天上の雲が風に流され、穏やかに茜色の空を滑る。

その雲が流れ着く先は地平線の果てのようであり、また沈み行く太陽の中のようでもある。

ならば、人間が行き着く先はどこなのだろうか。

一般的には、天国や地獄、または極楽浄土といった宗教的概念に沿うような場所。

しかし、この世に普通の形で生を貰わなかった自分が向かうのは、いったいどこなのだろうか。と義之はふと思う。

何も存在しない、虚無の彼方だろうか。

はたまた、現実的にいえば自らの存在が作り出された場所――魔法の桜の中へと還るのだろうか。

答えは知る由も無い。だが、確率的には後者の方が高いだろう。

『・・・何を考えてんだか』

義之はそんな自分のネガティブな思考に気付き、心の中で嘆息を漏らした。

――あの日、音姫に「最後まで諦めない」と誓った自分は、いったいどこに行ってしまったのか。





D.C.U〜ダ・カーポU〜 SS

             「自由な夢を・・・」

                      Written by 雅輝






<53>  自由な夢を





「ねえ、兄さん」

そんな義之の思考を断つように、由夢が桜の巨木に背を預けたまま話しかけてくる。

「私はね、ずっと諦めていたの」

「え?」

「だって、私の望みは叶わないんだもん」

少し悲しそうに、しかし何かを悟ったような安らかな表情で。

「それが分かってたから、私は諦めるしかなかったの」

ポツリポツリと、言の葉を重ねる。

「由夢・・・いったい、何を・・・」

突然語りだした由夢に、驚きを隠せない義之。

――だがそれも、彼女の背後に広がる茜空を見て氷解する。

ああ、もう・・・。

「・・・兄さんのせいだよ?」

・・・時間が無いんだ。

「折角我慢してきたのに・・・ずっとウソついてきたのに・・・」

先ほどまでは燃えるようだった鮮烈な赤色も、今はもう既に少しずつ闇を帯びてきていた。

「幸せになったら、後悔するって分かってたから」

由夢も、それに気付いてしまったのだろう。

彼女の瞳は涙で揺らぎ、しかし淡々と言葉を連ねていく。

一度溢れ出てしまった想いは、全てを飲み込む濁流となり、止まらない。

「そんなの・・・痛いから」

そこで義之は、ようやく気付く。

自分の手の指先が、透け始めているということに。

もはやそこまで、義之の存在は希薄となっていた。桜の中へと還るのも、既に時間の問題だろう。

「だから・・・」

由夢の声が聞こえる。

誰よりも愛しい、彼女の声が。

もう既に、身体中の感覚は失せていた。だが、まだ耳は彼女の声を拾ってくれる。

それでいい。最期まで彼女の声を聞いて、最期まで彼女の姿を網膜に焼き付けておきたいから。





由夢は涙で濡れそぼった両目をゴシゴシと擦ると、一旦言葉を切り、クルリと反転して桜の幹へと向き直った。

幼い頃の思い出が詰まった、桜の巨木。出来損ないの能力を受け取った、魔法の木。

由夢はその木の全貌を感慨深げに眺めた後、その幹に両の手を沿え、目を閉じながら意識を集中させる。

これから自分がやろうとすることを、きっと後ろにいる義之は怒るであろう。

でも、別に構わない。彼さえ生きていてくれるのであれば。

これこそが、自分が唯一思いついた手段であり。

成功するかどうかも分からない、分の悪い賭けでもあった。

”ポウッ・・・”

桜の木が、ぼんやりとした光に包まれる。

そして、ようやく由夢は口を開く。

零れる言葉は、物語の終焉を告げる、優しく・・・そして悲しい言葉。


「だから・・・さよならだね、兄さん」





『・・・由夢?』

様子がおかしい。

今の彼女の姿勢は、あの日の音姫に被る。

涙を流しながら、自らの使命を全うした少女に。

”ゾクッ・・・”

嫌な予感がする。

第六感が告げている。一刻も早く、やめさせろと。

『まさか・・・あいつ・・・っ』

だが、身体は動かない。当然のように、身体を動かす気力もない。

『やめろ・・・っ』

声に出したつもりのその言葉も、声としてではなく、ただ心の中で叫ぶのみ。

『やめてくれっ!!』

もし自分が由夢と逆の立場ならば、きっと自分も彼女のようにするだろう。

――相手の存在の代わりに、自分の存在を桜の木へと還す。

そんなことが可能なのか?と問われても、首を傾げざるを得ない。

いや、元々は義之の存在が桜の木の魔法で創られた存在。仮に由夢の存在を桜に還そうとも、結局は義之の存在も還ってくるのが道理だろう。

だが、由夢はそんな可能性の低い希望に、自分の存在を賭けた。

”ポウッ・・・”

淡い光が、桜の幹から由夢へと渡りだす。

ゆっくり。しかし、確実に。

・・・あの光が全身に回ってしまえば、彼女はいったいどうなってしまうのだろう。

答えなんか知りたくない。今はとにかく、彼女の元へ。

歯を食いしばり、全身に力を込めた、その時。


――「義之くん」――


聞こえるはずのない声が、耳朶を打つ。

この声は、数日前から行方を晦ましている、愛するべき保護者の声。


――「由夢ちゃんを、助けてあげて」――


とてつもなく優しい何かに包まれるような感触。いつの間にか、義之の身体は動くようになっていた。

『ありがとう、さくらさん』

おそらく何らかの形で力をくれたであろう彼女に心の中で礼を述べて、全力で駆ける。

そして――。

「・・・え?」

「まったく・・・いつも無茶しすぎなんだよ、おまえは」

桜と由夢を遮断するように、義之は幹を背に彼女を力一杯抱きしめた。

「にい・・・さん?」

「由夢が消えちまって、どうするんだよ?おまえが消えたら、俺の帰りを誰が待っててくれるんだ?」

「にい・・・」

「・・・必ず帰る。いつになるか分からないけど、絶対に。だから、待っててくれ」

「――っ!」

由夢もまた、義之の背に腕を回し、精一杯しがみ付くように抱きしめる。

「俺は、さよならなんて言いたくない!ずっと一緒に居たいから!俺は由夢のことを――」

”フッ・・・”

義之の言葉は、最後まで告げられることなく宙に舞った。

由夢は、腕の中に微かに残っている桜光の残滓を呆然と見つめながら、呟く。

「何で・・・?」

呟きは、訴えへ。

「何でこんな未来しか待ってないの?」

訴えは、叫びへ。

「何で悲しい未来しか見られないの!?」

叫びは・・・慟哭へ。

「私は!こんな能力、欲しくなかった!」

「何で?何で幸せな未来は見られないの!?」

「兄さんと一緒に学校に行って!兄さんと一緒にお弁当を食べて!兄さんと一緒に放課後はデートして!」

「何でそんな夢も見られないの!?」

全ては、愛しき彼を飲み込んでしまった、桜の木に向かって。

「私は・・・もっと幸せな・・・自由な夢を見たかったのに・・・」

「もっと、一緒に居たかったのに・・・」

そして慟哭は、嗚咽に変わる。

「兄さん・・・兄さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」

少女は、ただ泣き叫ぶ。

今は居ない恋人の残り香と温もりを、その細い両腕に抱いて。

兄の名を、何度も何度もしゃくり上げながら。

――漆黒の闇の中。桜公園の奥地から、その泣き声は・・・いつまでも、いつまでも響いていた。



54話へ続く


後書き

もはや多くは語りません。

次回をお楽しみに・・・。



2007.7.8  雅輝