B&G MEMORIAL of SUMMER
BOYS and GIRLS in Long Vacation
「はいっ」
突然男の子から差し出された煎餅。冴霞はそれを受け取ると、恐らくは自分より年下であろう男の子を見た。
マスクに隠れて顔はよく見えないが、少なくとも一度も会った事はない。けれど初対面であるにも関わらず屈託なくまた親しげに接してくるこの
男の子に対しても、やはり心の傷は緩やかに、しかし敏感に反応してしまう。
「ありがとう……」
だが、その痛みと感謝の言葉は別だ。男の子は純粋に親切で冴霞に本を読む場所と煎餅を提供してくれたのだから、お礼を述べるのは当然のこと。
「ねぇ、傘持ってる?」
「傘?」
男の子の言葉に冴霞は首をかしげる。外は春らしい、とてもいい天気だったはずだ。傘なんて――――
「外、今すごい雨だよ」
男の子に促され、いつの間にか閉まっていた入り口に向かうと、確かに外は豪雨だった。春の天気は周期的に変わりやすいが、さすがに小学生に今日の
天気を予想して傘を持ち歩くなどということは出来ない。冴霞はしばらく呆然と外を眺めた後、なんとなく手に持っていた煎餅を口に運んだ。
「……美味しい」
「気に入ったんなら、もっとあるよ。おじいさんも好きにしていいって言ってたし」
男の子はそう言って、会計台の下から煎餅と、ペットボトルのお茶を二本取り出した。しかし冴霞は男の子が気を利かせてくれているのだ、という
ことをなんとなく察して、少しだけはにかむように笑った。
突然の雨。薄暗い古書店。お気に入りの本。そして……ちょっと小さな、優しい男の子。まるで古い童話の中のような状況。
「あの……よかったら、お話しない?」
冴霞は初めて、自分から男の子に声をかけた。
21.冴霞の過去(後編)
怖くなかったか、と言われればもちろん怖かった。
初対面の、見ず知らずの男の子。でもだからこそ、クラスメイトとは違って、自分のことを先入観無しで見てくれるのではないかという期待が、
冴霞にはあった。
実際、冴霞の評判は同学年の間ではある程度広まっていた。言うならば、さしずめ二人の女戦士に守られたお姫様。特に彩乃の態度はまさにそれで、
冴霞自身は彩乃の好意を嬉しく思いつつも、同時に申し訳ないとも思っていた。
巴もそれは感じていたようで、五年生になって所属できるようになったクラブ活動を選ぶ際に
「冴霞さ、辛いのは分かってるけど……そろそろ彩乃離れ、した方がいいんじゃない? あたしも彩乃も、いつまでも冴霞の側には居られないんだから」
と、控えめな苦言を呈してくれた。冴霞はその時は曖昧に頷くだけだったが、内心では巴の言うとおりだという気持ちが、既に芽生えていた。
冴霞とていつまでも子どもではない。自分が今置かれている状況が決して良い物ではない事は、重々承知している。月に一度のカウンセリングも、父と
母の過保護なまでの気遣いも、教師の態度も、クラスのみんなの一挙手一投足を気にするのも、全て変えてしまいたかった。
叶うことなら、彩乃のように強くなりたい。巴のように堂々としたい。誰に対しても胸を張って、怯えることなく。
「キミは……本は好き?」
投げかけた質問はごくごくありきたりな、しかし古書店という場所に手伝いに来ている男の子に対してやや失礼にも思えるものだった。
男の子は冴霞の向かいにあった脚立に座ると、口を塞いでいたマスクを顎の下にずらして。
「そうでもないかなぁ。マンガとかはよく読むけど、このお店にあるみたいな古い本は、あんまり読んだことないし。きみは?」
「私は、本を読むの大好き。あと、走るのも好き」
その答えに、男の子はやや呆気に取られたように冴霞を見た。
「走るの、得意なの?」
「うん。私、こう見えても足速いんだよ」
本が好きなのに、足が速い。それだけの情報ならばあまりのギャップに誰もが耳を疑うが、冴霞の言葉は嘘偽りのない真実だ。
確かに冴霞は心の病を抱えている。しかしだからといって、身体能力が低いと考えるのは大きな間違いである。事実、先週行われた体力測定で冴霞は
五十メートルを八秒フラットで走っていた。これに対抗できるのは本当に一握りの女子と、同じく少数の男子だけであり、彩乃と巴以外は冴霞の意外な
才能に心底驚いていた。
幼馴染みの巴は冴霞の足の速さを知っていたので、クラブ活動には陸上クラブを勧めていた。彼女自身はソフトボールクラブに所属を決めており、
彩乃は当然のことだが空手クラブなど存在しないため、巴と同じソフトボールクラブを選んでいる。クラブの決定は五月前までにしなければならない
のだが、冴霞はまだ決めかねていた。
彩乃は冴霞にも同じソフトボールクラブに所属することを勧めている。彩乃としては冴霞のことを心配しての言葉であり、冴霞もそれは理解し、また
嬉しく感じている。だが巴の言葉が決断を鈍らせていた。もしくはまったく違う選択肢として、読書クラブを選ぶということも出来る。だが読書クラブは
誰に触れ合うこともなく、少ない意見交換と感想文を書き上げることを活動内容としており、冴霞が望むような『変化』をもたらしてくれるとは、残念
ながら冴霞自身にも思えないものだった。
「キミだったら、陸上と読書、どっちを選ぶ?」
初対面の男の子に選択を委ねる。なんて自分勝手なんだろう、と冴霞は思った。こんな自分だからきっと弱いんだ。変わらなくちゃいけないって思って
いるくせに、他人任せにして……ずるい。臆病者だ。
冴霞の苦悩を他所に、男の子は少し考えた後、優しい目で冴霞を真っ直ぐに見つめた。
「僕は……どっちもそんなに好きってわけじゃないから、ちゃんとは選べないよ。どっちかって言えば陸上だけどさ、でも……きみがしたいのはどっち?」
質問を返されて、冴霞はどきっとした。
本当はどちらかを選ぶなんて、自分でもあらかじめ答えを決めていたのに、どうして男の子に選択を委ねるだなんて思ったんだろう。『変化』を求める
のなら、最初から答えはたった一つしか用意されていないことなんて、分かりきっているはずなのに。
「私は……私は、陸上……走りたい」
たどたどしい答え。すると男の子はにっこりと笑って、冴霞が抱っこしていた本からするっとリボンを抜いた。
「あっ」
「手、出して?」
言われるままに左手を差し出す。男の子はリボンを広げ、そっと冴霞の小指に巻きつけると、緩く蝶結びをした。瞬間、冴霞はいつものように発作が
襲ってくるのではないかという不安があったが――――それを易々と凌駕するくらいに、ドキドキしていた。
「おまじない」
「おまじない……?」
鸚鵡返しに聞き返す冴霞。男の子は頷いて、年齢の割に大きな手で冴霞の手を包んだ。
「お母さんから教わった、おまじない。小指にリボンをつけると幸せがきて、それを守ってくれるんだって」
男の子の割に少女趣味なことを言う少年。けれど冴霞はそれを変だと思うどころか、素敵だと思っていた。
だって、この男の子からは優しさが溢れてる。その心遣いが伝わってくる。怖いなんて微塵も思わないし、思えるはずがない。
……薄暗い店内に、ほのかな明かりが差し込んでくる。
雨足は小降りになり、雲の隙間からは春の日差しが垣間見えた。
短くも激しい雨は過ぎ去り、そして。
少女の心の雨もまた、静かに止もうとしていた。
割れんばかりの歓声が上がる。
陸上競技場を埋め尽くす大喝采。中学校陸上競技選手権大会、女子百メートル走の県予選決勝。
優勝は二連覇を成し遂げ、大会における本命中の大本命。
前評判以上の走りを見せ、また県の大会記録を更新すると同時に公式戦新記録という快挙を成し遂げた三年生、今村冴霞だった。
「今村先輩、お疲れ様ですっ!!」
一年生の女子がタオルを差し出す。冴霞はそれを受け取ると、彼女ににっこりと微笑みかけた。
「ありがとうございます、橘さん」
後輩はその笑顔に見惚れ、渡されたタオルをこれ以上ないくらいに大事そうに抱きしめる。冴霞はそんな後輩の横を通り過ぎると、応援席にいる
クラスメイト、そして彩乃や巴に向かって勢い良く手を振った。
冴霞の病は完治していた。あの春の出会い以来、他人に接することへの恐怖を克服した冴霞は徐々に行動的になり、自ら進んで陸上クラブを選択、
その中で見る見る頭角を現し、誰からも注目されるような存在へと成長していた。
世の中は優しい人ばかりではない。けれど、優しくない人ばかりでもない。
あの日の男の子からそれを学んだ冴霞は、もう彩乃と巴の支えがなくとも大丈夫だった。医師もそれを認めたのか、冴霞のカウンセリングは小学校
までで終了し、彩乃とは中学一年生以降、同じクラスにはなっていない。しかし何の偶然か、巴とだけは中学校生活三年間も同じクラスとなり、彩乃は
巴に対して密かに不満をこぼしていたという。
「やっぱり……来てない、かな」
ポツリと独り言を呟く。二年生になってから、大会に出るたびに冴霞はあの日の男の子を探していた。自分で言うのもなんだが、冴霞はそれなりに
県内では有名人になっていた。もしあの男の子が自分のことを覚えていたのなら、いつか会いに来てくれるのではないかという淡い期待を抱いていた
のだが、考えてみればそれはあり得ない事だった。
なぜなら、あの日。
冴霞と男の子は、互いに名前を知らないまま知り合い、そして名乗らないまま別れたのだから。
雨上がり、老店主が病院から帰ってくると、男の子は一言二言店主と話した後、ばいばいと手を振って帰っていった。その直後、冴霞は老店主から
店じまいの餞別にとあの古書を貰い、男の子と同じように帰宅していた。
本を読み終えて、男の子のことを店主に聞こうとゴールデンウィーク明けに『愁久堂』へと赴いたときには、店主は入院中で、店は休業中。そして
そのまま夏になり、男の子との唯一の接点だった『愁久堂』は閉店、店主も息子夫婦の住む他県へと移り住んでいた。
もう会えないのか、と思いつつ、冴霞は左手の小指を見る。
男の子がくれたおまじない、幸せのお守り。
その効果は確かにあった。あなたがくれたこのおまじないは、私をずっと守ってくれた。
「ありがとう……後はなんとか、自分で頑張ってみます」
リボンを解く。けれどそれは、男の子との決別という意味じゃなく。
大切な思い出として、ずっと大事にするための……一足早い、卒業だから。
あとがき:
変わっていくための切っ掛けはささやかなこと。しかし当事者にしてみれば、
それは大イベント。そして後になって感謝の言葉を述べられない、というのは
悲しいことではありますが、それも含めて糧になる。
しかし、これほどロマンチックでドラマチックなものはやっぱりそうそうあり得ないかなぁ。
次回は現代話に戻ります。謙悟は一体何杯水割りを飲んだことやら。
管理人の感想
トラウマの克服。その陰には、一人の少年との出会いがあった。
左手の小指にされたおまじないは、確かに効き目があったようですね。
幸せを運んでくれる・・・冴霞とって考え方が変わったというのは、間違いなく幸いなことであり、またそのおまじないは彼の存在を示す証。
そして自分一人の足で立てるようになり、その自分を励まし続けてくれた魔法から卒業する。
一連の流れが凄く綺麗だったと思います^^