いつからだっただろう、彼に惹かれはじめたのは。

 最初は少し怖かったのも確か。だが話してみれば、彼はどこにでもいる普通の男の子だった。

 でも、他の誰とも違ったことが一つだけある。

 彼は、私のことを役職ではなく、一人の先輩として扱ってくれた。

 生徒会長というのは、学校に一人しかいない。それは自身を指す固有名詞であるということも出来るし、事実任期が満了するまではそう。

 だけど彼は二百人近くいる『先輩』と同様に、自分のことを『会長』ではなく『先輩』と呼んでくれた。

 そこに深い意味があったのかどうかは、正直分からない。彼自身もその基準は特になかった、と後に語ってくれた。

 けれど、その呼称から。

 彼に……新崎謙悟くんに少しだけ、興味と好感が持てたことは間違いない。

 三年生で生徒会に籍を置くことは珍しい。自分もまた、生徒たちからの支持がなければ、本来は前期の生徒会長に就任するつもりはなかった。

 しかし全校生徒の七割以上が支持してくれたとなれば、それを無碍に断ることなど出来るはずもなく。

 私は前期生徒会で唯一の三年生として、再び生徒会長の任に就いた。

 だから、生徒会で『先輩』と言えば必然的に私以外に該当する人間はいない。しかし他のメンバーは蓮見くんを始めとして、全員がやはり私を

『会長』の呼称で呼ぶ。

 それは……私にとっては孤独だった。

 例えるなら、それは世界で一番有名な仮面の名前を呼ばれているようなもの。

 仮面の下に本当の顔があり、その顔につけられている名前が本当の名前。皆はその顔の名前をどこかで知っていながら、それでも有名な仮面の

名前のほうを呼び続ける。それが当たり前であり、また誰にとっても理解しやすいから。

 だけど素顔の私を、誰も呼んではくれない。

 彼以外は、決して。

『――――先輩』

 それも固有名詞ではない。けれど『会長』と呼ばれるほど苦しくはない。

 集団の呼び名。それは特別であることを捨てる代わりに、大勢に溶け込むことを許された呼び名。

 彼ならば、もしかしたら。

 私を私として。『会長』ではなく『今村冴霞』として呼んでくれるのではないか。

 そんな期待があった。だから、彼を守りたいと思うようになった。

 きっとこういうのを、『好き』とは言わないのだとも思う。これは明らかに打算だし、彼を利用しているだけだとも理解している。

 ――――だけど。そう、だけど。

 私はただ打算だけで、彼と昼食を取っていただろうか。

 ただ打算だけで、すれ違いざまに挨拶をしただろうか。

 ただ利用したいからというだけで、何の関係もない彼に生徒会の手伝いを頼んだだろうか。

 彼といるのは心地よかった。

 週に一度だけの食堂での昼食が、いつの間にか楽しみになっていた。

 早く会いたくて、時計の針が進むのを遅く感じたのはいつからだろう。

 資料室の荷物が崩れやすいくらい危うい整列をしていると知りながら、彼に手伝いを頼んで。

 今まで積み重ねていた重みを、聞いてもらって。

 心が軽くなったから、いつの間にか本音を言うことにも躊躇いがなかった。

 生徒会に誘ったのも、ただ謙悟くんの立ち居地を回復させるだけのものではなく。

好きだから。私の側にいて欲しかったから。

 受け入れてもらえて、答えをくれて。

 ぎこちなくてもちゃんと、私を名前で呼んでくれて。

 それだけで、もう何年も開いていなかった私の涙腺はあっさりと決壊してしまった。

 

 そして……なんというか、抑えていたのは涙だけではなく。

 どうやら私は、随分とひどい依存症だということも露呈してしまったようで……。

 

 

B&G MEMORIAL of SUMMER

BOYS and GIRLS in Seaside Vacation

 

05.抱える思い、寝台の告白

 

 

なんと言っていいんだろうか、この状況は。

 ちょっと横になるだけのつもりが、いつの間にか眠ってしまったということはちゃんと分かる。早起き続きで眠い麻那が、甘えて俺の隣で寝るのも、

まぁ理解できないことじゃない。

 だけど、もう片方。俺の左隣で眠ってるこの人は、一体いつの間にここに来たんだろうか。

「……お〜い」

 呼びかけるが反応なし。起きる気配はまったくなく、左手をがっちりホールドされている。動かそうにも、冴霞の手はしっかり俺の手首から先を

握りこんで離してくれない。なんとか動かせるのは指くらいのものなんだが、その……位置が、非常にマズイと言うか。

「……ぅんっ」

 指先が触れる先にあるのは、あろうことか口唇。薄いのにしっとりと柔らかく、弾力のある、今まで触れたことのない場所。

 ……付き合い始めてまだ一月も経っていない俺たちは、未だに口唇にキスをした事は一度もない。それが遅いのか早いのかはよく分からないが、

俺としてはまだ早いんじゃないかとも思ってる。だけど指先で触れた感触はこれまで唯一キスしたことのあるほっぺたなんて比較にならないくらい

魅力的で、誘惑的で……いままでにないくらい冴霞の事を強く意識させられるし、なにより俺らしくない考えが頭の中を駆け巡る。

 ストレートに言ってしまえば、それは情欲とでも言うべきもの。男が女を欲しがる、本能に忠実な欲望。

 でも、そんなのは駄目だ。自分で言うのも正直恥ずかしいが、俺は冴霞を大切にしたい。

 いつも格好良くて、頭が良くて、みんなの憧れだって言われている今村冴霞という存在。俺も少なからず彼女に憧れている人間の一人だった。いや、

今でも憧れは続いてる。

 だけどそれは上辺だけの顔だった。本当の彼女は、きっと他の誰とも変わらないくらいに弱くて、儚くて、壊れやすい脆さを持ってる。

 それに気づいたのは、朝岡との一件があってから少し後のことだった。

 答えは、単純に呼び方。

 俺は特に意識していたわけじゃないが、他の連中は大抵が冴霞のことを『会長』って呼んでる。確かに生徒会長は冴霞一人しかいないし、俺も会長

っていう単語を耳にすればすぐに冴霞を連想するし、やっぱり俺の中にも『今村冴霞=会長』の図式があったことは間違いない。

 だけどその度に、冴霞はどこか寂しそうな表情をすることに気がついた。

 もちろん、すぐに気がついたわけじゃない。気づけたのは一緒に昼飯を食べるようになって、話をするようになってから。

普段から人当たりのいい笑顔を浮かべていることが多かった冴霞だけど、一緒に食事をしてる時の笑顔とは、その質がまるで違うことに気づいた。

クラスメイトの秋月も言っていた。俺といるときの冴霞は楽しそうに見えた、と。

それが本当なら、冴霞にとって心休まる場所はもしかしたら俺と一緒にいる時だけなのではないか、と自惚れることもあった。

そして俺自身彼女の笑顔に惹かれていることも、この時初めて気がついた。

自覚してしまえば認めるのは簡単だった。俺は間違いなく冴霞の笑顔が好きなんだ。それも周りのための笑顔じゃない、自分自身が楽しくて笑っている、

そんな笑顔が。

その為に俺が必要だっていうのなら、俺は冴霞の力になろうと思っていた。最初はやっぱり単純に感謝の意味から。朝岡との一件を取り成してくれて、

俺が停学になるかもしれない窮地から救ってくれた彼女への感謝と恩義。

 だけど理由はそれだけじゃない。

 冴霞は、俺を守りたいといってくれた。生徒会に俺を引き入れて、自分の側において、短い期間でも俺の立場が良くなるようにと。

 そして、俺といる時間を――――楽しいと言ってくれた。

 なら、俺はどうしたい? 俺が冴霞のために出来ることは?

 そして何より、俺自身の冴霞に対する気持ちはどうなんだ?

 そんなものはとっくに決まっていた。

 面と向かってじゃ恥ずかしくて言えないけど、俺は冴霞が楽しくて笑ってるところを見ていたい。

 そして、もっと突き詰めて本音で言ってしまえば、俺は冴霞が好きなんだ。

 冴霞が辛そうにしてるのは見たくない。回りの期待や憧れ、そして疎外されてる呼び名に傷つけられて、上っ面の笑顔の下で辛い表情を押し殺している

冴霞の痛みや重みを軽くしてやりたい。だから生徒会に入って、冴霞の側にいることを選んだ。

 本当は甘ったれで、傷つきやすくて、怒りっぽい女の子。それが本当の今村冴霞。こんな俺でも大切にしたいと思える、強くて弱い人。

 その冴霞を自分から傷つけるなんて真似をどうして出来るだろう。一時の欲に身を任せてしまえば、それは俺自身を裏切る以上に冴霞の心を傷つけるだけ。

 なら俺が取るべき行動は……考えるまでもないだろう。

 

 

 

「……さえかー……こら」

 ぐに、と口唇を指で押し上げる。痛みなどほとんどないはずの攻撃だが、冴霞はそれだけの衝撃でうっすらと目蓋を開く。

「ふっゃ……?」

「……なんだ、その発音は」

 なんとも再現しがたい声を上げたかと思うと、冴霞は謙悟の指を自分の手で包み込み、口唇から遠ざける。

「変なことしないでくらさぁ……あふ。……おはようございます」

 控えめな欠伸。挨拶とともにゆっくりと上半身を起こし、相変わらずの長く美しい髪を梳き上げる。夏場ともなればその重さで見ている者も

持ち主もかなり熱そうな印象を受ける黒髪だが、波打つ様は逆に文字通りの水の流れを感じさせ、どこかしら涼しげにも見えるという不思議さがある。

「おはよ。今、何時?」

「えっと……一時過ぎです。三時間近く寝てましたね」

「つーか、何で冴霞が俺の家にいるんだっけ?」

「いつでも来ていいって言ったのは、謙悟くんじゃないですか。なのに出迎えるどころか寝てるだなんて……失礼だと思いません?」

「いや、せめてアポとってくれよ。俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」

「…………あ゛」

 今更気づいた、とばかりに硬直する冴霞。謙悟は寝転がったままの姿勢から立て肘で彼女のほうに向き直り、意地悪な笑みを浮かべる。

「おばか」

「だ、だって、驚かせたかったんですから、連絡なんて取れるわけないじゃないですか! それに……」

 前のめりになって近づく二人の距離は、謙悟が少しでも手を伸ばせば冴霞の髪に触れられるほど近く、謙悟は空いている右手でくるりと冴霞の髪を

一房、指で巻き込む。滑らかな感触は人間の髪というよりも、本当に絹糸のそれに近かった。

「それに?」

「謙悟くんの家までの道を……自分でちゃんと覚えておきたかったんです」

 不意打ちのような台詞だった。それが意図することは、謙悟にも当然分かっている。

 また来たいと。今日という日が終わる前に離れるであろうこの家に、自分の足で迷わずまた来たいと。冴霞はそう言っているのだ。

 なんていじらしい。冴霞を慕う学生らが聞いたら身もだえして、恍惚の表情を浮かべたまま文字通り悶死するだろう。

「……そう言ってくれるのは嬉しいけど、出来れば次からはちゃんと連絡してくれ。予定はないけど、出かけない保証だってないんだから」

 ぶっきらぼうな調子で言うものの、謙悟の耳も頬も朱に染まっているのを冴霞は見逃してはいなかった。

 こてん、と再び横になり、冴霞の華奢な腕が謙悟の首に回る。これで謙悟は力ずくでもない限り、冴霞の拘束から逃げることは出来なくなった。

「謙悟くん、顔が赤いですよ?」

「あ……暑いから。あんま、くっつかないでくれ」

「クーラー、切ってないです。それに私、こんな格好だからちょっと寒いんですよ?」

 上着を羽織っていないキャミソール一枚。確かにそれなりに冷えたこの部屋でその格好は、傍目からでも十分に寒そうに思える。

「……つーか、よく麻那がドア開けたよな。こいつ結構人見知りする性質なのに」

「そうなんですか? でも私と麻那ちゃん、もうお友達ですから。謙悟くんの部屋も麻那ちゃんが教えてくれましたし」

「へぇ……」

 後ろ手に麻那の頭を撫でる謙悟。しかし麻那はそれが不快だったのか、ぺしっと兄の手を払いのける。

「やー……」

「やー、じゃねぇ。お前もいい加減起きろ」

「駄目ですよ、無理に起こしたら可哀想です……麻那ちゃーん、おねえちゃんとおにいちゃんとで、ご飯食べましょう?」

 するとどうだろう。麻那は冴霞の言葉に従うように起き上がり、眠たげに目をこすりながら大きな欠伸をして、ゆるゆると謙悟の上に倒れこんだ。

「ぐおっ、麻那、お前……っ」

「ごはん〜?」

「はいっ。おねえちゃんが麻那ちゃんの好きなもの、何でも作ってあげます」

「ほんとう!?」

「んがぁっ!?」

 ずしっ、と麻那の膝が謙悟のわき腹に突き刺さる。鍛えているとはいえ約二十キロの一点加重は応えるのか、謙悟は苦しげな悲鳴を上げた。

 想像してみれば分かるだろうが、それなりに鋭利かつ重量のある物体が勢いをつけてわき腹という人体急所の一部に突き刺さったのだ。ろくに

鍛えてもいない一般人ならば悲鳴どころか、声もあげずに悶え苦しむことになる。人間、本当に痛い時は声を上げることも出来ないのだから。

「きゃあっ、け、謙悟くん!? ま、麻那ちゃん、早く降りてください!!」

「う、うんっ」

 ベッドに軟着陸する麻那。そしてその小さな身体を冴霞は咄嗟に謙悟から解いた両手で受け止め、優しく抱きとめる。

「麻那ぁ……兄はすごく痛かったぞ……っ」

「ご、ごめんなさい……」

「謙悟くん、怒らないで下さい。麻那ちゃんだって悪気があってやったわけじゃないんですから」

「悪気があったら、それは最悪だ……はぁ」

 嘆息し、謙悟はぼんやりと冴霞と彼女に抱きしめられている麻那を見た。顔立ちはまったく異なる二人だが、こうして見ると歳の離れた姉妹と

言われれば信じてしまいそうなほど仲良く見える。人見知りをするはずの麻那が、あって数時間しか経たないはずの冴霞にこんなに懐くとは、

実際この目で見てもにわかには信じられない、というのが兄としての謙悟の率直な感想だった。

「麻那、なんで冴霞は平気なんだ?」

「? だっておねえちゃん、おにいちゃんのこと大好きだって言ったの。だから、まなもおねえちゃん好き! おにいちゃんは?」

「まっ、まなちゃん!?」

 裏返った声。およそ聞く機会のないであろう冴霞の驚嘆の声である。謙悟はその声に驚きつつも、妹の頭をくしゃっと撫でた。

 純粋で幼い子供には、好き嫌いに対して明確な基準がない。だが自分の好きな相手を好いてくれる人は、自分と同じ感覚を持っている人間と判断し、

その相手に好意を持つことも決して珍しいことではなく、むしろ子供として正しい判断基準である。

 麻那の冴霞に対する好意はまさにそれで、自分の好きな兄を好いている冴霞を好ましく思い、自然と懐いているのだ。

「俺も、おねえちゃんのこと大好きだぞ」

「〜〜〜〜っっっ!?」

 不意打ちのように浴びせられた謙悟の言葉に冴霞は真っ赤になって麻那を抱きしめた。麻那は突然の抱擁に驚いてじたばたと暴れるが、ニヤニヤ

しっぱなしの冴霞には幼女の抵抗など何の意味もない。そもそも体格が違いすぎる。

 その後なんとか一階のリビングに下り、昼食の支度に取り掛かっても、冴霞は思い出したようにニヤニヤしながら調理を続けるがしかし、

事あるごとに手が止まっていたため、腹を空かせた謙悟と麻那は結局午後三時過ぎに昼食にありつくという羽目になってしまった。



あとがき:

それぞれが抱える想い。謙悟と冴霞の内面は、意外と似通っていると。
そして明かされる事実。まだキスもままならない二人は、この夏のうちに進展する
ことが果たして出来るのだろうか?
ちなみに今回の功労者は、無意識の最優秀助演女優・新崎麻那(六歳)。


管理人の感想

今回の話の半分は、二人の独白みたいな形でしたね。
本編でもあまり語られていなかった、二人が互いに惹かれ合った「理由」。
相も変わらず、納得させられる描写でした〜^^
そして今回は糖度もグンと上がってましたね。・・・謙吾よ、恥ずかしくないのか、そのセリフ(笑)
まあそれで、冴霞がにやけ顔になるのなら、謙吾としては何でもないことってところかな?
麻那ちゃんのグッジョブっぷりが面白かったですw



2008.1.20