電話が鳴ったのは午後も五時を過ぎ、徐々に陽の陰りが出始めた時間だった。夏の太陽はまだそれなりに高い位置に残っているが、
あと一時間もすれば西の空へと消えていくだろう。
「はい、新崎です」
自室の子機を取り、電話に出る謙悟。その様子を、対面でノートを広げていた冴霞は黙って見ていた。
遅い昼食の後、ただ遊びに来るだけでは悪いと思った彼女は謙悟の宿題の手伝いをしていた。もちろん全てを手伝うことはせず、彼が
質問してきた箇所に、出来るだけわかりやすいヒントを与えるだけに止めている。やれと言われればこれまでの時間で全ての問題を完全回答
することも出来る冴霞だが、そんなことをしても何の意味もないし、そもそもこれは謙悟の宿題である。冴霞が手を出していい道理は
どこにもないのだ。
『もしもしぃ、謙悟?』
「なんだ、母親」
無愛想にもほどがあるその呼び方に、頬杖をついていた冴霞は思わずずり落ちそうになった。
「(謙悟くん! お母さんにそんな!?)」
視線のみで抗議するが謙悟は手で冴霞を制し、会話を続ける。
『実はねぇ、急に当直になっちゃったのよ。若い子がまとめて休みとっちゃった上に、救急の方も人手が足りないらしくってねぇ。だから
悪いけど、晩ご飯はいつもの所から出してもらえる? 一応、大二枚入ってるから』
それなりに急を要する用事のはずが、母の間延びした声のせいで今一つ緊張感に欠けるのは、いつものことだった。
謙悟と麻那の母・新崎陽子は普段はおっとりしており、また緊急時にも変わらずマイペースを貫く女性である。その相乗効果で動きが鈍い
というイメージが付随しがちだがそれはまったくの誤解であり、上司である吉井一美看護師長をして、「彼女ほど冷静で的確なマイペースは見たことがない」
とまで言わしめるほどだという。その性格もあってか彼女は多くの医師・看護師・患者に信頼されている。
「大二枚ね。寿司でも食うか」
『いいけど謙悟ぉ、無駄遣いは駄目よぉ? あと、ちゃんと麻那をお風呂に入れてね? 夏場なんだから』
「わかってるって。帰りは明日の昼?」
『そうねぇ。出掛けるならちゃんと麻那も連れて行くこと、いいわね?』
「はいはい、じゃあな」
ピッと通話ボタンを押して会話を終える。まだ何か言いたそうにも思えたが、どうせ麻那のことだというのは分かっている。
両親は傍目に見ても十二分に分かるくらいに麻那を溺愛している。念願だった女の子の誕生と、十年ぶりの子供ということもあるのだろう、
その愛情は文字通りに溺れてしまいそうなほどだ。
謙悟は正直、そういった両親の態度に辟易していたが、兄として妹が可愛いというのもまた事実である。
なんのことはない、謙悟も結局両親と同じく麻那が可愛くて仕方がないのだ。ちなみにこれまで麻那に手を上げて怒った事は一度もない。
それは当然麻那が女の子であるということもある。だが子供を躾ける際にただ手を上げるだけを躾と言うのは大きな間違いである。
善悪の観念は個人によって曖昧になる所もあるが、絶対的なルールというものは必ず存在する。それをしっかりと教え込み、また幼いうちから
理解させておけば、そもそも浅はかな暴力によって傷を負わせることなく、歪みのない教育を身に着けることが出来る。もちろんそれで全てが
解決されるわけではなく、必要に迫られれば多少痛みの伴う教えも与えなければならないが――――今のところ、麻那にはその必要がないくらいに
純粋かつ真っ直ぐな成長をしている。
それはさておき。
「謙悟くん、お母さんにあんな呼び方をするのは、私はどうかと思います!」
子機を充電台に戻した謙悟に、前のめりになって抗議する冴霞。しかし謙悟は
「冗談みたいなものだろ。家族のコミュニケーションだよ」
「で、でも……うぅ……」
そう言われると黙るしかないが、やはり釈然としないのは事実である。感情は自然と顔に出てしまい、謙悟はやれやれといった感じで溜め息をついた。
「冴霞はお袋さんのこと、なんて呼んでるんだ?」
「それは、普通にお母さんとか……冗談で、下の名前で呼んだりもします。父が母を下の名前で呼びますし」
「それと同じだ。仲が悪いとか、嫌ってるとかじゃないんだから」
「ならいいんですけど……」
姿勢を正し、足を崩す。謙悟も電話がかかってきたことで集中力が切れたのか、開いていたプリントの束を裏返した。
「とにかく、晩飯。お袋が帰ってこないから、何か出前でも頼もうかと思うんだけど」
「あ、よかったら私が作りましょうか? お金使うのももったいないですし」
「いや、時間的にキツイから」
昼食からまだ二時間弱。夕食の支度はまだまだ遅くても構わないし、空腹にはほど遠い。麻那など食べ過ぎて今は謙悟のベッドで寝ているし、
そもそも冴霞を送っていかなければならない。
「あんまり遅くなると、親が心配するだろ。一人娘なんだし」
「……それは、そうですけど」
だが本音は違う。せっかく謙悟の家に来て、麻那と仲良くなって、一緒に昼食を取って、宿題をして。
これ以上を望むのは、悪い気も確かにあるけれど。
冴霞の気持ちは、想いは――――陽子が帰ってこないという決定打で、半ば決まってしまったようなものだった。
「母に電話します。謙悟くん、ごめんなさい」
「ああ、いいぞ」
傍らに置いていた携帯電話を操作し、自宅の短縮を呼び出す。そして三コールもしないうちに、冴霞はすぅっと息を吸った。
『はい、今村でございます』
「冴霞です! お母さん、今日はお友達の家で
勉強会をすることになりましたので泊まりに
なりますから晩御飯と朝御飯は結構です!!」
生徒会長として壇上で演説する時以上の大声を張り上げて。
今村冴霞は生まれて初めて、『友人の家に泊まる』という嘘をついた。
B&G MEMORIAL of SUMMER
BOYS and GIRLS in
06.きみを大切に思うのなら
「……なに考えてんだ、あんたは」
怒られるとは思ってはいた冴霞だが、謙悟は思いのほか冷静な調子でそう切り出した。
「勉強会なんて嘘ついて、しかも泊まるって何だよ……」
「ごめんなさい……でも、さっきちゃんと断りましたから。謙悟くんもいいって言ったじゃないですか」
「はぁ?」
怪訝そうな顔で聞き返す。謙悟の記憶の範囲では、冴霞が泊まることを許可した覚えはどこにもないはずだ。
「ほら、私が電話をかけるときに」
――――謙悟くん、ごめんなさい。
――――ああ、いいぞ。
「不当だ!! 誰がどう聞いても、引っ掛ける気まんまんの罠じゃねえか!!」
「正当です!! 私はそういう意図を込めて言ったんです! 謙悟くんもそれに同意してくれたじゃないですか!!」
「同意した覚えはない!」
「政治家みたいな答弁はやめて下さい!!」
最初の冷静さはどこへやら。冴霞の策に知らず引っかかっていた謙悟はしかし、その言い方は卑怯だと拒否し。
かたや冴霞も、一度は同意したはずの謙悟の言葉を反故にされまいと抗弁を続ける。
どちらが悪いかと言えば、どちらも悪い。冴霞の言い回しは確かに巧みではあるが、それを読み取れる人間などおよそ彼女以外にいないだろう。
無論、謙悟も悪い。冴霞が今日ここに来たのは、謙悟との時間を過ごすためだ。ならば泊まって行けとまでは言わないにしても、せめて
もうしばらくは彼女の気持ちを汲んで、一緒にいられる時間を作ってやる努力をするべきだった。
だがそれらは全て後の祭り。既に生まれてしまった齟齬は拡大し、両者の間に溝を作ってしまった。
「いいから、今日はもう帰れ! バス停まで送るから!」
「結構です、謙悟くんがそんな狭量な人だなんて思いませんでした!! 一人で帰ります!!」
上着を引っつかんで、乱暴にドアを開け放ち、叩きつけるように閉める。
去り際にわずかに冴霞の視線を感じたが、謙悟はそれを無視してベッドに座り込み――――ガツンと自分の頭を殴りつけた。
「ああ、くそっ……何やってんだ、俺……」
頭の奥まで抜けるような痛み。だがそれ以上に、胸が痛い。
予想はしていた。だがそれはもしかしたらという程度の、あくまでも可能性の一つとしての予想だ。
冴霞が今日、謙悟の家に泊まりたいと言うかも知れないというのは、昼食の段階から実は予想出来ていた。母が帰ってこないという話と、夕食の話。
そして夕食の後に少し余裕が出来たら、本当は謙悟のほうから誘うことも考えていた。その覚悟のための時間が欲しかったというのも事実であり、
同時に言い訳でもある。
だが、あんな風に不意打ちで言われるのは……情けないではないか。
結局、『また』彼女から言わせてしまったのだ。
好きだということも、本当は自分から言いたかった。だがその勇気が足りず、結局は冴霞の告白に乗る形での告白になってしまった。
対等な付き合いをしていると思いつつも、その思いは常に謙悟の中に沈んでおり、どこかで冴霞に対して引け目を感じていた。
それでなくとも冴霞の放つ光は眩し過ぎる。彼女の気持ちは常に純粋で、淀みがなく、どこまでも真っ直ぐだ。そんな冴霞を羨ましいと思った。
何故ならば。
あの日以来、謙悟は異性との交遊に対して、そして恋愛に対して。
二度と裏切られることの無いようにと、とても臆病になって――――。
「!!」
再び拳で頭を殴りつけ、記憶の影を振り払う。
それはもう終わったことだ。そして、『アイツ』と冴霞はまったく違う。それどころか今は逆じゃないか。
今、俺がしようとしていることは『アイツ』と同じだ。見せかけばっかりで相手を騙して、自分の良いように動かそうとしてる。
そうして傷つける。何も知らない冴霞を、あの時の『アイツ』のように。
俺は違う。違ってみせる。俺のくだらない誇りなんかで、冴霞を傷つけるなんて事はしない。
立ち上がる。足を動かし、ドアを開ける。
何分が過ぎただろう。冴霞はもう家を出て行っただろうか。それどころか、もう家の側にはいないかも知れない。
それでもいい。追いかける。手放したりしない。
俺は、冴霞を傷つけたくない。そして裏切りたくないから。
階段を下りて、玄関に向かう。だが一歩を踏み出すことが出来ない。
何故なら。
「…………冴霞」
彼女はそこで、立ち尽くしていた。
「……いんです」
「え?」
小さな呟き。聞き取れなかった謙悟は反射的に聞き返す。
「……私の足、動かないんです……。帰ろうって思ってたのに、言うこと、聞いてくれないんです」
「……」
「道はちゃんと覚えてます。謙悟くんの家から、バス停までの道はちゃんと。その通りに歩けば私は帰れる。お母さんには電話して、お泊りはナシに
なったって言うだけ。でも、それも出来ないんです……だって」
声が、震えていた。
いつも良く通る、耳に心地良い声が。
「だって、私は……謙悟くんが来てくれるって、信じてた、から……」
理由などなく、衝動に突き動かされるまま。
謙悟は冴霞を振り向かせて、強く抱きしめていた。
「ごめん……俺が、馬鹿だから」
「っ……私も、ごめんなさい……っ、ワガママばっかりで、謙悟くんに、甘えて……」
抱擁を緩めて、互いの顔を見合わせる。声でも分かっていたが、冴霞の瞳には大粒の涙があふれそうに浮かんでいた。
「泣くなよ。冴霞は悪くないんだから……」
指で涙を掬い取る。だがそれだけでは不十分だった。冴霞の涙は止まらない。
「謙悟くんに迷惑をかけたくない、でも甘えていたい、矛盾してるのは分かってる、でも、どうしようもないんです……今だって、ずっとこうして
抱きしめていて欲しいって、思ってる……っ!」
今まで、異性に対して恋愛感情どころか興味すら抱かなかった冴霞にとって、謙悟はおそらく初恋に等しい存在だろう。そしてそんな相手と相思相愛の
関係に至った彼女が甘えてしまうことを、どうして責められるだろうか。
「冴霞、もういいから。泣かないでくれ」
もう一度涙を拭う。その涙を、泣き顔を見るたびに胸が痛くなる。
泣き顔を見たくないという謙悟の気持ちは変わらない。だが今冴霞が泣いている原因は、間違いなく自分のせいだ。
冴霞はワガママだと言った。だがそれは本当にワガママだろうか?
叶えられない願いを叶えろと言うのならば、または叶えられるとしても負担の大きな事柄ならば、それは確かにワガママと言えるだろう。
だが、今回のことはどちらでもなく、謙悟が少し手を伸ばせば届く程度の事だったはずなのだ。
そして――――今からすることも、本当はもっと早くに手が届いていたはずの、ささやかな、それでいて何よりも大切な事。
「んっ――――」
温もりが伝わってくる。しかしそれとは逆に、今まで荒れ狂っていた冴霞の感情の嵐は静かに治まり、緩やかに落ち着いてゆく。
暖かさは口唇から。ぎこちなく重ねられた謙悟と冴霞の、生まれて初めての異性との口付け――――文字通りのファースト・キス。
流れる音はわずかに聞こえる蝉の声と、夏のそよ風が緑の葉を揺らす静かなさざめき。そして緩く穏やかな、二人の心音。
三秒、四秒と時が過ぎ、十数秒が経過したところで、謙悟はゆっくりと口唇を引き、冴霞との距離をゼロからプラスに戻す。
「っはぁ……悪い、苦しかった?」
「ふぇ……? ぁ、ぇと……ちょっと、だけ……」
「ごめん、その……初めてだから、どれくらいで放していいのか、よく分かんなくて」
「は、はぃ……私も、初めてでした……、キス、するの……」
互いの鼓動が高鳴る。今までに一度もしたことがない初めての行為。まごう事なき愛情を示す、口唇へのキス。
「謙悟くん、私……さっきすごく、恥ずかしいこと言っちゃいました……」
「うん。分かってる……でもな、これから俺が言うことの方が、もっと恥ずかしいと思う」
離れた距離をもう一度縮める。息遣いさえ聞こえるその近さで、謙悟はゆっくりと呼吸を整えて。
「今日は、冴霞に帰って欲しくない……泊まって、行っ」
声になって聞こえたのはそこまでだった。言葉は冴霞の柔らかな口唇の感触に遮られ、もう言わずとも十二分に伝わっていた。
互いの背を掻き抱くように、強く熱く抱きしめ合い。
二度目の口付けは、一度目よりも長く、そして少しだけ深く――――。
「ん〜、おにいちゃ〜ん?」
びくうっ! と肩を震わせ、冴霞と謙悟は互いに距離を取って階段を見上げる。階段の半ばにはいつから目を覚ましていたのか、麻那が眠そうに
目を擦りながら手すりを使って一歩ずつ降りてきていた。
「な、なんだ? もう起きたのか?」
「ま、麻那ちゃん、もう少し寝ててもいいんですよ?」
「いい……もう寝なぁい……くぁ」
大きな欠伸のあとに、にっこりと天使の笑顔を浮かべる。だがそれは、ようやく口付けにまで辿り着いた二人にとっては、ある意味悪魔以上に
強大かつ殺人的な、無自覚の障害だった…………。
「はい、じゃあ……一時間くらいですね。分かりました、よろしくお願いします」
受話器を置いて通話を終える。電話の相手は寿司屋であり、予定通り今夜の夕食は寿司となった。
ただし、麻那はまだ魚介類があまり好みというわけではないので、彼女だけはセットの中からいくつかのネタを除外し、そこにまた別の物を
追加するという少々手間のかかるオーダーとなっている。ちなみに謙悟と冴霞は特に海産物で好き嫌いはないので、二人とも特上寿司である。
「わざわざ特上だなんて、もったいないですよ?」
「いいんだよ。たまにしか頼まないし、少しくらい贅沢したってバチは当たんないさ」
冷蔵庫からコーラを取り出し、食器乾燥機にかけておいたグラスを三つ取る。そこに冷凍室の氷を適当な数だけ放り込んで、コーラを注ぎ込む。
「ほい。ほら、麻那も」
「ありがとうございます」
「いただきまぁす」
ソファーに腰掛けている冴霞と麻那にグラスを手渡し、謙悟は食卓の椅子にどかっと腰掛けた。
新崎家のリビングは一戸建てとしてはそれなりに広く、十八畳もある。さすがに大勢を呼ぶ事は出来ないが、五、六人程度なら問題なく収まる
広さであり、逆に言えば彼ら三人では少々持て余してしまう。
時刻はまだ六時をようやく回ったばかり。こちらの無理なオーダーもあり、寿司が届くのは一時間もあとだ。
「ちょっと早いけど、麻那、風呂入ろうか」
「けぷっ……ぅん! おふろ入る」
炭酸飲料を飲んだせいか、麻那は小さなげっぷをする。
「麻那ちゃん、いつもおにいちゃんとお風呂に入ってるんですか?」
「うん! おかーさんがいない時は、いつもおにいちゃんと入るの!」
十も歳の離れた兄と妹ならば、その事実は何ら不思議なことではない。もっともそれが続けられるのは麻那が十歳になるくらいまでであり、時期が
来れば逆に麻那の方から、謙悟や父、母と一緒に入るのは嫌だと言ってくるだろう。
「……謙悟くん、私が麻那ちゃんと一緒にお風呂に入ってもいいですか?」
「え? 別に俺は構わないけど……麻那はどうする?」
「いーよぉ、おねえちゃんといっしょでも。おにいちゃんはいっしょに入らないの?」
不意打ちの爆弾発言。赤面する冴霞とは逆に、謙悟は妹の頭を優しく撫でる。
「ああ。麻那には冴霞おねえちゃんのこと、もっと好きになってもらいたいからな」
麻那の兄として、そして冴霞の恋人として。
大切な二人が、自分を介することなく親しくなれるのならと、謙悟は優しく微笑んだ。
あとがき:
予定ではこのまま風呂編に続く予定でしたが、あまりに長くなりすぎるため
キリのいいと思われるところでカット。しかしそれなりに甘めに仕上がったので良しとしておきましょう。
ようやく交わした口付けとともに、わずかに見え隠れした過去の影。
謙悟の過去になにがあったかは、後々明らかになっていきます。