研修旅行もあっという間に過ぎ去った、8月27日。

今日は、名目上はキャロット研修旅行の予備日という事なので、バイトは無しとなっている。

耕治はそんなのんびりとした休日を、自室のベッドで過ごしていた。

とりわけ風邪をひいたり、怪我をしたわけではない。

ただ、一人でゆっくりと考える時間が欲しかったのだ。

「バイトも、とうとう明日で終わりかぁ・・・」

もう見飽きてしまった天井に、耕治はため息と共に吐き出す。

キャロットを辞めて、日常的な――今まで通りの高校生活を送る。

その事を、少し残念に思っている自分が確かにいた。

「あの頃は、こんな風に思えるなんて考えもしなかったよなぁ・・・」

自嘲するように呟く。

Piaキャロットでのバイト生活がスタートし始めたあの頃。

初めての一人暮らしと、週6日という過酷なバイトのシフト。

その上あずさとも全然上手くいかず、疲れとストレスばかりが溜まっていった。

正直、辞めるという選択肢が頭をよぎることも無かったとは言えなかった。

『でも、今じゃ逆に辞めたくないと思っているなんてな・・・』

それは、今のバイト生活がとても充実していて、楽しくて・・・それが自然なことのように思えてしまっているから。

そしてそれは、おそらく彼女がいるから・・・。

「・・・」

そこまで考えて、少し自分の顔が火照っているのに気づく。

そしてその延長線上にある自分の気持ちを思い出して、焦る。

彼女も自分と同じ契約だったはずなので、当然明日はバイト最終日ということになる。

バイトが無くなるということは、即ち学校も違うため互いに会う機会が無くなってしまうということで・・・。

『だぁぁぁぁ〜、もう明日しかないのに!』

耕治が絶叫したい気持ちをなんとか抑えつけ、その代わり心の中で苦悩していた丁度その時・・・。

”ピーンポーーン”

耕治の部屋のインターホンが鳴った。





Piaキャロットへようこそ!!2 SS

          「Piaキャロ2 〜another summer〜」

                          Written by 雅輝





<26>  壁一枚の距離




「はーい」

”がちゃっ”

「やあ、前田君」

「あれっ、店長さん・・・?」

耕治がドアを開けると、目の前には相変わらずソフトな笑みを浮かべた祐介が立っていた。

「突然ですまないが、少し話があるんだ・・・。今、いいかな?」

「あっ、はい。えーっと・・・とりあえずどうぞ」

「ありがとう。お邪魔します」

耕治は困惑していたが、さすがに断るわけにもいかないので身体を少しずらして祐介を招きいれた。



「それで、話というのは・・・?」

以前美奈が初めてこの部屋を訪れたときに買い置きしておいたティーパックの紅茶を出し、耕治は改めて姿勢を正して訊ねた。

「うん、それなんだが・・・」

と、祐介は持ってきていた鞄を探って、一枚の紙と一冊の冊子を台の上に置いた。

「? これは・・・」

「キャロットの求人広告と、会社の定款が載っている冊子だよ」

「・・・え?」

祐介がそう説明すると、耕治は驚いたような、信じ難いような声を出した。

「今、キャロットはバイトやパートの数はそこそこ多いものの、優秀な正社員の数は明らかに少ないんだ。特に、男性はね」

「えっと、それはつまり・・・」

祐介の言葉で大方察しは付いた耕治であったが、まさかという気持ちでおずおずと口を開く。

しかし祐介はそんな耕治の言葉を遮り、至極真面目な表情ではっきりと言い切った。

「ああ。単刀直入に言うと、前田君とあずさ君をキャロットの正社員としてスカウトしたいんだ」





「どうかしら・・・?」

耕治の隣の部屋――つまりあずさの自室では、祐介とほとんど同じ内容の話を涼子がし終えた所であった。

机の上には耕治の部屋と同じように、求人広告と冊子、紅茶の入ったカップが置かれている。

明日で二人のバイト期間が終わろうとしている今日、オーナーから正式に許可を取った祐介と涼子は前から目をつけていた二人――耕治とあずさを同時に訪れたのだ。

「・・・」

あずさは涼子の話を聞き終えても、言葉を発しようとはしなかった。

夏休みまでのバイトのつもりだったのに、突然正社員にならないかと訊かれれば誰だって困惑するのは当然のことだろう。

それを重々承知している涼子は、答えを急かそうとはせず話を続けた。

「あずささんのウェイトレスとしての技量はもうほとんど正社員のそれと変わらないし、飲み込みも早いから、ゆくゆくはマネージャー候補として・・・。前田君はよく働いてくれる上、決断力もあるから貴重な男性スタッフ、あわよくば店長候補としてキャロットに来て欲しいの」

涼子の言う話は、決して大袈裟なものではなかった。

というのも、3号店が間もなくできようとしているキャロットでは、もう既に4号店の設置もほぼ確定している。

しかしそう次々と店を増やしても、その店を任せられるだけの優秀なスタッフは少ないのだ。

だから、これはキャロット全体として見てもとても切実な問題で、オーナーがいくら息子を信用しているからといっても、まだ見たこともない二人の採用にGOサインを出したのはそれが原因しているからなのである。

『どうしよう・・・』

あずさは軽いパニックに陥っている頭を必死に動かして考えていた。

確かにあずさは、進路について迷っていた。

最初は他の高校生のように、ただ漠然と大学進学を考えていた。

ある意味、そうすることが当たり前のように思っていた。

しかしいつからか、その考えに疑問を抱くようになっていた。

これといった目的も無く大学へと進学して、ただ無作為に時間と掛かるであろう大金を消費して就職する。

「大学進学は、金で”学士”という資格を買うようなものだ」ともよく言われたりする。

もしあずさが普通の家庭で育ったなら、多分そう深くは考えずに進学を選択していただろう。

だが、普通ではない家庭・・・といっては語弊があるが、今あずさを育てているのは実の両親ではなく、父の兄夫妻――つまりあずさの叔父・叔母なのである。

自分を実の子供のように、今までの間優しく暖かく育ててくれた叔父夫妻に、これ以上負担を掛けたくない。

でも、いきなりこんな話をされてもすぐに決断なんて出来る筈もない。

『あっ、そういえば・・・』

「涼子さん、前田君は何て言ってたんですか?」

自分と同じ立場に立っている耕治のことが気になったあずさは、参考に訊いてみた。

「それが分からないのよ」

「え?どういう意味ですか?」

あずさがきょとんとそう訊ねると、涼子は「ふふ・・・」と少し笑ってから

「今隣の部屋で、私と同じように店長が前田君を説得しているからよ」

と、まるで隣の部屋を見ているかのように壁を見つめながら答えた。





「日野森は何て言ってるんです?」

丁度その頃、耕治はあずさとまったく同じ質問を祐介に問いかけていた。

そして当然その答えも同じもので・・・。

「実は丁度今、隣で双葉君が説得していてね。どうなるかは正直私にも分からないんだ」

「・・・そうですか」

「だが、私はどちらか一人ではなく、二人共に入って貰いたいと思っているよ」

「えっ?」

祐介の意味深な言葉に耕治が不思議な様子で声を上げると、祐介は少しニヤリと笑って言った。

「好きなんだろ?彼女のことが」

「っ!!」

その言葉を受け、耕治の表情が驚きのそれに変わる。

「な、何で・・・」

「分かるさ。実は私は前々から正社員候補として前田君には目を付けていてね。仕事ぶりやその他諸々もしっかりと観察させて貰ってたんだ。それに・・・」

祐介は一回言葉を切って、遠い目をしながら呟いた。

「昔の私に似ていたからな・・・」

「昔の・・・店長さんに?」

祐介は「ああ」と自嘲気味な笑みを一つ浮かべた後、真面目な顔で耕治に向き直った。

「前田君・・・後悔だけはするなよ?」

「・・・はい」

そのあまりにも真剣な表情に、耕治は祐介の顔をじっと見つめたまま頷くしかなかった。

その耕治の様子に、祐介はふっと表情を緩めて、

「さすがに急な話だったから、今すぐに答えを催促するつもりはないよ。でも8月いっぱい・・・4日後までには答えを出して欲しい」

祐介はそう言うと、残っていた紅茶を飲み干して立ち上がった。

それに習い、耕治も立ち上がり祐介を玄関まで送っていく。

とは言っても、玄関まではたかが数歩の距離なのだが・・・。

「それじゃあ、お邪魔したね。あと、お節介かもしれないが・・・頑張れよ」

最後にそう言って笑顔を見せると、祐介はドアを開けて去っていった。

ドア越しにちらっと見えた限りには涼子もいたようなので、隣の話も既に終わったのだろう。

そして机の上に残ったのは、二つのカップとキャロットの資料。

「ふう・・・どうするかな・・・」

耕治はため息と共にそう呟いて、先程もちらっと見たキャロットの資料に手を伸ばした。





「就職、か・・・」

涼子が帰った後、あずさは自室のソファーに身を預けて、今日話された事が現実であることを確認するように呟いた。

しかしその声が、心なしか憂いを含んでいるのに彼女は気づいているだろうか。

何も、キャロットで仕事をするのが嫌だというわけではない。

信頼できる店長に、優しいマネージャー。

気さくな同僚たちに、きついがやりがいのある仕事。

高卒ということになれば給料が安いのは仕方の無いことだが、それを含めても非常に良い就職先であるとあずさは思っている。

それなのに、どうしても出てしまう暗い気持ち。

その原因はやはり、今隣の部屋で自分と同じように悩んでいるであろう耕治である。

『もし一緒に働くことになったら・・・やっぱり気まずいんだろうなぁ』

研修旅行の最後の夜以来、美奈は何かが吹っ切れたかのように元気になっていた。

おそらくそれは、自分の耕治への思いに折り合いを付けたからであろう。

それに対し自分はというと、まだ気持ちの整理がついておらず、中途半端な気持ちのまま彼と接し続けている。

これがこのまま続けば、次第に耕治と美奈の仲が深まるにつれて気まずさもどんどん募っていくだろう。

そういった思いが、あずさの決断を鈍らせていた。





「就職、か・・・」

キャロットの資料を見ながら、耕治は隣人のあずさとまったく同じ台詞を呟く。

その表情が憂いを含んでいないだけ、あずさよりはましだと言えるが・・・。

『・・・日野森はどうするんだろうなぁ』

資料に載っている、各店でのバイトを含めた従業員リストの中に彼女の名前を発見した耕治は、それを眺めながらぼんやりと考える。

確かに祐介は二人共に入って欲しいと言っていたが、最終的な決定権はもちろん彼女に委ねられている。

もし彼女が断ったら、店側としてもあまり強くは引き止められないだろう。

「・・・」

あずさに気持ちを伝えられずに、やきもきしていた耕治。

そんな時に突然出てきた何とも好都合なシチュエーション。

もし二人で働くようなことになれば、当然今まで以上に親密な仲となることだってできるはずだ。

しかし、そうだと踏んで結局あずさが断ったら、もう彼女に告白する機会は無くなると言っても過言ではない。

今の耕治にとっては、就職よりもそっちの方が切実な問題であった。



――「「はぁ・・・」」――



お互いが遠く感じる、壁一枚の距離。

それを隔てて同時に吐き出されたため息は、まさに二人の心情を表しているかのようだった。



27話へ続く


後書き

今回は高校生には付き物の進路問題を全面的に出してみました。

とはいっても自分も高校生なんで、結構書いてて心配になったり・・・(汗)

突然のキャロットへの就職話。

しかしそれぞれ複雑な想いの中、二の足を踏んでいるようですね。

耕治君にとっては就職より目先の恋の方が大事みたいです(笑)


さて話は変わりますが、もうすぐ「PiaキャロSSLink」が閉鎖してしまうとの事。

2月末と書いてあったので、この作品の完結は100パー間に合いません^^;

もっと早く書き始めれば良かったかなぁと、今更後悔してたり・・・。



2006.2.24  雅輝