B&G MEMORIAL of SUMMER
BOYS and GIRLS in Long Vacation
「ふぁ〜……ぁう」
間の抜けたあくびがこぼれる。何故かは分からないが、冴霞はさっきから異常なまでの眠気を感じていた。
時計を見れば、時刻はまだ七時を少し回ったくらいだ。夜更かしなど普段からしていないが、まだ昨夜の疲れが残っているのだろうか。しかし
それにしてもこの睡魔は唐突すぎる。普通に考えられるのは満腹感から来る眠気くらいか。そんなに食べた覚えはないのだが。
「冴霞?」
「んぅ……? けん、ごくん……?」
視界がぼんやりと揺れる。そういえば、眠たくなってきたのは母・悠香が持ってきたジュースを飲んでからだった。もしかしたらそのジュース、
眠たくなる成分が入っていたのかも知れない。うん、きっと、そうだ。じゃないと説明が――――つか、な
「…………くー」
思考が落ちる。視界も落ちる。そして手に持っていた空になりかけのグラスも、ごとんと音を立てて落ちる。しかし船を漕いで倒れた冴霞の上半身
だけは、テーブルにも壁にもベッドにも落ちることなく、謙悟の腕の中にすっぽりと収まっていた。
「寝ちゃったよ……まぁ、無理ないかな」
既にボトルは空だ。途中から謙悟は気づいていたが、今まで二人で飲んでいたのはジュースではない。
その正体は、マンゴーベースのカクテル。ウォッカとさらにオレンジを使って作られた、おそらく市販品の缶入りカクテルよりも若干アルコール度数の
高いそれは、およそアルコールに触れる機会の少ない未成年ならば容易く酔わせてしまう、文字通りの甘い罠。
謙悟もほんの少し酔いは回っているが、冴霞のようにたった二杯も飲み干さないで寝落ちするほど貧弱ではない。もとより新崎家の人間は遺伝的に酒豪
であり、謙悟もその血を色濃く継いでいる為、日本酒以上のアルコール度数でなければ酔っ払うことはないのだが、未成年である謙悟がその事実を知るのは
もうしばらく先の話である。
「まったく……お母さんも、何を考えているんだか」
すやすやと気持ち良さそうに眠る冴霞の髪をやんわりと撫でながら、謙悟は溜め息交じりに呟いた。
19.冴霞の過去(前編)
どん、と謙悟が空になったボトルを、ダイニングで雑誌を読んでいる悠香の前に置く。悠香はそれを軽く持ち上げると、二、三度振って中身が入っていない
ことを確認した。
「二人で全部飲んでしまったんですか? だったら冴霞は今頃、夢の中ですね。あの子は甘酒でも酔える子ですから」
「それはそれで驚きですけど……どういう意図があってこんな事をしたのか、説明して欲しいんですけどね。俺としては」
怒っているような言葉だが、謙悟の声は穏やかだ。悠香はぱたんと雑誌を閉じて、謙悟に対面の座席に座るように、スッと手を差し出して促した。
「お掛けになってください。ちゃんとお話致します」
「……失礼します」
謙悟が椅子に座ると、悠香は今までとはうって変わって真面目な眼差しで、しかしそれでいて優しげな微笑みを浮かべる。
「あの子が眠っていないと、謙悟さんとはこうして二人きりでお話しする機会はありませんでしたからね。いつもはしっかりしているくせに、謙悟さんの事に
なると年相応の子どもになって、貴方の手を握るだけであんなに取り乱して……本当に、あの子は貴方に出会って変わりましたわ。そのことを感謝したくて」
深々と頭を下げる悠香。それにつられて謙悟も頭を下げる。
「でも、だからって酒を出すのはどうかと……」
「まあまあ、いいじゃないですか。ちょっと早い社会勉強だと思えば。それに謙悟さんはまったく酔っていないようですけど?」
「いや、ちょっとだけ酔ってる……と、思います」
とは言うものの、なんとなくぼんやりするかも知れないというレベルの謙悟の酔いは、酔った内に入らない。
「なら、私のお相手をお願いしてもよろしいかしら? 無理に飲めとは勧めませんから、謙悟さんはお酌をして下さい。気が向いたらご一緒してくださいね。
それに、冴霞との事も聞かせていただきたいですし」
にっこり笑って、足元からマグナムサイズのボトルを取り出す。どっしりとした重量感はまさしく大容量であり、一.五リットルものウイスキーがなみなみと
中を満たしている。
「でかいですね」
「本当なら四人くらいで飲むものなんですけどね。主人もお酒は強くないし、かといって娘をアルコール中毒にするわけにもいかないので……私やご近所の
方々と、しみじみ飲(や)るくらいではなかなか減らないんですよ。ちなみにこれ、ストック分です」
「飲(や)るとか言わんで下さい、一児の母がはしたない……」
空になったカクテルのボトルと一緒に持ってきたグラスを差し出す謙悟。
「あら。お飲みになりますの?」
「明らかに飲めって言ってますよね、この会話の流れ。……理性が維持できる程度には、お付き合いしますよ」
溜め息混じりにそう言いながら、自分もやっぱりちょっと酔って来ているのかもしれない、と思う謙悟だが。
「じゃあ冴霞が起きてくるまでよろしくお願いしますね、謙悟さん」
年齢不相応な人懐こい笑顔を向ける悠香が相手ならば、普段の自分だときっと着いて行けそうにないので、少々酒の力を借りてみることにしたのだった。
ちなみに蛇足だが、稔臣は現在入浴中である。
「さっき、冴霞が変わったって言ってましたけど」
グラスを傾け、緩やかに飲む謙悟。さすがにストレートで飲むような馬鹿な真似はしておらず、水割りで嗜むように飲んでいた。
かたや悠香はオン・ザ・ロック。大きめの氷は冷凍室に買い置きされているロックアイスから削り落としたものだ。これだけで、悠香や近所の主婦たちが
どれだけ酒好きかというのが知れる。
「ええ。興味が有りますか?」
カラン、と氷を鳴らして悠香が問いかける。意地悪そうな視線だが、謙悟は臆することもなく頷いた。
「知りたいです。お母さんから見て、冴霞がどんな女の子だったのか」
「そうですね……その前に、謙悟さんから見て、冴霞はどんな子だと思います? 普段の学校でのあの子は」
悠香に言われて、普段の冴霞を思い浮かべる。夏休みに入ってからは良くも悪くも壊れてきているが、それでも。
「真面目で、頭が良くて、落ち着いてて、いざっていう時には凄く行動力があって。本当に、冗談じゃなくてみんなのお手本みたいな感じ……ですね」
「ええ。私も先生方からの内申や、懇談会でもそういった評価をよく聞いています。本当に良く出来た生徒だって。ですけどね、謙悟さん」
艶っぽい仕草でグラスを傾け、一口飲んでから。
「あの子は、昔から寂しがり屋なんです。それに感情を表に出すのも苦手で……陸上を始めるまでは、外で遊ぶことも少なかった、大人しい子でした。
その原因は……幼稚園の頃の話です」
怖い。
気持ち悪い。
ガイジンみたい。
悪意のない、しかしそれ故に純粋な敵意。
今村冴霞を取り巻いていたものは、まさにそういった意識だった。
スウェーデン人の曾祖母を持ち隔世遺伝によって現れた冴霞の瞳の色は、紺青色という日本人ではあり得ない色。それを物珍しく思った同年代の子どもたちは、
冴霞を異端として扱った。その中でもとりわけ攻撃的だったのが、間宮巴という女の子だ。
クラスやグループに一人はいる目立ちたがり屋な彼女にとって、冴霞のように特異な存在は邪魔者でしかなく、また子どもゆえの単純さと短絡さから、巴は
冴霞をあっさり『敵』として定め、数人の女子とともに冴霞をいじめ、追い詰めた。
しかし冴霞はそれに抗うことはしなかった。いや、出来なかった。
幼いながら、冴霞は他人を暴力で傷つけることを嫌っていた。それは父や母の教えであり、冴霞もまたそれを守ろうという意識があったからだ。わずか
五歳前後でこの意識は間違いなく立派だが、その意識が低かった巴たちには、冴霞は無抵抗な攻撃対象でしかなかった。
囲まれ、言葉による暴力を受け、いわれのない事で蔑まれ、そして遂に。
「きもちわるいって!!」
ばしん! という破裂音が室内に響いた。熱い痛みが左の頬に残る。叩かれた、ということを冴霞は瞬間的に理解できなかった。
叩いたのは巴だった。呆然としてしゃがみ込んでいる冴霞を見下ろし、しかし衝動的な自分の行為にも驚いている様子だった。
実際、驚いていた。無抵抗で人形みたいに突っ立っている冴霞に対して不快感を抱いていたとはいえ、手を上げるつもりなどなかった。だがこれまで、期間に
してみれば一週間程度だが、最初のうちこそ反論してきた冴霞が日を追うごとに無反応になり、また無抵抗になっていったことに対して、巴自身は不快とともに
苛立ちを募らせていた。その結果――――実力行使に、及んでしまった。
「トモっ!!」
誰かの声が聞こえると同時に、巴もまた左の頬に熱い痛みを覚えた。叩いたのは一見すれば男の子のようにも見える女の子。
巴の年少組からの友だちであり、冴霞へのいじめには参加していなかった、来栖彩乃である。
「なんでたたくんだよ、サエ、なにもしてないだろ!?」
「だ、だって……こいつ……っ」
「だってじゃない! ちゃんとサエにあやまれ!!」
手を振り上げる彩乃。とっさに身を屈めて、巴はそのまま彩乃に向かって体当たりをした。当然彩乃は吹き飛ばされ、巴は這うようにして彩乃に掴みかかる。
「なんで、なんであいつのみかたしてるの!?」
「トモはへんだ! なんでサエのことみんなでいじめるんだ!」
「きもちわるいからっ! あの目がっ!!」
「どこがっ!? すっごくきれーじゃないかっ!」
どすっ、と偶然の膝蹴りが入る。巴は咳き込み、彩乃は巴を無理矢理引き剥がし、ぐっと右手を固める。
拳。すでに空手を習い始めていた彩乃のそれは、同年代の男子すら恐れる凶器だ。無論彩乃も師範からはケンカなどに使うことは固く禁じられていたが、
怒りと幼さゆえの短絡さで、それを振るおうと腕を振り上げ――――
「だめぇっ!!」
飛び掛ってきたのは冴霞だった。拳は不発に終わり、しかし冴霞の体重を支えることが出来ない彩乃はそのまま倒れ、さらに巴も巻き込んで三人はもつれ合い、
結果的に争いはそれで中断となった。
「何をしているの!」
保母の声が教室の中に響き渡る。争いに終止符を打ち、また三人の顔と身体に出来た傷を見た保母や園長は彼女たちの親を呼び出し、厳重注意を告げるとともに、
三人に仲直りをさせるよう促した。とはいえ幼稚園側の監督不行き届きもまたあった事を悠香と、巴の母、彩乃の母が指摘すると、幼稚園側も責任を認め、両者の
問題は大人たちだけの話となった。
リーダーが敗れたために取り巻きだった子どもたちは冴霞に関わることはなくなり、また彩乃を恐れ、巴もいくらか大人しくなった。
「サエ……その、トモがたたいて、ごめん。ほら、トモもちゃんとあやまる!!」
「うるさいよっ……その、……ごめん」
「あやのちゃん……ともえちゃん……」
ぺと、と冴霞の小さな手が、巴の頬に張られた絆創膏を撫でる。巴のものほど大きくはないが、冴霞の頬にも絆創膏があった。
「トモとサエ、おそろいだなっ」
「アンタがたたいたからでしょっ!?」
「わわ、け、けんかしないでっ」
いがみ合う巴と彩乃の間に入って仲裁する冴霞。
これが切っ掛け。彩乃と巴、そして冴霞の友情の始まりであり。
同時に、冴霞がそれ以外の友人を作ろうとしなくなった事の始まりでもあった。
あとがき:
冴霞の暗い過去。幼児期のいじめというのはトラウマになりやすいそうで、
早期の対処をしなければいけないらしいです。それはさておいて、
この先冴霞がどんな道を歩いてきたかは既に本編中でいくつか情報を出して
いるのですが、そこを総纏めしつつ次回に向かいます。
管理人の感想
お酒の強さは、まあそのまんまな感じですね。
謙悟は強く、冴霞は弱い。これが逆だったりしたら意外も意外なのですが(笑)
そして悠香ママのご登場。何かこの人、本当に若いなぁって思います。雰囲気とか、喋り方一つとっても上品ですし。
そして酒と共に語られるのは冴霞の過去。それはある意味、謙悟のことを本当に娘を任せるに値した人物だと認めた証のような気がします。
ただの「恋人」だというのなら、こういう話はしないと思うわけですよ。特に、悠香の性格なら尚更。
そして、冴霞の過去のトラウマの話を聞いた、謙悟の反応は?
ってことで、また次回です〜