「じゃあ、しばらく一人だけど。ちゃんと留守の間よろしくね? 無駄遣いはしないこと」
「分かってるって、親父によろしくな。麻那も、ちゃんといい子にしてるんだぞ?」
「うん!」
八月五日の朝も早く。謙悟の母・新崎陽子は麻那を連れて息子に留守を任せようとしていた。夫である新崎徹(とおる)がまとまった休暇を取り、久し振りに
陽乃海市に帰ってくるということで出迎えに行き、また彼女自身も休暇を取ってそのまま家族四人水入らずの旅行に行こうという計画は、実は謙悟が夏休みに
入る前から用意されていたものだった。
だが謙悟は冴霞と海に行こう、という約束を優先し、父にも母にもその旨は既に伝えている。折角の機会を潰されたことに両親は少なからず落胆していたが、
謙悟が渋々携帯で撮影した冴霞の写真を見せると、陽子は飛び上がって喜び、四十手前にもなって十七歳の息子を抱きしめた。
「あんまり羽目を外しすぎないようにね。冴霞ちゃんを家に泊めてもいいけど、ちゃんと向こうのご両親にも承諾頂くこと。あと、まだ学生なんだからちゃんと
ひに――――」
「うるさい黙れ不良保護者。いいからさっさと行け」
「なによぅ、お母さんが心配してあげてるのに。でもお婆ちゃんになるのはまだまだ先がいいわね〜」
「本人に会ったこともないのに、良くそこまで盛り上がれるな」
謙悟の言うとおり、新崎家の中で冴霞に会ったことがあるのは謙悟を除いては麻那だけである。これではまるで見合い写真を見て騒ぐようなものだ。
「いいじゃない、あんな美人さんなら文句のつけようもないわぁ。いつかあの子に『おかあさん』なんて呼ばれるのかしら?」
「飛躍しすぎだ。それに、お袋が気に入るような性格かどうかも分からないんだぞ?」
実際そんなことは有り得ないのだが、謙悟はわざと陽子に抗議する。すると陽子はにんまりと笑って、息子の頬をぶにっとつつく。
「んふふ〜」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「謙悟が選んだ女の子だもの、そんな悪い子なわけないじゃない。なんたって、お母さんとお父さんの自慢の息子なんだから」
さらりと恥ずかしいことを言われ、謙悟は二の句も反論も告げられなくなってしまった。
「んじゃ、行って来るわね。一週間留守は任せたぞ、息子!」
「行ってきまぁす!!」
玄関を開け、駐車スペースに停めていたセダンに向かう陽子と麻那。その後ろ姿を見送りながら、
「……お袋」
「ん〜?」
「その……今度、ちゃんと紹介するから。冴霞のこと」
今まで言いそびれていたとても大切なことを、やっと言うことが出来た。
「ん。楽しみにしてるわ。じゃあね」
優しい母の笑みを残し、車に乗り込む陽子。一週間という短いようで長い留守番。これだけの間陽子が家を空けるのは、謙悟が憶えている中では
麻那が生まれた時に入院していた期間くらいのものだ。
その時はまだ父親である徹も陽乃海市にいたため一人きりで留守番ということはなかったが、謙悟ももう高校二年。一人で留守を任せるのに不安は
ないし、それなりに自活能力も備わっている。陽子も徹も麻那にべったりだが、もちろん謙悟のことを親として愛し、また信頼しているからこそ出来る
選択である。生活空間を共に出来なくとも、家族の絆は強靭なのだから。
「ふぅ……」
なんとはなしに溜め息を落とす。徹はもとより陽子も麻那もいない、一人きりの家はとても静かだ。だが、一人だからといって何か特別なことをするか
と言われれば、何もない。夏休みの課題は既に終わらせているし、日課のロードワークも済ませており、特にやりこみたいゲームなどがあるわけでもない。
陽子の言うように冴霞を家に呼ぶことも出来るが、それはそれでなんとなく陽子の目論見どおりに事が運ぶようで、少しばかり悔しい気分になる。
「ま……そん時はそん時で」
携帯を取り出し、短縮を呼び出す。時刻はまだ午前八時をようやく回ったくらい。
夏の太陽は天の頂点を目指して、緩やかに昇っていた。
B&G MEMORIAL of SUMMER
BOYS and GIRLS in
12.彼の悩みごと
「……で、なんでお前はこの店に頻繁に来やがってくれるんですかね、お客様?」
「すんません店員さん、このバイト態度悪いです」
「いい加減こっちの身にもなってよぉ……その漫才、本当に洒落にならないから……」
欧風喫茶・レストラン「ひいらぎ」。すっかり常連になっている謙悟と継のやりとりに、今日もウェイトレスとしてフロアに出ている要はわざとらしく
お腹を押さえながら、溜め息混じりに呟いた。
「つか、ホント新崎、良く来るよな。また先輩と待ち合わせか?」
「まぁな」
要が置いていったアイスコーヒーをストローから飲み込む。今日の「ひいらぎ」はまだ朝も早い時間――――というより、開店直後の午前九時であり、
客の姿は謙悟以外は一人もいない。継はそれを確認すると、謙悟の正面の座席に腰を下ろした。
「いいよな、お前らはさ。俺と要なんかバイト三昧でろくに出掛けてねぇってのに」
「そんなこと言われても、日雇いのバイトは大学生に取られちまって回ってこないからな。ちなみに今日はどうなんだ?」
モーニングセットで頼んでいたトマトとモッツァレラチーズのサンドイッチを口に運ぶ。そして謙悟につがれたはずの水を断りもなしに飲む継。
来店からそれほど時間も経っていないのにすぐさま料理が出てくるあたりも、謙悟が「ひいらぎ」の常連と化している証拠である。
「俺も要も昼まで。今年はまだ海に行ってないから、どうせなら行きたいんだけどな。昨日はそのつもりで水着買いに行ったし。な?」
「うん。でもなかなかサイズが合わなくて、困っちゃったよ」
要も要でカウンター席に寄りかかり、ちゃっかり自分用にと入れていたアイスティーをストローで飲んでいる。普段真面目に仕事をする彼女だが、
こういった姿は非常に珍しい。
「そりゃお前の胸がでかいからだっつーの」
「け、継くん!! 新崎くんの前でなんてことをっ!?」
「いや、今更だろ。なぁ?」
同意を求められるも、謙悟はどうリアクションを取っていいものかと悩んでしまう。確かに要の胸が同年代の女子と比較して大きいことは分かっていたが、
それはわざわざ言葉にして指摘するようなことでもない。
「……話、戻すけど」
話題を変えるべくわざと咳払いをしてから、謙悟はコーヒーを一口飲む。
「今日、実は冴霞と一緒に海に行こうと思ってるんだけどさ。どっかいい場所知らないか?」
「いい場所、ってなんだよ?」
継が尋ねる。すると謙悟は珍しく気恥ずかしそうにポリポリと頬をかきながら。
「いや……ちょっとこの間、俺のせいでかなり傷つけたから、せめて雰囲気のいい場所に連れて行ってやりたくて……けど、俺そういう所には疎いからさ」
「新崎くん……優しいんだね」
「雰囲気のいい場所ねぇ。平日って言ったって浜辺はどこも人ばっかだからな、なかなかそういう所は……」
しばし考えを巡らせる要と継。謙悟も色々と調べてはいたのだが、陽乃海市で有名なのは、海に沈む夕焼けの美しさを一望できる山からの景観だ。
これから向かう海岸とはまるで逆方向であり、またそこまで行くのは基本的に徒歩か車になる。
もちろん行って行けない事はない。だが海で遊ぶ予定が急遽山に変更になりました、などと言われれば冴霞から不満が出るだろう事は容易に想像できるし、
謙悟としてもそういった事は避けたい。
「あ。そうだ、要! あそこなら良いんじゃないか? この前の!」
「この前……もしかして、あそこの事? でも歩いたら結構時間かかっちゃうんじゃないかな?」
なにやら良い場所を思いついたのか盛り上がる二人だが、当事者たる謙悟には何のことやらサッパリである。
「お〜い。せめて俺にも分かるように盛り上がってくれるとすっごく助かるんだけど?」
「あ、あぁっ、ごめんなさい! でもホント、ちょっと遠い場所なんだよ?」
「海岸通りってあるだろ? 実はな、あの通りをずーっと西に行くと…………」
「こんにちはー」
午前十時前。カラン、とベルを鳴らして冴霞が「ひいらぎ」の扉を開いて来店した。待ち合わせの時間は十時半を予定していたため、かなり余裕を持っての
行動だが、待ち人になるはずだった謙悟が既にテーブル席に座っているのを見つけて、冴霞は驚いたように駆け寄る。
「謙悟くん、もう来てたんですか?」
「ああ。ちょっと早く出たからな。おいウェイター、アイスティー追加」
「あいよー」
他に客がいないからという事もあり、継の応対はとても接客に従事する人間のそれではない。だが冴霞はそれを怒るでもなく、くすくすと笑いながら
謙悟の向かいの席に腰を下ろした。
「どうかした?」
「いいえ。謙悟くんと高平くん、すっかり仲良しだなぁって思って」
「先輩、キモい事言わないで下さいよ〜」
げんなりした声で抗議しながら、アイスティーを運んでくる継。コースターを敷き、慣れた手つきで音を立てずにグラスを置く。
「ありがとうございます」
「いえいえ。先輩、今日は新崎と海に行くんだって?」
「はい。高平くんは柊木さんと行ったんですか?」
備え付けで置かれているガムシロップを少なめに入れて、ストローでくるくるとかき混ぜながら尋ねる。継は二度目になるその質問に嫌な顔をせず、
トレイを脇に抱えた。
「まだ行ってないっす。そのうち行こうかとは思ってんですけど」
「じゃあごめんなさい、一足先に行ってきますね」
嫌味にも取れる言葉だが、冴霞の嬉しそうな声と微笑みには嫌味の欠片も存在しない。継も謙悟もそれは分かっている。しかし――――
「…………」
「おい、高平?」
「高平くん?」
「うぇ!?」
しばし呆然としていた継を不審に思った謙悟と冴霞が声をかけると、まるで夢から覚めたかのように継はしぱしぱと瞬きをしてから頭を振った。
「どうかしました? どこか具合が悪いんですか?」
「あ、いやいや、そんなんじゃなくて!!」
「今村先輩に見惚れてたんだよねー」
瞬間、継の背後から静かな気配が忍び寄る。発せられた声に抑揚はなく、ただそれだけで声の主――――要の怒りがひしひしと感じられる。
「か、要ッ!?」
「さ、継くん。楽しい下ごしらえの時間だよ。あたしこれから休憩に入るから、ランチタイムは一人で回してねー」
嫉妬の炎が要の周囲で揺らめいている。もちろんそんな幻覚は誰に見えるはずもないのだが、継にはハッキリと蒼く揺らめく炎が見えていた。
「ま、待ってください要さん! いや要様!! 俺の作業の遅さはあなたも知ってるでしょう!? それにお菓子作りは俺には無理ですよ!!?」
「問答無用、言い訳はいいわけ。とっとと厨房に行きましょうね。先輩と新崎くんは、どうぞごゆっくり」
一体どこからそんな力が出てくるのか。継は要にズルズルと引きずられながら、店の奥へと消えていった。
「……凄いですね、柊木さん」
「うん……。高平のほうが引っ張ってるイメージあったんだけど、ホントは逆だったんだな」
言いながら、謙悟はもう何杯目か分からないコーヒーを少しだけ飲み込み、ちらっと冴霞を見る。
要という存在があるにも関わらず、継を思わず見惚れさせるほどの無邪気で綺麗な笑顔。それを一度ならず二度までも、しかも先の二日間で悲しみに
曇らせてしまったことは記憶に新しく、また忘れようとしても忘れられないほど苦い記憶だ。それもこれも、自分の配慮や思いやりが足りなかったからだ、
と謙悟は深く反省している。
だからこそ、恥を忍んで継と要に相談を持ちかけた。上手くいく保証など何もないが、少なくとも彼らが示してくれた「場所」は、確かにこれから向かう
海岸ではかなりいい雰囲気に浸ることが出来るだろう。
「なぁ、冴霞」
「? はい」
グラスをコースターの上に置き、謙悟の顔を見つめる冴霞。自分から彼女に提案したりする事の少ない謙悟は、やや緊張しながら。
「その……あとで、行きたい所があるんだ。一緒に行ってくれるか?」
「……うん、いいですよ」
先ほど向けられたものよりも華やかで、可愛らしい笑顔。それは間違いなく心の底からの歓喜を表したものだった。
あとがき:
なんだか随分と間が開いてしまった12話。ひとまず下地は整ったので、次回こそ
冴霞の水着姿を描写します。妄想力フルスロットルで。
ひとまず仲直りはしたものの、まだまだ男としては不安が多く。しかも原因が自分となれば、
選択肢はフォローか開き直るか。後者を選ぶような男はかなり人間的に駄目です。
そして遂に判明した継と要のパワーバランス。要はもともとしっかり者なので、これで正しいのですよー。
管理人の感想
海水浴当日の朝。なんかいいですね〜、こういうの。ほのぼのとしていて。
謙悟と継の関係も、悪友という形で成立しつつありますね。こう見ると、結構この二人って合ってるんじゃないかなぁと思います。
そして継と要が指し示した雰囲気のいい場所とは?クライマックスはその場所になりそうっすね。
次回の展開が気になりつつ今日はこれまでに。