メタ社会学」的な観点から、「社会学は何のために学ぶ(教育する)のか」という疑問へのアプローチを通じて、社会学教育の新たな意義・目的とは何かを考えつつ、現在の日本の高等(大学)教育の問題点を探り、その解決策を考える。
なお、本稿で使用する「社会学教育」は主に昼間の学生に対する学部段階での教育をいうこととする。

第1章:問題提起
社会学教育の現状と問題点

 まず第1章では、社会学教育の現状から社会学の世界の問題点を主に学習者である学生・受験生の視点に立って探っていく。
さて、いざ社会学の現状を探る作業に入ったとしても、社会学という学問そのものがもつ「あいまいさ」がここにおいても発揮され、現状の把握も意外に困難な作業となる。そこで第一の問題は、社会学を専攻としている大学の実数さえ不確定な現状である。やや古いデータだが、布施晶子(日本社会学会・社会学教育委員会)『「社会学教育の実態と動向」に関する調査報告』(1996) では、日本社会学会会員が所属する319大学を対象とした調査では、回答があった240大学(国公立81・私立159)のうち、社会学専攻設置(社会学部・社会学科など)が30.6%(国公立の29.6% 私立の31.4%)、準社会学専攻 設置(人文学部人間科学科・コミュニケーション学科など)17.8%(国公立30.9%・私立10.1%)、学部関連科目設置(法学部における法社会学・教育学部での教育社会学等)37.6%(国公立42.0%・私立35.8%)、専門課程で全く開講されていないのは、全体の22.7%(国公立12.3% 私立28.3%)となっている。専攻および準専攻を加えた数値では、国公立で60.5% 私立で41.5%が何らかの体系によって専門として社会学教育を受けていることになる。計算すると国公私立115大学程度ではほぼ確実に社会学が学べることが証明できる。
また、アエラムック『社会学がわかる』(1996・朝日新聞社)の、「社会学が学べる大学」の一覧表で、国公私立合せて105大学が挙げられている。中山伸樹「社会学教育と民主主義的市民社会」(1999)では、前述の『社会学がわかる』の一覧表をベースに「1998年版『全国大学職員録』」によって加除」して、社会学科名称・社会学科以外名称含めて国公私立135機関を挙げている。さらに、受験生にとってのガイドとなる『進学リクルートブック00進学事典・大学短期大学版 関東甲信越』(2000・リクルート社)では、「学べる分野別INDEX」「『社会』をテーマに学びたい」のなかで、国際関係学、地理学、法学、商学、政治学、経済学、経営学、情報学、福祉学、経営工学と並んで、社会学の欄がある。そこでは、国公私立222機関(2000)が掲載されている。
しかし、毎年多くの大学・学部の新設・改編が行われていることを勘案しても、これだけ数字にバラツキが出るということは不可解である。さらに、具体的にどのような科目の開講によって、「社会学専攻」または「準専攻」、「社会学が学べる」ということを定義するかはここでは明らかにされていない。
そこで、受験ガイドブックだけでなく、受験生が大学選びの際に参照するであろう各大学の「大学案内」から「社会学が学べる」学科の開講カリキュラムを調査した。(資料A(私立大の一部))
ここから読み取れるのは、「社会学が学べる」という触れ込みでも、学ぶ科目内容が大学によって大幅に異なるという実態である。たとえば、商学部の単科大学である北海学園北見大学は「リクルートブック」に掲載されていたが、資料A−2(資料Aで紹介できなかった大学の区分表)において見られるように、この分類では「余暇・スポーツ」の講義しか見ることができない。また、社会学科を名乗る大学でも「社会学史」を開講していない大学も少なくないことがわかる。社会調査においても、方法論までの大学と実習まで行う大学、必須・自由選択の違いなどが起こっている。この状況のどこまでがおかしくて、どこからは良いのか、その定義づけ作業は社会学の範囲を限定する作業であり大変困難であり、議論沸騰する問題である。
そして科目名でも、社会学入門と社会学概論、社会学原論と社会学理論はどう違うのかというアナウンスもない。

また、第二の問題は、大学案内にカリキュラムが詳細に説明表示されていない、もしくは表示さえされていない大学が少なくなかったことだ。しかも、それらが設置認可前の大学だけならばともかく、いわゆる偏差値上位校と位置付けられる大学や国立大学に、その傾向が強かったことは強い衝撃を受けた。
これらの大学は受験生の学力レベルと印象が関心事で、入学してから学問研究をホンネでは主と考えていないのではと思われても仕方がない。また、表示はしてあっても講義要項からそのまま転載 したものがほとんどで「社会学特講T」と書いてあっても、それがどういう内容であるのかという受験生にわかるような説明はない。このような情報を与えられずに選ばせられる 状況で入ってきた学生に、「わかっていない」「目的がない」「学問に重きをおいていない」と批判しても、それが正当な批判といえるか疑問である。

第三に、学部名称・学科名称が非常に多様化していることが挙げられる。(資料B)
資料Bを見るとわかるように、該当する学部学科があると思われない大学が数多く見受けられた。この理由として、人間・国際・環境「社会」という使いやすく語感の良いものを「接頭語」として大学のイメージアップを図ろうというねらいと並んで、「学際系学部・学科」の増加という動向が挙げられる。
このようなガイドブックにおいても、社会学の事情に精通した人間が編集に関わっているとは限らない。大手予備校『河合塾』の大学紹介などでも、社会学は『社会・国際系』とのくくりになっており、観光学科や最近の流行である「国際〜学科」も、社会学と同じ範疇と思われている。さらに、介護保険制度の開始などで社会福祉関連学部・学科の新増設も進んでいるが、これらも社会学に含まれて表示されるものも多い。しかし一方で、人文学系統はまた別のカテゴリになっているガイドブックもあり、それらの分類では、「文学部社会学科」「人文学科社会学専攻」はこちらに分類されてしまう。入学者の減少した短大の格上げを行う際、もしくは教養課程の再編によって生まれる新学部、また教育学部にできたいわゆる「ゼロ免」と呼ばれる「非教員養成課程」の、この3つに「社会」の2文字を加えることによって、「社会学が学べる」学科と解釈されてしまっているような状況も読み取れる。
 慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)に総合政策学部が設置されてから、いわゆる「学際系学部」が話題を集め、ブーム以降に新設された学際系学部・学科、教養課程の改編によって生まれた学部・学科名に「社会」の2文字を使用することにより、あたかも社会学専攻のような印象を与えられるうえ、「学際」である以上、実際に社会学も他の学問と並んでその「学ぶ」ことには間違いはないのであるが、「学ぶ」が「専攻」とイコールでなくなった事態をどう捉えるかが問題となってくる。
 学際系学部以外でも、「看板に偽りあり」と呼ばれかねないところもある。東洋英和女学院大では、人間科学部人間科学科と社会科学部社会科学科があるが、社会学専攻があるのは人間科学部人間科学科である。しかし来年度より社会科学部社会科学科は、国際社会学部国際社会学科へ改称することになっており、「社会学」と名につく学部に社会学がないという状況になる。
 また、私学の雄と呼ばれる早稲田大では、『社会学がわかる』では第一文学部哲学科社会学専修と掲載されていたが、大学案内を見ると演習科目しか表示されていなかったのに対し、他学部の、教育学部社会科社会科学専修では、社会学概論が選択必修で、文化人類学、国際関係論、社会学研究、社会学方法論、などが開講されている。社会科学部社会科学系では、社会学、文化人類学が基礎科目、現代都市・地域論、社会調査、社会史、ジェンダー論などが開講、さらに人間科学部人間基礎科学科では、村落、家族、都市、産業各社会学実習があるほか、社会心理学、社会変動論、人口学、余暇論などが開講されている。つまり、これらの学部のどこでも社会学の個別分野として学べる科目自体は履修することができるという現実がある。
法政大学社会学部では社会学科・社会政策科学科の二つの学科があるが、一部の必修科目を除けばほぼ同じカリキュラムとなっている。この実態はあまり知られておらず、受験倍率は社会学科のほうが圧倒的に狭き門 になっている状況も見られる。
一方、横浜市立大学では、商学部経済学科の中に「地域社会コース」があり、科目数は少ないものの体系的な教育が行われているという場合もある。
 このような「名が体を現さぬ」状況が、社会学教育を受ける前段階ですでに露呈してしまっている。そしてこれらの情報をアナウンスされた「フツーの」受験生のほとんどは、これだけのバラエティーに富んだ、悪く言えばバラバラの学科名とカリキュラムを比較することなく、社会学を学んだと自覚するわけであって、名称やイメージと実態の「食い違い」の影響はかなり大きいのではないだろうか。つまり、学問的な社会学の定義と教育における社会学の定義、特に受験生・学生が持っている(イメージ形成された)定義が著しく乖離している点が大きな問題である。
さらに、各大学の大学案内のキャッチコピーや内容説明の文を読むと、社会学の学問のポジションまで不明確になってしまう。『社会学小辞典』で「社会学」をみると『社会科学の一部門』[248p]となっているのに、大妻女子大では『人間関係の学としての社会学』と書き、武蔵大では、『社会学とは社会科学と人文科学の中間に位置し』と表記されている。
 また、資料B−2において整理したが、学部・学科の組み合わせにおいての多様化も起こっている。
いわゆる「現代社会学科」では「(現代)社会学」と「現代社会・学」があり、カリキュラムを見る限り、前者は成蹊大や広島国際学院大など、後者は「現代社会・学」を公言している京都女子大や愛知淑徳大などに分けられる。「現代社会・学」の方では、高等学校までの「社会科」に近いものを目指しているようである。さらに、A大学では人間関係学科と社会〜学科があり、B大学では人間関係学科と現代社会学科がある場合、A大学では人間関係学科が社会学で、B大学では現代社会学科に社会学が開講されるという事態も起こっている。

社会学の「疎外」状況
日本社会学会社会学教育委員会社会学教育調査研究会『社会学教育の課題と現状(改訂版)』では、日本社会学会に所属する大学教員に対する調査 で「学部レベルの講義を進める上で困ること」として、1:受講者多すぎ…34.6%、2:社会学の基礎知識不十分…32.1%、3:現実問題に無関心…29.7%4:学習意欲低下…29.5%、5:自発的勉学機会減少…27.3%、6:図書館蔵書・設備不十分…26.3%、7:受講態度悪い…23.6%となっているが、この2,3、4,5、7には、社会学の定義を巡る「行き違い」「食い違い」が引き起こす受験生・学生と教員の間の「齟齬」が大きく影響しているのではないだろうか。教員は学生に対して、問題意識がない、基礎がなってないと嘆息し、学生は教員に対して、イメージと違うものを要求されるいわれはない、こんな役に立たないことを学びに来たのではないという不満と失望を抱く双方に不幸な結果となっている。
野村一夫はこの「食い違い」を「コミュニケーションギャップ」[199512p]と表現しているが、社会学の世界(学界)一般の国民・市民との間の「食い違い」つまり社会学が「疎外」されるかたちの投影といえる。
この疎外の状態が続けば、社会学は社会(市民・国民)からますます遠いものとなり、衰退に向かってしまうのではないかという危機感がある。このような「疎外」による「行き違い」「食い違い」が、受験生・学生と教員の間の「齟齬」を引き起こしている。この現状をどのように考えるのかが問題であるが、決して好ましいことではないだろう。

第5の問題は、社会学のオリジナリティ、アイデンティティが問われる時代になってきたということである。
[布施1996 p70]では「大学設置基準の大綱化の影響」について、「社会学教育の目標・理念などに変化はありましたか」の問いに対し、「学際性に富んだ幅広い視野の育成」(39.3%)「情報化、国際化など時代の要請にあわせたカリキュラム改編」(38.4%)「一般教育重視から専門教育重視」(29.7%)などへの転換が図られたという回答が目立つ。また、「社会学の専門教育について」では、「現状では十分でない」が87.7%の回答を占め、その理由には「学問の広域化・学際性重視」「社会学の学問としての多様化への対応」「社会学の専門性重視」が不十分であるから。と社会学教育がなお一層の広域化、学際化、多様化への歩みを進める動向が浮かび上がる。
この結果について、社会科学のなかでの社会学のオリジナリティが、それを超えた学際性のため弱まっている状況においてなお「学際化」を進めることに疑問を挟みつつ、学部段階の教育では、現実社会の変化のもとで、学際化、多様化を求めるニーズに対応し、より専門性に特化した専門教育は大学院で行おうとする志向を固めながら、社会調査法・社会調査実習の開講で実証科学としての社会学教育の特徴を収斂し、なんとか堅持しようとしていると分析している。
そして、社会学教育が抱える課題として『大学教育のいわば入り口にあたる全学共通基礎科目的な段階における社会学教育は、相対的にその比重を軽減しつつあるように見える。しかしながら、それ故にこそ、学際化、広域化、多様化の一途をたどる科学全般のなかにおいて、アクチュアルな社会への興味、関心を惹起する役割とともに、社会科学あるいは自然科学と社会科学をつなぐアマルガム的な役割を果たしている現実を踏まえ、その存在価値を練磨する内容、方法、教授法、そして魅力あるテキストの開発が待たれる。』専門教育においても、『アクチュアルな社会に透徹したまなこを注ぎつつ、社会調査や統計の技法をインセンティブな面接調査とPCを駆使しての大量観察法ともどもに身につけた職業人の養成が課題となる。』[布施1996p81]とした。また、その方向性づくりとして、「社会調査士」などの資格作り、大学院教育、そして社会調査実習等を行う条件整備などが課題を挙げ、最後に『社会諸科学間、社会諸科学と自然科学間の学際化、広域化、多様化が進む今日、社会学が社会科学の中でうたってきた柔軟な学際性、広域性といった学問的独自性そのものが変容の波の中でオリジナリティを失いつつある。社会学の独自性、専門性をいかに鮮明に打ち出し、他の社会諸科学との差異化を明確にしうるか。言い換えれば社会学がその学問的中枢にいかなる自己規定の確立をなしえているかが問われてきている。』と結んでいる。この文章は問題の核心を突いている。社会学のアイデンティティの喪失問題はこのレポートから4年を経て、ますます深刻化したといえるだろう。