電車に揺られること一時間余り。

 謙悟と冴霞は陽乃海市を出て、隣市である春野瀬市にある上白(こうびゃく)という駅で降りた。この土地は古くから温泉で有名であり、上白温泉として

その名を知られている。春の行楽シーズンという事で人気が集まる事を見越した二人は、二月の内から早々に宿の手配を済ませており、宿泊料も既に支払い

済みだった。一泊二日で一人あたり八千円と、財布にも優しい和風旅館の名前は『旅館・白湯華(しらゆのはな)』。駅からは少々遠いものの、二階建ての

歴史ある落ち着いた佇まいは来る者を温かく迎え入れる、穏やかで静謐な雰囲気を纏っており、ようやくの思いで辿り着いた二人は安堵の溜息をついた。

「これはこれは、遠路はるばるお越し頂き、ありがとうございます。ご予約を頂きました、新崎様ですね」

 女将と思われる着物の女性がにっこりと微笑んで挨拶をする。陽子や冴霞の母である悠香よりも若干年上だろうか、品の良いたおやか物腰と優しげな笑顔

は、長旅と徒歩で疲れた宿泊客の疲れを癒し、そしてそれは謙悟と冴霞も同様だった。

「はい。一泊だけですが、お世話になります」

 冴霞がそう言って礼をすると、謙悟も彼女に倣って頭を下げる。

「まぁ、ご丁寧に。お若いのにしっかりされていらっしゃるのですね。こちらとしても、嬉しい限りです。さ、立ち話もなんですから、お部屋までご案内

させて頂きますわね――――と、失礼いたしました」

 旅館の入口まで来ると、女将は思い出したように二人へと向き直って、美しい所作で床に膝をついた。

「私(わたくし)、旅館・白湯華第四代目女将を務めます、弓月冬華(ゆみづき とうか)と申します。どうぞごゆるりと、当旅館をお楽しみくださいませ」

 不意打ちじみた自己紹介。だが女将――――改め、冬華はすっと立ち上がると、何事もなかったかのように廊下を進む。呆気に取られていた謙悟と冴霞は

ハッと我に返り、早歩きで冬華の後を追うのだった。

 

 

 二人が通されたのは、二階にある一室『春桜の間』に通された。白湯華にある客室名は全て花や樹木から由来しているようで、他にも『菖蒲(あやめ)』、

『楓』『松』などがある。その中で何故この『春桜の間』だけが『春』を冠しているのか、冴霞は疑問に思い冬華に尋ねてみた。

「簡単な理由ですわ。この旅館にはもう一室、『桜』を冠する部屋がありますの。秋に咲く桜、と言えばご理解頂けますかしら?」

「あぁ……そういうことですか」

 納得がいった、と頷く冴霞。その隣で謙悟が白湯華のパンフレットを捲っていると、確かにその名がある。

 秋桜(コスモス)の間。もっとも、和風旅館であることと『春桜の間』との対比でコスモスとは読ませず、『あきざくら』と振り仮名を振っている。

「夕食は午後六時半を予定しています。新崎様はツアーではないので、お部屋の方へお運びいたしますが、よろしいでしょうか?」

「はい、お願いします」

 謙悟がそう言うと、冬華は優しく微笑んで一礼してから部屋を出て行った。それを見送ってから、謙悟は今まで担いでいた荷物を畳の上に置くと、やっと

といった感じで大きく溜息をついてドサッと座り込んだ。そしてそんな彼の姿を見て、冴霞はくすくすと笑いながら謙悟の背中に抱きつく。

「ぉわっ……なんとか、一息つけるな」

「はい。ご飯まで三時間くらいありますけど、どうしますか? 旅館の中でも見て回ります?」

「そうだな……そうしようか」

 冴霞に抱きつかれたまま謙悟は立ち上がり、そのまま彼女をおんぶして窓際まで移動する。南向きに建てられている窓から見えるのは生い茂る林と、遥か

先には海がうっすらと見える。見慣れない土地から見る、見慣れた海。そんな当たり前のことだが、距離にしてみれば随分遠くに来たものだ。

「謙悟く〜ん……降ろして下さ〜い」

「ん、ごめんごめん。でもずっとおんぶしたまま旅館の中見て回るっていうのも、面白いんじゃないか?」

「そんな恥ずかしい思い出はいりませんっ! ……しょっと」

 謙悟の背中から降り、ぷぅと不満を訴えるように頬を膨らます冴霞。久し振りに向けられるその仕草に、謙悟は思わず冴霞を抱きしめたい衝動に駆られた。

だが、だからといって真っ昼間からイチャイチャするのは謙悟としてもあまり好ましい行為だとは思っていない。それに客も少ないとはいえ、従業員がいつ

入室してくるとも限らないのだ。ある程度は自重しなければいけない。

「じゃあ、ゆっくり見て回ろうか。鍵とか預かってるよな?」

「ちゃんと貰ってますよ。私が持ってていいんですか?」

 ちりん、と部屋の鍵に付けられたキーホルダーの鈴が鳴る。キーホルダーには他に部屋の名前を彫り込んだ木の板が名札代わりに付けられており、万が一

落とした時にも分かりやすいようにされている。

「ああ、頼む。とりあえず上着は着たままで行こう。外にも出るだろうし」

「はいっ」

 元気のいい返事の後に、きゅっと謙悟の左腕に右腕を絡めてくる冴霞。にこにこと嬉しそうに微笑んでいるその表情は、普段の彼女からすればとても連想

出来ないほど年相応に子供っぽく、親しい人にしか向けられることのないものだ。その親愛に応えるように、謙悟は空いている右手で冴霞の前髪をかき分け、

触れるだけのキスを落とした。

 

 

 

B&G High School Memorial

Graduation Travel La route qui continue au futur

Une etape B

 

 

 

 白湯華は明治の終わりに出来た古い旅館ではあるが、何度かの改装・増築・改築により、近代の旅館と比しても機能的に見劣りしない施設を維持している。

それでいて、和風旅館ならではの落ち着いた雰囲気と、周囲の自然との調和を見事に維持していることから訪れる客もそれなりに多い。予約を取った時期が

一カ月以上前と早かったために、謙悟と冴霞は問題なく宿泊することが出来ているが、もう少し時期が遅ければツアーに紛れてでしか予約は取れなかった。

 幸い、そのツアーで来る旅行客も明後日以降の来客であり、二人を除けばわずか五組しか宿泊客はいない。部屋数もそれなりに多いため、宿泊客同士が

顔を合わせることは、かなり稀な事だろう。

「何だか、半ば貸し切りみたいな感じですね」

「だな。周りも静かだし……お」

 ふと謙悟が足を止め、冴霞もそれにつられて歩みを止める。みればそこは外に通じる扉があり、扉の横には部屋の鍵に付けられたキーホルダーと同様に

彫り込みで『露天大浴場』と書かれていた。

「露天風呂だって」

「行ってみましょうか?」

 互いに顔を見合わせてから、うん、と頷き合う二人。カラカラと戸を開ければ、そこは既に板張りの旅館とは別世界として存在していた。

 石造りの床と、旅館と大浴場を繋ぐ長い屋根。少し進めば、そこから先は石の階段だった。斜角は緩く、一段一段の幅も広い。急いで走ったりしなければ、

手すりに掴まらずとも余裕で進んでいけるほどに安全性を高めた設計。そして階段が終われば屋根も途切れ、小さな小屋が三メートルほど先に建っていた。

「あれが脱衣所、ですね……ちゃんと男女に分かれてるみたい」

「みたいだな……っ!?」

 息を飲み、咄嗟に顔を背ける謙悟。その異常に気付いた冴霞が大浴場の方を覗くと――――謙悟たちよりもいくらか年上であろう女性が三名、同じように

こちらを見ていた。

「あら、今度は女の人だわ」

「ねぇねぇ、今のってあなたの彼氏?」

「ここって混浴なんだよー。良かったら、お二人も一緒に入らないー?」

 女子大生か、あるいはOLか。どちらにしてもそんな誘いには乗れないし、元より乗るつもりもない。冴霞はスッと小屋の陰から出ると、凛然とした態度

で女性三人の前に立った。

「折角のお誘いですが、お断りさせて頂きます。連れの失礼はお詫びいたしますので、これで」

 腰から綺麗に頭を下げ、有無を言わさぬ態度で斬って捨てる。そして冴霞は謙悟の腕をぐいっと掴むと、引きずるような勢いで今来た道を戻った。

 茫然としたままの女性三人は、その様を見送る事しか出来なかった。

 

 

 

「ちょ、おい、冴霞……冴霞ってばっ」

「ぁっ……っ」

 白湯華の中庭で謙悟は足を止め、半ば力づくで冴霞の歩みを止めさせて振り向かせる。振り向いた冴霞の表情は、謙悟にとってはおおよそ予想通りのもの

ではあったが――――無感情で、それでいて紺青色の瞳には、はっきりと困惑と嫉妬が浮かんでいた。

「……また、そんな顔して……心配しなくても大丈夫だって、前にも言ったよな?」

「だって……見たんでしょう? あの人たちの……」

 言葉尻を濁しつつも、抗議の視線が向けられる。確かに冴霞の言う通り、一瞬とはいえあの三人の裸身を覗き見てしまったのは事実だし、それを否定する

ことは出来ない。謙悟はそれを認めて頷き、真剣な面持ちで冴霞を見る。

「何度でも言うけど、俺は冴霞以外の女の人に、……そりゃ、目を奪われるくらいはするかも知れないけど、興味なんかない」

「目を奪われはするんですね!?」

「上げ足を取るなよ。……でもそういうの仕方ない事だって、冴霞だって分かってるんだろ?」

「それは……分かって、ますけど……」

 そう、冴霞もその程度の事は分かっている。いくら謙悟が冴霞の事を愛している、謙悟に愛されているという事実と自信があったとしても、その大前提と

して燦然と存在する覆しようのない真実――――新崎謙悟が、男であるということがある。

謙悟とて聖人君子ではないのだ。目の前に冴霞ではなくても、他の女性が全裸で待機していればわずかながらも目を向けずにはいられない。むしろ先ほど

のようにすぐさま視線を逸らす、という事の方がよっぽど難しい。それを成し得た時点で称賛されてもいいくらいである。だがそうもいかないのが乙女心

であり、冴霞もまた例外ではない。

「頭では分かっていますけど……やっぱり、イヤなものはイヤなんです。我儘を言ってるのも分かってるけど……割り切れなくて……」

「冴霞……」

 胸が熱くなる。些細な事だと言ってしまえば簡単に思えるが、その些細な事でここまで思い悩んでくれる。それはつまり、それだけ謙悟が冴霞に愛されて

いるという確かな証明だ。相愛の関係だと知りつつも、こんなに嬉しい事はない。

「ぁっ……」

 ゆったりと冴霞を抱きしめる。強くはなく、ただ受け止めるだけの緩く優しい抱擁。もしかしたら人目に着くかもな、と思いつつも、謙悟はそのまま長い

黒髪を撫でながら、トントンと彼女の背中を叩いた。

「我儘なら言ってくれ。俺は出来る限り、冴霞の我儘は聴いて、叶えるようにするから」

「…………じゃあ、早速……聴いてくれます?」

 上目遣いに見上げてくる視線を受け止めて、頷く謙悟。冴霞もまた頷くと、そのまま謙悟の背中に手を伸ばし、緩慢だった抱擁を強く確かなものへと変化

させた。謙悟もそれに応じるように、自信の腕の力を強めて短い距離をさらに寄せる。

「……他には、何かあるか?」

「ううん……これだけで。こうしていたい」

 目を閉じて、謙悟の体温を感じる。ただそれだけの触れ合い。風が木々を揺らし、遠く林の方からは野鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。そして耳元からは

謙悟の息遣いと、生命の鼓動が伝わってくる。もう何十回と聞いた彼の鼓動は、力強く、優しくて――――謙悟そのものだ。

「あ……冴霞、誰か来る」

「え?」

 夢心地に浸っていた冴霞を引き戻す無粋な介入に、警告した謙悟自身も少々怒りを覚えながら、冴霞の身体を解放する。遠目に見えるのは先程の女性三人

ではなく、中年の夫婦といった感じの男女二人だった。なにやら険悪な様子で言い合いをしており、そのおかげでまだこちらには気づいていないようだが、

このままだと鉢合わせる。

「えっと……謙悟くん、こっち!」

「って、またかよ……!」

 旅館の見取り図が載っているガイドマップを見ながら冴霞が再び謙悟の腕を引っ張る。中庭の奥にはかつての白湯華であり、現在は住み込みで働いている

従業員の寮・月華館(げっかかん)があるのだ。そこからならば別の道で本館である白湯華に戻る事も出来る。見られても別にどうという事はないのだが、

彼らのお世辞にも上々とは言えない雰囲気に巻き込まれることは冴霞も望むところではなく、謙悟もそれは同じだった。

「――――なによ、奥さんとは別れるって言ったじゃない! なのに――――」

「仕方がないだろう! 子どもが生まれるんだ! あれの両親だって――――」

「(浮気現場だなんて……しかもかなり修羅場っぽいですよ……)」

「(……男の人、刺されたりしないだろうな……)」

 偶然聞こえてしまった会話から察するに、どうやら浮気相手である女性に別れ話を持ちかけていたようだ。早々に退散して正解だった、と密かに安堵の

溜息をつきながら、謙悟と冴霞は一路、従業員寮を目指して忍び歩きで進んだ。

 

 

 

 月華館まで辿り着くと、従業員の一人と思しき女の子が寮の周りを掃除していた。働いている以上、年の頃は冴霞と同い年くらいだろうか。それにしては

随分と幼く見える。

「あの、すみません」

「はぇ? ……あ、は、はい! い、いらっしゃいませ!!」

 冴霞が声を掛けると、女の子は地面に頭を打ち付けそうな勢いで頭を下げた。もちろん転倒でもしない限り、立っている人間が地面に頭をぶつけること

など有りはしないのだが――――。

「わ、わわ、うぁぅっ!?」

 竹箒を踏み、草履が滑り、前のめりに転倒。顔面を思い切り地面にぶつけた女の子は、ぴくぴくと痙攣したまま起き上がらない。あまりの出来事に呆気に

取られていた冴霞はハッと我に返ると、すぐさま女の子に駆け寄って安否を確認した。

「だ、大丈夫ですか!? 怪我してません!? ごめんなさい、私が声を掛けたから……!」

「い、いたたた……ら、らいじょーぶれす、い、いふもろ、ほとれすから……」

「いつものって……じゃなくて。鼻血が出てますから、これで拭いてください」

 謙悟もしゃがみこんで、自分のハンカチとポケットティッシュを差し出す。女の子はそれを受け取ると、ハンカチを使って慣れた手つきで止血をし、割と

乱暴にぐいっ、とティッシュを鼻に詰め込んだ。

「す、すみません、見苦しいところをお見せしまして……」

「いえ、とんでもないです。本当にごめんなさい」

 女の子の顔に付着した土を手で払い、冴霞は他に傷がないか確認した。幸いにも擦り傷はなく、汚れているだけのようだ。

「他に怪我はないみたいですね。可愛い顔が無事で、良かったです」

「わ、あわわ……も、申し訳ないです、お客様みたいな、綺麗な人にそんな……」

 真っ赤になって俯き、もじもじと手をこねる女の子。身長は冴霞がかなり高い事を差し引いてもかなり低く、中学生だと言われれば信じてしまいそうだ。

「……あ、あれ? そういえばお客様たちは、どうしてこの月華館に? ここはただの従業員寮なので、これといって何もない所ですけど……もしかして、

道に迷われたんですか?」

「あ、いえ。ちょっとした散策です。初めてくるところなので、いろいろ見ておきたくて。ちゃんとガイドマップも持っていますから」

 ぴっ、とガイドマップを取り出す冴霞。女の子はほえーと口を開け、尊敬の眼差しで冴霞を見上げた。

「お、お客様、凄いです素敵ですカッコいいです!! 私、おばあちゃんの手伝いで今日ここに来たんですけど、地図を持ってこなかったからすっごく

迷っちゃいました! やっぱり大人の人ってすごいんですね!!」

「「大人……?」」

 首を傾げる謙悟と冴霞。確かに、この女の子が年上だとは誰も言っていないし、それは二人の勝手な先入観からだ。旅館で働く人間イコール社会人、とは

必ずしも限らない。ひょっとしたら、春休みの間だけの短期アルバイトかもしれない、という可能性もある。

「あの……失礼ですけれど、年齢を伺ってもよろしいでしょうか?」

「あ。は、はい! えと、では自己紹介もさせて頂きます。……弓月蓮華(れんげ)、十四歳。市立春野瀬中学校の……四月から三年生で、おばあちゃんは

この白湯華の女将さんをしている、弓月冬華です」

 おばあちゃん。

 女将である弓月冬華が。

 推定四十代であろうと思われた、あの女将さんが。

「え、あ、ちょ、ちょっと待ってくれ……一応、ぜひ聞きたい事が一つだけあるんですけど……」

「女将さんって、おいくつなんですか……?」

 ぎこちなく尋ねる二人の態度に疑問を感じながら、蓮華はいともあっさりと答えを口にする。

「たしか、今年で六十六歳になりますけど、それがどうかなさったんですか?」

「「――――――――!!!??」」

 月華館の外庭から、声にならない悲鳴が上がった。




Cパートへ続く