あれから数日後、私達はまた例の喫茶店を訪れていた。
特別美味しいというわけではないけど、この近辺では一番紅茶のレベルが高いことと、何より店の雰囲気が私は気に入っていた。
「さて・・・今日は何にしようかな?」
向かい側では、お水を一口含んでからメニューを広げる智也さん。
その表情はどことなく楽しげに見えて、何故か私まで穏やかな気分になった。
私はその不意に湧いた感情を店の雰囲気のせいだと思いこむようにして、先ほども見たはずのメニューにもう一度目を落とす。
「決まった?」
「あっ、はい。アッサムにしようかと思っています」
しかし結局は最初に決めた注文と変わらず、私は視線を向けてきた彼にすぐに返事を返した。
「そっか。じゃあ俺もそうしようかな。・・・すみませーん!」
智也さんが軽く手を挙げ声を出すと、心持ち早足でやって来る店員。
その人は見覚えがある、あのお姉さんだった。
「お待たせしました。ご注文はお決まりでしょうか?」
「えっと、アッサムを二つで」
「はい、アッサムがお二つですね?かしこまりました。少々お待ちください」
彼女はサラサラと伝票に文字を素早く書き込むと、それを机に伏せて置き一礼して店の奥へと消えていった。
「・・・あっ!」
とそこで、この前のように彼女の後姿を目で追っていた智也さんが何かに気付いたような声を上げる。
「ど、どうしたのですか?」
「ははは、分かったんだよ。あの人が誰なのか」
「えっ!?それで、誰なんです?」
それは私も聞きたかった事なので、自然と身体を乗り出すようにして訊ねる。
「ん〜、すぐに教えても面白くないしなぁ・・・。ヒントは、”誰かの実のお姉さん”だ」
にやにやと意地悪い笑みを浮かべる智也さんに、私は少し憮然とした気持ちで言葉を発する。
「もうっ・・・意地悪しないで教えてくださいよ」
「まあまあ。ここを出る頃には教えるよ。それまでは、頑張って考えな」
「はぁ・・・分かりました」
・・・彼らしいと言えばそこまでなのだろうけど。
私はため息をひとつ落としてから、『まあ後ででも教えて貰えればいいか』と思いつつ、窓の外を見遣った。
――しかし、この時の私は思ってもみなかっただろう。
まさかこの答えが、聞けない事になってしまうなんて・・・。
Memories Off SS
「心の仮面」
Written by 雅輝
<17> 喫茶店の紅茶(後編)
2人で他愛もないことを話しながら、注文した紅茶を待つ。
『あ・・・』
そして数分後、先ほどのお姉さんとは違う、二つの紅茶をトレイに乗せながら歩いている同年代と思われるウェイトレスが視界に映る。
おそらくまだ働き始めて間もないと思われる彼女の動作は、どこかぎこちないもので・・・。
それでも、私は別段気にする事はなく、また彼の話に相槌を打つ。
そして聞こえてきたその声に、私が顔を向けたまさにその瞬間だった。
「お待たせ致しま――」
”ズッ”
運が悪かったとしか、言い様がなかった。
今日は湿度が高く、床は湿っぽくなっている。
さらに、前の客が何か零したのだろうか、私達の周りの床にはモップ掛けをした後があり、滑りやすさに拍車をかけていた。
慣れている人ならそこで持ちこたえるのだろうが、まだトレイを持つことにも慣れていない彼女には無理な話だったようだ。
「あ・・・」
バランスを崩した彼女のトレイから、片方の紅茶が私目掛けて降ってくる。
淹れたての――その上カップまで暖めている紅茶をまともに被ったら、火傷では済まないだろう。
しかし完全に不意を衝かれた私は、声すら出なかった。
ただ、スローモーションのコマ送りのように降ってくる紅茶のカップを、呆然と見つめていた。
「危ないっ!詩音っ!!」
その時だった。
鋭い声と共に、私を庇うように二本の腕が伸びてきたのを視界に捉えたのは・・・。
”バシャァッ!!”
「うぐっ!!」
目の前で何が起きているのか、理解するまで数秒を要した。
そして一番に認識出来たのは、何の被害もない自分の身体と、目の前で小刻みに震えている彼の腕と、苦悶に歪んだ表情だった。
「も、申し訳ありませんっ!!す、すぐにタオルをお持ちします!!」
ウェイトレスの彼女はバランスは崩したものの転倒には至らなかったようで、すぐに店の奥へと引き返すと別の店員と一緒に濡れタオルを持ってきた。
すぐに応急処置として、店員が裾を捲った彼の腕に濡れタオルを当てる。
そしてそれが終わるまで、私は呆然と彼の震える腕を見つめているだけだった。
――数分後。
だいたいの箇所を拭き取り終えたウェイトレスが必死に頭を下げている様子を、私はただぼんやりとした頭で聞いていた。
思考は上手く働かず、それでも視線は彼の腕だけを見つめている。
そしてウェイトレスの彼女がおずおずと店の奥に下がるのを見計らっていたかのようなタイミングで、智也さんがこちらを向き口を開く。
「詩音は、大丈夫だったか?」
”ドクンッ”
その彼の声は、言葉は、笑顔は――私の心を甘く抉った。
私なんかを、身を挺して守って・・・そしてその見えないように後ろに隠している両腕に火傷を負って・・・それなのに、なぜあなたはそんなに穏やかな笑みを浮かべるの?
なぜそんなに、優しい言葉を掛けてくれるの?
疑問が疑問を呼び、感情は荒れ狂った大海のように凪ぐことはない。
それでも、私は心にポッと浮かんだ感情を、ほとんど考えることなく吐露した。
「・・・何で?」
「えっ?」
「何でそこまでするの?危ないじゃない!」
それは、怒り。
また彼に助けてもらった情け無い自分に対する怒りと、優しすぎる彼に対する一方的な怒り。
それらがない交ぜとなって、私はただ彼に強い視線を向けた。
「何でって・・・。詩音が危ないと思ったから。助けなきゃって思ったから。気付けば勝手に身体が動いていたんだよ」
それでも彼は、こんな自分勝手な私を怒ることも無く、呆れることも無く・・・穏やかで、それでいて真摯な瞳を向けてくる。
「そんな・・・私が助かっても、智也さんが怪我をすれば一緒ですっ!!」
「俺は大丈夫だから・・・詩音が無事で、本当に良かったよ」
そうして、また彼は笑む。
腕が痛くないわけないのに・・・。
それでも、私を心配させまいとして・・・。
そんな事をされれば、どうしようもなく心が動かされてしまう。
今以上に、あなたを求めてしまう。
でも、私には出来ない。
――怖いから。
私が、臆病だから。
あなたに、素直な気持ちを向けられない。
「だから・・・・・・智也さんが優しすぎるから、私は・・・」
そして、智也さんに責任転嫁しようとするずるい私。
――彼が優しすぎるから、私の仮面はここまで綻びてしまったのだと。
「・・・詩音?」
彼の声が聞こえてきたけど、私は俯かせた顔を上げることができなかった。
ただ、こみ上げてくる涙を必死に抑えようとして・・・。
それでも、やはり我慢し切れなかった。
せめて彼に零れている涙を見られたくなくて――。
「ごめん・・・・・・い。・・・っ・・・ごきげん・・・う」
困惑している様子の彼の返事も待たず、私はその場から走り去った。
どれほど走っただろう。
何も考えたくなくて、ただ感情が赴くまま走り続けた。
流しつくしてもはや枯れてしまった涙の後で、おそらく今の私の顔はぐしゃぐしゃだろう。
そしてそんな状態のまま、気がつけば私は以前智也さんと栗拾いをした、あの公園まで来ていた。
もう走ることにも疲れてしまった私は、噴水の前にあるベンチに腰を掛ける。
そのまま見上げた空は、既に茜色に染まっていた。
そんな綺麗な夕焼け空とは対照的に、私の心の中は混沌とした気持ちで埋め尽くされていた。
「・・・」
心に蠢く、嫌な部分と向き合うように、私はゆっくりと目を閉じた。
と、その時――。
「・・・双海さん?」
「えっ?」
突然聞こえてきた、充分聞き覚えのある声に私は目を開いた。
その声の持ち主は、私のクラスメートでもあり、彼の幼馴染でもある彼女だった。
「今坂さん・・・」
「やっぱり双海さんだぁ。こんな所で会うなんて奇遇だねぇ?」
ニパッ・・・とそんな擬音が聞こえてきそうな程の笑顔を見せる彼女に、私は無表情のまま言葉を返す。
「・・・そうですね」
「うん!・・・って双海さん、どうしたの?酷い顔、してるよ?」
今坂さんが心配そうな表情で私の隣に座り、顔を覗き込んでくる。
「何かあったの?唯笑でよければ、相談に乗るよ?」
彼女は普段の天真爛漫な笑顔からは程遠い、真剣な顔を寄せてくる。
それでも、言えるはずがない。
私が日本を嫌っている理由も、仮面を被り続けている理由も・・・。
そして勿論、彼との事も・・・。
けれど、私にはその事とは別に前々から今坂さんに聞きたい事があった。
だから――。
「・・・それでは一つ、伺っても宜しいですか?」
「あ・・・うん!どんと任せてよ!」
遠慮がちな私の声に、彼女は嬉々として胸を叩くポーズを取る。
私はそんな彼女の様子に少し苦笑を零して・・・そして一つ大きく息を吐いてから、彼女と向き合って口を開いた。
「”あやか”さん・・・という方を知っていますか?」
18話へ続く
後書き
よしっ、ちょっと最近調子出てきたかな?
というわけで17話UPです^^
今回はオール詩音視点で逝ってみた(笑)わけですが・・・。
やっぱりムズイっす(汗)
けどまあ、今回は結構書けたほうかなぁ、と。
んで、内容は本編でも重要なシーンである「紅茶事件(?)」。
その時の詩音の想いを中心に仕上げたわけですが・・・どうでしたでしょう?
素直になりたいのに、恐怖心が邪魔してどうしても逃げてしまう・・・。
そんな詩音の葛藤が伝われば、作者としては満足です^^
それでは、また18話で・・・ごきげんよう!