仰げば尊し、我が師の恩。
教えの庭にも、早幾年。
三月一日。第二十四回・県立陽ヶ崎高等学校卒業式は静かに執り行われた。既に進路を決めている者、二次試験の合否待ちをしている者、就職する者、
そのどちらでもなく浪人生活を始める者。未来は様々に枝分かれし、これから先、同じ場所に集う機会はそう何度もないだろうし、またその機会も年を
経る毎に失われていく。
今村冴霞と、そして彼女の親友・来栖彩乃も、そんな別れを経験しようとしていた。
「四月からは、あたしは県外の大学だからな。夏休みくらいにしか会いには来れないと思う」
「うん……でも彩ちゃん、本当におめでとう。お医者様になるっていう夢に、一歩前進したんだね」
彩乃の進学先は、県外にある国立大学の医学部だった。その中で彼女は精神科の医師を目指す事を決めており、六年という長い期間、一人暮らしを
しながら過ごすのだという。彩乃の学力では厳しいとも言われていただけに、合格の際には冴霞も、またもう一人の親友である間宮巴も飛び上がって喜び、
二人して彩乃を(物理的な意味で)振りまわした事は記憶に新しい。
「そもそもの発端は、サエの病気を治してやりたいっていう思いからだったんだがな。それがいつの間にか、自分自身の目標にもなっていたから……まぁ、
最後まで諦めずにやってみるよ。まだ先の話だけど。それより……」
どん、と彩乃の手が冴霞の胸を小突く。そしてその表情は、どことなく意地の悪い笑顔。
「な、なに? 彩ちゃん?」
「サエこそ、これからどうするんだ? 陽桜女子の特待推薦なんて、全国から三人しか選ばれない門を通過してさ?」
私立陽桜(ようおう)女子大学。陽乃海市内に構える大学の中で――――もとい、全国の国公私立大学の中で間違いなく超難関に位置する大学の中で、
冴霞は募集定員三名という狭き門・特待推薦枠での入学を、一月の時点で既に決めていた。これは陽ヶ崎高校の歴史に名を残す偉業であり、また筆記試験も
英語科・国語科・数学科の六百満点中、五百九十九点という限りなく満点に近い成績を達成したのも、冴霞が初めてだった。ちなみに一点の減点は、数学の
解法が微妙に省略し過ぎていた為の失点である。正答率だけならば、文句無しの百パーセントだ。
「どうって言われても……私の夢は、彩ちゃんだって知ってるでしょ? それに向かって、邁進するのみです」
むん、と彩乃の手を握り込んでのガッツポーズ。だが彩乃はそんな冴霞の態度とは裏腹に、呆れたような溜息を吐いた。
「そうじゃないよ。今更、サエの進路についてあたしがどうこう言うのは、それこそ馬の耳に念仏、暖簾の腕押しだってことは十分に分かってる。あたしが
言いたいのは……その、あいつの事だ」
渋々といった感じで飛び出した話題。冴霞はガッツポーズを解き、そっと手を下ろした。
「……そのこと、……彩ちゃんも、考えてくれてたんだ」
「か、勘違いするなよ? あたしは、サエのことが心配だから言っただけだっ! べ、別にあいつの――――新崎の事なんて、どうでもいいんだからなっ!!」
ツンデレの定型文を吐き、ぷいっとそっぽを向く彩乃。冴霞はくすくすと笑いながら、そっと携帯電話を取り出した。待ち受けは冴霞と彩乃、そして巴で
撮った初詣の記念写真が納まっており、そこからメニュー画面を開いてスケジュールを呼び出す。
三月の、二十二日と二十三日。土曜日から日曜日の二日間だが、そこにはリボンの絵文字が表示されている。
「心配してくれてありがとう、彩ちゃん。でも大丈夫だよ」
天を仰ぎ、晴天と白雲の眩さに目を細める冴霞。その表情は穏やかで、しかしどこかに憂いを帯びているのは――――これが、最後だから。
別離(わかれ)の時が近づいている。永遠ではないにしても、それは約束された別離。
その前に、最後の。本当に、正真正銘最後の思い出を刻もう。
――――B&G High School Memorial
三月二十二日、土曜日。昨日に三学期の終了式を終えた新崎謙悟は、今日の昼から行われていたクラスの集まりを早々に辞して走っていた。お祭り好きの
クラスメイトである秋月愛からは「ぶーぶー」という幼児ちっくなクレームの声が上がったが、事情を説明し、一次会の半ばまでで帰宅を承諾してもらった。
時刻は既に午後一時五十分を回っている。出発の時間は午後二時を予定しており、当然待ち合わせをしている彼女は待ち合わせ場所に到着しているはずだ。
一度帰宅して着替えを済ませ、二日分の着替えといくつかの荷物を詰め込んだバッグを持って家を飛び出したのが一時二十分ごろ。これは、謙悟の家から
待ち合わせ場所までの距離と移動手段を考えれば、本当にギリギリ間に合うかどうかという時間だった。
「はっ、はっ、は――――」
道行く人を押しのけて、一秒でも早く到着するために走る謙悟。今日という日を心待ちにしていた彼女を待たせることは出来ないという使命感がより彼の
足を速くする。そしてその想いが通じたのか、午後一時五十七分。待ち合わせ時間のギリギリ三分前。
「あっ、謙悟くんっ!!」
謙悟を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってくる彼女――――今村冴霞。長袖のハイネックカットソーにジーンズといったありふれた装いも、彼女が身に
着ければ良く似合っている。そして腕には春物のジャケットを引っ掛けており、それで謙悟は冴霞がどれだけ待っていたのかを理解してしまった。
その理由は今日の気温だ。三月の平均よりも低いと言われていた今日、上着を脱いだまま外で人を待つことは難しい。暖を取るための上着を脱いでいた
という事は、冴霞は屋内で長い時間、待っていたという事になる。
「ご、ごめん……待たせて……っ」
「そんなの、気にしないで下さい。待つのだって楽しみの内なんですから。それに時間にはちゃんと間に合ってくれましたし」
優しく微笑んで、バッグからハンカチを取り出して謙悟の汗を拭く冴霞。その手をきゅっと握り込んで謙悟は一歩、冴霞との距離を詰める。と同時に、
待ち合わせ場所である陽ヶ崎駅の時計台が、午後二時を知らせる鐘の音を響かせた。
「……じゃあ、行こうか」
「はいっ」
そのままつないだ手を下ろして、駅の改札口へと向かう二人。
これから謙悟と冴霞は、初めての二人だけの旅行をする。冴霞にとって生涯ただ一度のイベント――――高校卒業の、卒業旅行を。
Graduation Travel 〜La route qui continue au futur〜
Une etape A
「謙悟くん。終了式が終わったら、旅行に行きませんか?」
一か月前の二月十四日。謙悟の部屋で冴霞がそう言い出したのが、そもそもの始まりだった。謙悟は炬燵の上に広げていたノートにシャープペンを置き、
冴霞が入れてくれていたチョコレートコーヒーを一口飲む。
「旅行って……なんか、いきなりな話だな。どうして急に?」
「前々から考えてはいたんですけど、なかなか忙しくて言いだせなくて。……はっきり言ってしまえば、卒業旅行です」
年が明けてから、冴霞は来る特待推薦試験の準備と、また卒業式の準備にも追われる身でもあった。彼女の経歴から卒業生代表・答辞に任命されることは
避けられず、一月末の試験以降は式次第の打ち合わせにまで参加する羽目になっていた。試験も終わり、基本的に学校に出席する必要のない三年生であり
ながら、冴霞の出席日数は在校生のそれとほぼ同等だったというのだから驚きだ。
そんな事情も相まって、謙悟とゆっくり過ごせるようになったのは本当に最近になってからだった。とはいえ謙悟はまだ二年生であり、学年末テストを
控える身でもある。成績は徐々に右肩上がりに上昇してきたが、それでも上位五十番台に食い込めるかどうかは微妙といったところだ。
なので、久し振りのデートは謙悟の部屋での勉強会。冴霞大好きっ子な謙悟の妹である麻那は母・陽子と一緒に台所で夕飯の支度をしている。既に謙悟と
冴霞の関係は、双方の両親が認めるものとなって久しく、またお互いに気が合ったのか陽子と冴霞の母・悠香はたまに会ったりもしているという。
閑話休題。
「卒業旅行、か……でも、クラスのみんなとそういうの、しないのか? あとは……来栖とか、間宮さんとか」
「クラスでは、そういう企画はなかったんです。それに、正直そこまでするほど仲の良いクラスでもなかったですし。彩ちゃんたちと行こうかとも考えた
んですけど……もしそうだとしても、やっぱり私は謙悟くんを誘いますよ?」
クラス内の事情云々に関しては触れることは出来ないが、後者に関しての冴霞の言葉は、謙悟としても恥ずかしながら納得のいくものだった。謙悟との
関係は彩乃も巴も知るところだし、彼女たちも謙悟のことはちゃんと認めてくれている。彩乃に関しては未だに反発の視線を向けられるが、夏休みの頃より
かなり親しくなった。親友二人が反対しない以上、冴霞が謙悟も含めてどこかに行こうと言えば、民主主義に則った採決で可決されることは目に見えている。
しかし――――
「女の子三人に、男一人って……かなり辛いんですが……」
世の男子諸君から大ブーイングが飛んで来ること間違いなしの意見を述べる謙悟。だが冴霞はくすくすと笑いながら、謙悟の方に近づいた。
「だから、謙悟くんだけ誘うんです。それに……彩ちゃんと巴ちゃんには悪いですけど、私は謙悟くんと二人きりで旅行したいから……」
優しさの奥にほのかな憂いを滲ませる紺青の瞳。そのまぶたに掛かる黒髪を謙悟はそっとかき上げ、やんわりと微笑みを向ける。
「そうだな。俺も、どうせ出掛けるなら冴霞と二人が良いよ。……来栖には間違いなく、邪魔されるだろうし」
「もぅ。そんなこと言うと、彩ちゃん怒っちゃいますよ?」
「それは、もう慣れたよ」
二人揃って笑い合い、机の上に置いていた小箱に手を伸ばす冴霞。中には冴霞お手製の生チョコが詰まっており、彼女の指がそのうちの一つを摘みあげる。
二月十四日。恋人たちが愛を誓う日。日本では曲解によりチョコレートを手渡すことが慣習とされており、冴霞は生まれて初めて、家族以外の異性の為に
チョコレートを製作した。無論彼女が苦手な酒も少量入っているが、かなり控えめにされている。なので――――
「んっ……っ」
「っぅ…………ぷは」
とろけたチョコレートと唾液が混ざりあった粘っこい架け橋が、二人の口を繋ぐ。それが落ちる前に冴霞は手のひらを下に置くが、それも彼女の理性が
許したわずかな暇(いとま)だけだった。置かれたはずの手はかき抱くように謙悟の頭に回り、すぐさま二度目の口付けを交わす。謙悟もその求めに応じ、
炬燵布団を跳ね除けて距離を縮め、長い長いキスをする。
実に一か月以上、謙悟と冴霞はキスはおろか手を繋ぐ回数も数えるほどしかなかった。互いのためと割り切っての時間だったとはいえ、今はこうして手を
伸ばせばいつでも触れあえる場所にいる。だからだろうか、一度燃え上がった炎は簡単には鎮火せず、冴霞は炬燵に潜り込むと謙悟がいる場所にまで移動し、
ひょっこりと頭を出して、そのままゆったりと謙悟の首に両腕を回した。
「……旅行、今から楽しみだな。どこに……んっ、行こうか?」
「ちょっとだけ、っ……遠出、したい……です、ぅん……」
火傷しそうなディープキスではなく、ついばむようなバードキスを交わしながら会話する二人。いくらかの余裕が許される代わりに、回数を多くこなす
事が出来る。会えなかった寂しさ、触れあえなかったもどかしさ、そのどちらもを埋めていけるように繰り返される行為。その甘美な一時を堪能しつつ、
冴霞は机の上から先ほどの小箱を取った。
「はい、謙悟くん……ん……」
口唇だけでチョコレートをささえ、謙悟に食べてもらおうと突き出す。謙悟はそれを抵抗なく口唇に咥えようと――――
「おにいちゃん、おねえちゃん! ご飯できたよ〜!!」
ノックもせずに部屋のドアを開け放ち、突如現れた闖入者。言わずもがな、謙悟の小さな妹・新崎麻那である。
「「ま、麻那!?」ちゃん!!?」
咄嗟に離れようとするも、同じ場所に収まってなおかつ抱き合っている謙悟と冴霞は、簡単には距離を置くことが出来ない。だが麻那はそんな二人の異状
など理解できずに、とてとてと兄のもとに歩み寄ると、冴霞が持っているチョコレートをじっと見つめた。
「チョコレート……おにいちゃんとおねえちゃんだけずるい! 麻那にもちょうだい?」
「あ、え、……あ、ああ。いいぞ? なぁ、冴霞?」
「あ、は、はいはい。えっと……麻那ちゃん、お口開けてください?」
先ほどまで咥えており、そして偶然にも小箱に落ちたチョコレートを探し当て、麻那の口に運ぶ冴霞。麻那は小さな口を「あ〜ん」と開けて、まるで雛が
親鳥から餌をもらうような無防備さで、冴霞からチョコレートを与えられた。
「ん〜〜、おいし〜〜」
もぐもぐと口を動かしながら、見ている方が溶けてしまいそうな甘ったるい笑顔。その間に謙悟は炬燵から這い出して、冴霞も炬燵から抜け出す。
「麻那、今日の晩御飯は?」
「んぅ? ……おなべだよっ! お母さんね、もうすぐ来るから待っててねって!」
「……またこの部屋でやるのか。いい加減、普通に下で食べた方が片付けも楽なのに」
「仕方がないですよ。だって謙悟くんの部屋にしか、炬燵がないんですから。やっぱりお鍋といえば、炬燵ですし」
その理屈はおかしい、と突っ込もうとした謙悟だが、さらに闖入者が現れる。両手にコンロと鍋、そして鍋の中に三段重ねで野菜・肉・豆腐・その他を
抱えてきたのは、謙悟と麻那の母である新崎陽子だ。陽子は後ろ向きのまま足で部屋のドアを閉めると、炬燵のすぐ横に材料を置いた。
「ふぅ。麻那、謙悟の冷蔵庫から水出して。ほら、謙悟もさっさと炬燵の上を片付けなさい。冴霞ちゃんもお手伝いしてもらえるかしら?」
「はい、お母様」
言うが早いか、冴霞は机に乗っている参考書・プリント・ノートを一まとめにし、謙悟の部屋にある本来の勉強机の上に置いた。普段は使われておらず、
物置程度の役にしか立っていなかった勉強机だが、謙悟が真面目に勉強に取り組むようになってからは整頓され、今は綺麗に片付いている。
「ったく……」
渋々ながらも机を拭き、具とコンロを一旦分けて設置し、あらかじめロックするだけにされていたガスボンベをセットする謙悟。一連の手際は慣れたもの
で、これまでにも何度か謙悟の部屋で鍋をした経験がある事を伺わせるものでもあった。
実際、これまでにも冴霞とこの部屋で食事をしたことはある。この部屋で朝食や夕食を取ったことも、また今のように―麻那と陽子を交えて食事をした
ことも。そんな積み重ねから、冴霞はすっかり新崎家の一員になりつつあり、元々冴霞を気に入っていた陽子はますます冴霞に惚れ込み、久し振りに訪れた
彼女を、麻那以上に歓迎していた。
ふと視線を感じて冴霞を見ると、彼女はにこっと微笑んで少しだけ口唇を動かした。読唇術など使えない謙悟だが、言いたいことは伝わっている。
――――あとで、ゆっくり決めましょうね。
謙悟は浅く頷いて、食事が終わったらパソコンでいくつか検索をしてみよう、と考えた。