Yamate254

横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

プロフィール

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN 2024

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As Minhas Penas(私の羽)

元町公園の裏手

2024年11月

 
 
Como diferem das minhas        私のと違って
As penas das avezinhas         小鳥たちの羽は
Que de leve, leva o ar          軽くて、空気も運ぶ
Só as minhas pesam tanto        私のは重すぎて
Que às vezes já nem o pranto       もう泣くことさえままならない
Lhes alivia o pesar            苦しみを癒すのです
 
 秋雨前線が停滞し天気がはっきりしない。毛糸のカーディガンを羽織る寒い季節になったかと思えば、次の日には半袖一枚でも十分な陽気へと逆戻り。冬か夏の二択。
 それでも秋は訪れる。毎朝庭に黄色い蝶々がやって来て、時には二頭の蝶々がひらひらと見事な舞を披露しては見るものを和ませてくれる。
 今朝、ふと気づくと網戸に小さな枯葉のようなものが付いているではないか。枯葉にしては垂直にへばり付き落ちる気配がない。変だなと思いながらもしばらくほっておくが、風が吹いても、洗濯物を外に干すために幾度となく開け閉めをしても微動だにせず網戸に付いている。取ろうと思ってよく見ると何やら細い脚のようなものが付いていて、ふーむ、さては虫か?虫ならとりあえず無視しようと思ったのだが昼になっても夕方になっても一向に離れる気配がない。そこでググってみると、なんとこやつの正体はホシメヒメホウジャクという蛾だという。害はないらしいが、雨戸を閉める手前いつまでもそこにへばり付かれていても困る。そっと網戸から剥がしてエアコンの室外機に置くと軽く動いたので生きてはいるみたいだ。ところが今度は室外機の上でじっとして飛び立つ気配もない。
 
 王子の北とぴあにCarminho(カルミーニョ)のコンサートを聴きに行った。Carminhoはポルトガルでも屈指のファディスタのひとり。
 ファドはGuitara portuguesa(ポルトガルギター)とViola(クラシックギター)の伴奏で歌われることが多いが、時々Baixo(低音の4弦ギター)が加わることもあり、この日はその編成だった。
 ポルトガルではリスボンのアルファマやバイロ・アルトにCasa do Fado(ファドハウス)が点在していて、いまでも食事をしながらファドの演奏を楽しめる。夜、アルファマの狭い路地を散策していると、店の外で出待ちをしている黒いショールを纏ったファディスタたちに出くわすことがある。
 本来、Casa do Fadoでは蝋燭の薄明かりの中、物音ひとつ立てず静かに(沈黙の中で)歌を聴くのが慣わしだったのだが、最近はどうもその辺の事情が怪しくなって、演奏中もがやがやと騒々しい。何度も伴奏者が「Silêncio!(静かに!)」と注意をするのだが、あまり効き目がない。日本のGuitara portuguesaの第一人者、月元一史さんも4年半ぶりに訪れたリスボンでそのことに驚いたと書いているから、どこも似たり寄ったりなのだろう。〈注1〉
 もともとこのCasa do Fadoでの演奏スタイルは、1930年代のEstado Novo、いわゆるサラザールの独裁政権時代に作られたもの。なので、これがポルトガルの「伝統」だ、「文化」だと強弁する気はさらさらない。また、たとえ仮にリスボンのファドが観光客向けのショーに落ちぶれたのだとしても、それでも、そうそれでもいままでリスボン子(Lisboeta)たちが大事に育んできたものを、観光客が土足で踏みにじって良いものではない。〈注2〉
 アンコールでのこと。美空ひばりの『川の流れのように』、アントニオ・カルロス・ジョビンの『A felicidade 悲しみよさようなら』で盛り上がった後、「もう一曲」と、耳につけていたイヤホンを外し、マイクを通さず『As Minhas Penas 私の羽』というファドのスタンダード・ナンバーを歌った。
 ひっそりと静まり返った会場に響く伸びやかな歌声。これがファドだ。その時ぼくはなぜか、エリック・ドルフィーが吹く『You dom’t know what love is』の、遥か虚空に舞い昇るフルートの音(ね)を思い出していた。
 

2024年10月31日 齋藤 眞紀

 


今月のスケッチで使用した画材 【紙;ランプライト/絵具;ゴールデン・QOR(コア)】
 

注1 リスボンファドの基礎知識 番外編「4年半ぶりのリスボンに見たリスボンファドの『これから』」その2 月元一史(ポルトガルだよりVol.81 2024年7月 発行:一般社団法人日本ポルトガル協会)
注2 Estado Novo(エスタド・ノヴォ)1933年~1974年 1932年に首相に就任したアントニオ・サラザールによる独裁体制。1968年のサラザールの死後はマルセロ・カエターノが引き継ぐが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血軍事クーデター)により終焉する。

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長き旅路の航路標識をあなたへ〈注1〉

妙蓮寺(港北区菊名1丁目)

2024年10月

 
 Farei todas as diligência para que consiga pôr em prática os meus objetos.
(私は自らの目標を実践できるよう最大限の努力を惜しまないだろう。)
 
 駅の傍にでんと朱塗りの山門が構える光景は、なかなかあるようでない。その妙が気に入り、一昨年旧綱島街道を歩いた折に一度描いたことがある。だから駅と妙蓮寺を描くのはこれで二度目になる。
 六角橋商店街のアーケードをくぐり、白楽、妙蓮寺そして菊名池を過ぎ、カーボン山を仰ぎ見ながら菊名駅に向かう旧綱島街道は子安の浜通りと並んでスケッチポイントの宝庫だと密かに思っていて、このスケッチ月記でも『旧綱島街道を歩く 2022年6月』『ひと雨ごとに(菊名池公園)2023年4月』、『春の変事(カーボン山)2023年5月』と何度か取り上げた。
 妙蓮寺は長光山妙蓮寺という。池上本門寺の末寺で宗派は日蓮宗。開山は1350年。ちょうど鎌倉幕府が倒れ南北朝が始まった頃にあたる。その頃は、いまの神奈川区東神奈川(旧神明町ーかみあけまち)にあって、大経院妙山寺と号した。
そのお寺が明治41年(1908年)、横浜鉄道臨港線(JR横浜線)の引き込み線の敷設に際し移転を余儀なくされと文献には記されている。ということは、おそらく東神奈川の車両センター辺りにあったのではないかと推測するのだが…、そこで、移転先として白羽の矢を立てたのが、交通の便が悪く廃寺の瀬戸際に追い込まれていた同じ日蓮宗の浄寿山蓮光寺。双方の檀家が協議をし、妙山寺の「妙」と蓮光寺の「蓮」を採り、名前を「妙蓮寺」と改め、いまに至るのだという。
ちなみに、妙蓮寺の山門の前に鉄道(東京横浜電鉄/いまの東急東横線)が通ったのは大正15年(1926年)のこと。もともとは妙蓮寺の敷地だったところを無償で提供したのだそうだ。
 “Farei todas as diligência para que consiga pôr em prática os meus objetos.”はポルトガルの外交官Aristides de Sousa Mendesの言葉。彼は日本の杉原千畝のような人。フランス南西部の街ボルドーに領事として赴任していた時にナチスドイツのフランス侵攻が始まり、時のポルトガル政府の意に逆らってまで、戦争避難民やユダヤ系市民にスペイン経由でポルトガルへ渡れるビザを無償で発給し続け、1万人以上のユダヤ人を救った。〈注2〉
 日本語に訳すと、「私は自分の目的を実践するために最大限の努力を惜しまないだろう」。ここで、Fareiと未来形を使っているところが珍しい。会話なら普通、Vou fazer〜か単にFaço〜というところ。前後の文脈がわからないので確かなことは言えないが、動詞の未来形は一般に、ニュースや講演といったフォーマルな文章やスピーチのときに使われる。またそれ以外に、現在や未来に対する疑問や不確実性を強調する場合もあるので、その時は「するだろう…。」とか、「そうしたい、だけど出来るかな…。」となって、訳もそちらのニュアンスを採ってみた。彼の置かれた状況の困難さをFareiで表しているのかもしれないと、つい深読みをしてみたくなるからだ。〈注3〉
 結局、ポルトガルに送還され職を解かれた後の境遇は悲惨なものだった。メンデスは1954年に失意の底で亡くなるのだが、教育も受けられずアメリカに亡命を余儀なくされた彼の子供たちに、後年、アメリカのユダヤ人達が救いの手を差し伸べることになる。
 今年の夏は死ぬほど暑くしかも長かった。実家の二階にあるアトリエは、採光を考慮した間取り故、ただでさえ夏場は暑くていられないのに、今年は室温が連日35度オーバー。絵の具も下塗りのジェッソもあっという間に乾き、作業効率は抜群に良いものの、何分さすがに体には堪えた。古いエアコンがかろうじてあるが、エアコンを点けてもまるで効き目がない。
そんな過酷な環境下で3ヶ月余りに及び個展の制作を続けていたもので、仕舞いに は頭が朦朧とし、“Farei todas as diligência para que consiga pôr em prática os meus objetos.”とメンデスの言葉をぶつぶつ呟くのだった。
 

2024年10月2日 齋藤 眞紀

 
 


今月のスケッチで使用した画材 【紙;ランプライト/絵具;セヌリエ/パイロット万年筆ミュージック】
注1 岩﨑ミュージアム第507回企画展 齋藤眞紀展〜長き旅路の航路標識をあなたへ〜 2024年9月26日(木)〜10月14日(月・祝)
注2 アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス Aristides de Sousa Mendes do Amaral e Abranches 1885年7月19日ー1954年4月3日 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス
注3 『ポルトガルのポルトガル語』内藤理佳著(白水社)

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Tudo correu no perfeição.(すべてが完璧に行った。)

瑞穂大橋から(東神奈川)

2024年9月

 
 
 残暑お見舞い申し上げます。
 
 終わりの見えない猛暑に滅入る毎日ですが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか?
 私はといえば、アトリエの室温と外気温がまるで同じだという過酷な環境下での仕事が続き、さすがに身体の無理が効かなくなってまいりました。一応古いエアコンはあるものの、35度にもなるとせいぜいそれが1度下がって34度になるくらいでたいして役に立ちません。
もとはといえば、家をリフォームする際に父が2階の断熱材をケチった事が悪いのですが、アトリエ特有の外光をふんだんに取り入れた間取りも暑さに拍車をかける要因かと思います。
 すでにお気付きの方もいらっしゃるとは存じますが、今月のタイトルTudo correu no perfeição.(すべてが完璧に行った。)は、先月のNão se pode dizer perfeito, mas escapa.(完璧とは言えないが、まずまずだ。)を受けてのことです。
 スケッチの現場で満足が行く絵に仕上がることは珍しいのですが、時に意図せずして傑作が生まれてしまうこともあります。先ほどアトリエの室温が外の気温と同じだと書きました。そんな環境で始終仕事をしているせいか、この激しい暑さの中で絵を描いていても意外と平気です。いわゆる暑熱順化というやつですね。まさに怪我の功名です。
 入江川の第二派川は村雨橋を過ぎて直角に曲がり、貨物の引き込み線をくぐって、瑞穂大橋で海に注ぎます。絵の真ん中が瑞穂橋。瑞穂橋の真横に茶色く錆びた瑞穂橋梁という貨物専用の橋が掛かっています。この貨物線が廃止されたのが1958年(昭和33年)ということですが、線路の保存状態は良好でいまでも十分使えそうです。瑞穂橋を渡った先の瑞穂埠頭は米軍のノースドックになっていて立ち入ることができません。瑞穂橋に関しては2009年(平成21年)に米軍から返還されたので橋の往来は可能です。もっとも返還される前にも何度か瑞穂橋梁でスケッチをしましたが、別段「出て行け」と追い払われたことはありませんでした…。〈注1〉
 ノースドックは相模総合補給廠と横田基地に送る物資の陸揚げと海軍の郵便業務を担っています。ところがそこに小型揚陸艇部隊…小型揚陸艇部隊とは、戦争や自然災害で港湾が破壊されて使えなくなった時に物資の陸揚げや、壊れた港湾を直す工兵などを運ぶ役目をする部隊です…が昨年新たに配備されました。おそらく、台湾、朝鮮半島有事を睨んでのことだと思いますので、予てから横浜市などが望んでいたノースドックの返還は限りなく遠のいたように感じます。
ノースドックの対岸はコットンハーバー。「洗いざらしの綿のような自然の風合いや手触りを感じる心地よさ」というコンセプトが名前の由来なのだそうですが、立派なコンセプトの割に、その面白みは微塵も感じ取れません。ちなみに昔はこの近所に棉花町という町がありました。綿花の倉庫があったのです。いまでも滝の川に棉花橋という名前の石橋が掛かっていて、それだけが唯一棉花町の存在を知る手掛かりになっています。〈注2〉
 古い道路地図では、コットンハーバーのある山内埠頭に日本鋼管と記載がされていて驚いたことがあります。調べてみると、日本鋼管鶴見造船所、通称浅野ドック(旧浅野造船所)が横浜中央卸売市場の真横にあったんですね…。
 余談になります。コットンハーバーに隣接していた貨物線用の東高島駅…神奈川台場跡に盛土をして線路を通していた…周辺でも再開発の工事が始まりましたが、結局のところ、交通の便が悪いが故にコットンハーバーにあったスパはとうに撤退し、建設予定地も未着工のまま、それに未だに空き店舗が目立つ現状を鑑みますと、またぞろ再開発を繰り返してどうなんでしょう…とは、正直思います。〈注3〉
 
 九月になれば少しは秋の気配を感じられるようになるのでしょうか?くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

                            2024年8月29日
 
 齋藤 眞紀拝

 


注1 絵では瑞穂橋梁は建物に邪魔されて見えません。この建物が有名なBar Star Dust、POLESTARとNEPTUNE。
注2 はまれぽ・「コットンハーバー、その歴史と共に振り返る」 https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1697
注3 東高島駅北地区のまちづくり https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/toshiseibi/toshin/keihin/higashitakahima.html
 

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 Não se pode dizer perfeito, mas escapa.
(完璧とは言えないが、まずまずだ。)

子安運河・入江川

2024年8月

  
 実家の部屋の本棚によれよれの紙切れがテープで貼り付けてあって、自分でもいつ貼ったのかさえ覚えていないのだが、そこには“Não se pode dizer perfeito, mas escapa.”(完璧とは言えないが、まずまずだ。)と記されている。おそらく辞書か何かの記事で見かけたのだろう、そしてこれを覚えようと常に目の付くところへ貼った、事情はたぶんそんなところではないかと思うのだ。
 なぜそれを思い出したのかというと、今回のスケッチを描き終えたときに、ふとこのフレーズが頭に浮かんだからだ。「Não se pode dizer perfeito, mas escapa?完璧じゃないが、まずまずかな?」。
 スケッチの現場で完璧に仕上がることはほぼない。どこか必ず気にいらないところがあるものだ…が、しかし有り体に言えばそれがスケッチの醍醐味でもある。だから「完璧じゃないが、まずまずかな?」と思えるということは、存外悪くない。
 いまは「子安運河」で通っているこの辺りを昔は「子安浜」と呼んだ。江戸前の魚介類が豊富な遠浅の浜辺だった。だったと断定的に書いたがもちろん浜だった頃のことは知る由もない。ただ、国道15号線と運河に挟まれた狭い区域の入り組んだ路地は、所々にお稲荷さんや祠、それに昔の井戸があったりと、さりげなく漁村だったころの面影を偲ばせる。そして何よりも運河沿いの隘路を浜通りというので、それで合点がいった訳だ。
 子安浜はまた子安新宿浦と言って、江戸幕府に海産物を献上していた「御菜(おさい)八ヶ浦」のうちのひとつだった。隣町の生麦(生麦浦)と東神奈川(神奈川浦)もそう。生麦にはいまでも「魚河岸通り」(旧東海道)があるのはその名残なのだろう。〈注1〉
 また、葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』の《神奈川沖浪裏》は、ちょうど子安浦の沖合、今の大黒埠頭の辺りで描かれたのではないかと言われている。海外ではThe Great Waveと呼ばれる大波の隙間から富士山が覗く大胆な構図で傑作の呼び声が高い。でもちょっと待てよ、東京湾でこれだけのビッグウエーブが本当に立つのか?。〈注2〉
 脱線ついでに。5月にカルチャー教室の生徒を北品川の船溜りに連れて行ったが、ここも御菜八ヶ浦のひとつ。ただ、品川浦の景色は、品川区が進める大規模開発で無くなるという噂があり残念。
 さて、いろいろ調べると子安の船溜りは、鶴見区の東寺尾を源流とする入江川の第二派川(だいにはせん)と考えるのが妥当なようだ。「派川(はせん)」とは、本流から別れた川のことを指す。逆に本流へ合流するのを「支流」という。なんだかややこしい。なので、ここでは通称の「子安運河」を採用することに。
 子安運河の対岸は埋立地でほぼ工場の敷地。その為、川向こうからの景色がとれない。だから大抵は入江橋か富士見橋、または常盤橋上で、橋の欄干にもたれ、立って見下ろす感じで描かなければならないのだが、それでも自分がスケッチを始めた二十年数年前と変わらない、もちろんガレージに収まる漁船が車に代わり、網を修理している姿を見かけることも無くなりはしたが、それでも運河に係留された無数の船とトタン葺きの荒ら屋(あばらや)が軒を連ねる光景と、いまだに高層ビルに侵蝕されない広い青空を残している、それは奇跡という他はない。よく「昭和の…」という形容を使うがそれでは安易すぎる気もする。
 実はここに書いてよいものかどうか迷うのだが、富士見橋を渡った袂の、高速道路の真下に、もう使われなくなった船揚げ場があって、ここからだと水面近くから仰角の構図を取ることが出来る。それに、時折水鳥が羽根を休めるこの船揚げ場の、薄暗く荒れ果てた様子も無性に絵心をくすぐるのだが、もちろんここにも所有者がいるとは思うので、ここで絵を描いて怒られても、こちらは一切関知しないと、あらかじめお断りをしておく。
 

2024年7月30日 齋藤 眞紀 

注1 御菜八ヶ浦は北から芝、芝浦、品川、大井、羽田、生麦、子安、東神奈川(現在の地名)。
注2 《神奈川沖浪裏》で大波に翻弄されてる二艘の船が描かれているが、これを押送船(おしおくりぶね)と言い、江戸に新鮮な海産物を届けた。快速船で、荒波を物ともせず魚を運んだ。

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後遺症

ぷかり桟橋(みなとみらい)

2024年7月

 
 昨秋ポルトガル取材から帰った後、鼻が突然壊れて副鼻腔炎を併発し、その治りが悪かった顛末はすでに書いた。ところがそれが治ったと思ったら、冬場は身体中に湿疹が出来て痒く、おまけにアトピーで始終赤ら顔。身体の湿疹は花粉の時期をピークに治ったが、まだ手が駄目でかさかさしたりひび割れたり。顔の赤さは冬場ほどではないが、やはり赤い。
 いまだに時々鼻が出る。先日の大雨の日も朝から鼻水が止まらず往生した。
以前に比べてアレルギーが酷くなった気がすると友人に話したところ、知り合いが急にアレルギー性鼻炎になって慌てて耳鼻科に行き、コロナワクチンの後遺症かも知れないと言われたという。(えー、そんなのあり⁉︎
ワクチンは4回まで打った。いまにして思えば4回はやりすぎだったかも知れないのだが、母親に移す心配と、隔離期間の存在がネックで打たざる得なかった。また、2年前(2022年)にポルトガルへ渡る際にはワクチン接種3回が条件だったというのもある。〈注1〉だから、ワクチンを打ったことそのものに後悔はない。
 子供の頃は鼻炎で毎日耳鼻科に通っていたし、女の子と手を繋ぐとすぐに顔が赤くなって散々冷かされもした。20代~30代の頃は手と体の湿疹が酷くてずっと皮膚科に通っていたから、もともとアトピー体質なのだと思う。それが自転車に乗るようになってからあんなにしつこかった湿疹が嘘のように消えたので、だから今回はその逆で、運動不足が祟ったぐらいに考えていたのだが…。
 おそらく自分のケースをコロナワクチンの後遺症と断定するのはいささか無理がある(と思う)。たとえそうだとしても、それに効く薬があるはずもなく、騒ぎ立てても仕方が…いやいや、物は考えようで、ワクチンの後遺症だと言いふらした方がみんなの同情を買えるかもしれない。
 
 最近、電車に乗るとついある英会話学校の広告に目がいってしまう。〈注2〉
 
 「6時半起床、出勤までシャドーイング。」(シャドーイングってなに?それに朝起きたら顔洗って歯を磨いて、掃除に洗濯、風呂場を洗ってetc…出かけるまで忙しくてそんな暇はない。)
「通勤電車は洋書を多読し、」(多読って、老眼鏡掛けないと本なんて読めないよ。だいたい何時間電車に乗るの?)
「寝る前にオンライン英会話。」(晩酌するだろう、そしたらもう眠いから無理。)
「一日3時間、週に21時間、それを3か月。」(まあ…それくらいやらないとものにならないけど、3ヶ月で止めたら元の木阿弥だよ。)
 
 吉田健一は英会話に特化した英語教育に懐疑的だった。どの本だか忘れたが、良い小説(文学)を読めば、それが最良の勉強方法だと書いていたのを覚えている。
 いま、ジョゼ・サラマーゴの“O Ano da Morte de Ricardo Reis”(『リカルド・レイスの死の年』)という本をポルトガル語で読んでいる。例えば、フェルナンド・ペソアの訃報を聞き急ぎブラジルから帰国したリカルド・レイスがしばらく滞在したホテルの近所に家を借りて引っ越す時に、支配人のサルバドールに向かって“Só espero que não me leve mal.”と言う。これは「悪く取らないで欲しい」という意味で、なるほどこう使うのか…と得心する。また“O céu está encoberto, o ar húmido, mas as nuvens, embora muito baixas, não parecem ameaçar chuva.”(曇り空で、湿気があり、雲は低く垂れこめているが、雨は降りそうにない。)というフレーズがあったりして、これなんかは梅雨に入ったいまの季節にぴったり。うまくすれば今晩のポルトガル語の授業で使えるぞと内心ほくそ笑んでいる。〈注3〉
 

2024年6月27日 齋藤 眞紀

注1 正確にいうと日本に帰国する際にワクチン接種3回が条件になっていた。
注2 英語コーチングサービス「プログリット」の広告
注3 José Saramago “O Ano da Morte de Ricardo Reis”(Porto Editora)※2002年に彩流社から岡村多希子の訳で翻訳も出ているが、現在は絶版になっている。