現状が把握できない。

 どうして、謙悟くんは驚いた顔をしているのだろう。

 謙悟くんと話していて、そして手を握ろうとしているあの女性は、一体誰なんだろう。

 でも謙悟くんのメールが嘘偽りのない真実だとしたら、この状況はとりあえず説明できる。

 あの女性は謙悟くんの中学生の頃の知り合いで、久し振りに会ったからお茶でも飲んだ。それなら十分理由になる。

 だけどそれは、つまり。

 彼女と会うことの方が、私や麻那ちゃんよりも優先順位が上なのではないかという疑念。

「どうして、麻那ちゃんを置いていったんですか……?」

 疑問を投げかける。だけど本当に聞きたい事はそんなことじゃない。

「冴霞、待って――――」

「私に麻那ちゃんを任せてくれたのは嬉しかったです。でも、その間に他の女性と会うなんて……どうしてです?」

 謙悟くんの言葉を遮る。だけど、それも本音じゃない。でも本音を言ってしまったら私はきっと歯止めが利かなくなってしまう。

 言ってはいけない。彼に嫌われたくない。そんな醜い感情は出せない。

 そう、思っていたはずなのに。

「私を置いて、他の女性と会うなんて……そんなの、浮気以外のなんでもない……」

「さえ、」

馬鹿にしないで!!!!

 抑えていた理性の壁が決壊していく。私の肩に触れようとした謙悟くんの手を、反射的に払いのける。

 一度壊れてしまえば、抑えていた本音が漏れるのは容易かった。今まで当たり前のように話せていた丁寧語も出てこない。

「私の事をなんだと思ってるの!? 麻那ちゃんを預けて、体よく二人まとめて追い払って、自分は中学の知り合いと会って、私がここに来なかったら

一体どうなってたの!? 貴方はそ知らぬ顔で私達と合流して、無かったことにするつもりだったんじゃないの!!?」

 こんな事を言ってはいけない。それは壊れてしまった理性で分かっているのに、言葉を止められない。

「私が何も知らなかったら、その人との関係だってどうなるか分からないじゃない! 言い訳があるならちゃんと言ってよ!!」

 詰め寄ろうと距離を縮める。だけどその瞬間、私の頬に鋭い痛みが走った。

「っ!?」

「いい加減にしなよ、あんた」

 叩かれた、と理解したのは目の前に立っている女性が言葉を発してからだった。謙悟くんと一緒にいた、名前も知らない女性。

 その人が、私の頬に平手を見舞ったのだ。

「何が言い訳があったら言え、よ? 人の話も聞かないで自分の言い分ばっかり言ってさ。ちゃんと新崎の話、聞きなよ。さっきから話そうとしてんじゃん」

「止せ、古谷。……冴霞、大丈夫か?」

 叩かれたばかりの頬に謙悟くんの手が触れる。暖かくて逞しい、彼の優しい手。

 だけどその優しさは、瞬間冷却された私の心には痛いだけでしかなかった。

「あ、ああ……」

とんでもないことをしてしまった。その後悔が今更のように襲ってくる。見れば麻那ちゃんもしっかりと謙悟くんの腰にしがみついて、怯えた目で

私の事を見ている。

 自分で自分が信じられない。いくら感情的になっていたからって、あんな、あんな事を言ってしまうなんて。

 でもさっきまでの言葉が、私の本音である事は覆らない。私自身が誰よりもその事実を認識している。

 どうしよう、と考えるよりも先に。

 私の足はあっけなく崩れ落ちて、謙悟くんに引っ張り上げられなければまともに立つ事も出来ないくらいに脱力しきっていた。

 

 

B&G MEMORIAL of SUMMER

BOYS and GIRLS in Seaside Vacation

 

11.彼女たちの恋愛観念

 

 

「……おにいちゃん?」

「ん? ……どうした?」

 麻那のほっぺたに付いたアイスクリームを紙ナプキンで拭い、俺は妹と同じアイスクリームを口に運んだ。

 今、俺と麻那がいるのはさっきまで古谷といた喫茶店とは違うファミレスだ。さすがに店の前であんな騒動を起こした以上、出戻りするのはかなり

勇気がいるし、俺だってそこまで無謀じゃない。

「おにいちゃん、元気ないから……」

「……そんなことないぞ。兄は元気だ」

 くしゃくしゃと頭を撫でてやる。だが実際麻那から見ても分かるくらいに、俺は落ち込んでいるのだろう。

 そりゃそうだ。目の前で冴霞に突きつけられたあの言葉は耳から離れないし、事実そういうところがなかったのかと言われれば、やっぱり冴霞の

言う通りなんだと思わざるを得ない。

『馬鹿にしないで』と冴霞は言った。それはつまり、ちゃんと冴霞のことを考えているのか、ということなんだと思う。

 冴霞のことは信用してるし、信頼もしてる。当然恋人である以上愛してると……人目をはばからず大声で言うほどの勇気はないが、もちろん愛してる。

 だけど自分が何をしても冴霞が俺を信頼してくれている、と一方的に考えていたのも確かだ。

 麻那が懐いているから、冴霞になら麻那をしばらくの間任せてもいいだろう。

 冴霞は俺のことを好きで、信じてくれているから、古谷と会ってもいいはず。

 弁解も罪滅ぼしも、後ですれば冴霞はそれで許してくれる。

 そんな甘えが俺の中にあったんだ。それが事実無根の一方通行だと気づきもせず、ただ今までの『俺が知っている冴霞』なら大丈夫だという勝手な

思い込みだけで。

「そんなこと、あるはずないのにな……」

「?」

 つまり、単純な話。

 自分の立場だったらどうするか、なんて小学生の反省会みたいな仮定をしてみれば、答えなんて考えるまでもないのに。

 ましてや相手が自分の知らない同年代の女の子で、しかもモトカノだと来ればとても平静でも正気でもいられない。俺でさえそう考えてしまうんだから、

冴霞のショックはとんでもなく大きかっただろう。もっとも、冴霞は古谷が俺のモトカノだとは知らないわけだから、もし知ってしまったら本気で泣くほど

怒ってくるかもしれない。

「麻那、兄は馬鹿だ。馬鹿と言ってくれ……」

「? ばーか?」

「……ありがと」

 事情も分かってない妹にこんなことをさせるのはかなり心苦しいし、実際馬鹿な奴だと思う。

 そしてなにより、一番馬鹿だと思うのは。

 今現在の、冴霞の置かれている状況を俺が許可してしまったということだ。

 

 

 

「どう? 少しは落ち着いた?」

 言いながら差し出されたお茶を受け取って、私は無言で頷いた。

 レストランフロアよりももう一階上にある屋外遊技場のイベント会場は、平日ということもありほとんど人の姿はない。ただ、土日にかけてなにかしらの

用意があるのか、機材の搬入をしている人が数人出入りしているだけ。

「ありがとうございます、えっと……」

「古谷美優よ。古谷でいいわ」

「今村、冴霞です……好きに呼んでいただいて構いません」

 ちょっと乱暴な物言いだな、と自分でも思った。だけどそれは仕方のない事。この人……古谷さんが謙悟くんと短い時間とはいえ一緒にいた事は間違いないし、

私にとっては敵か味方かで考えるのならば、確実に敵なのだから。

 けれど古谷さんは私の隣に遠慮なく座ると、足組みをして私の顔を下から上目遣いに見上げてきた。

「何ですか?」

「いや、綺麗な顔してるなぁって思ってさ。背も高いし、スタイルもいいし……モデルでもやってんの?」

「……残念ですけど、ただの高校生ですっ」

「あ、そりゃ失礼。ちなみに何歳?」

「十七ですけど……」

「ってことはタメね。じゃあ遠慮しないで聞くけど」

 今までの態度のどこに遠慮があったのかは知らないけれど、古谷さんはびしっと私の鼻先に刺さるくらいの勢いで指を突き出して。

「アンタって、新崎の彼女だよね?」

「はい」

 即答する。だってそれは紛れもない真実だから、ためらう必要なんてどこにもない。だけど古谷さんはあまりにも呆気ない私の返事に驚いたのか、少し間を

置いてから、ぷっと吹き出した。

「なんですか? 古谷さんが聞いてきたんじゃないですか」

「いや、ゴメンゴメン。さっきあれだけ大声で怒鳴ってた人があっさり認めたもんだからさ、不意打ち食らっちゃったわ」

「確かに怒りはしましたけど、謙悟くんのことを嫌いになったわけじゃありません」

 そう、それは私の嘘偽りない本心。いくら怒鳴り散らしても、謙悟くんに嫌悪の念なんて微塵も抱いていない。だけど……代わりに少しだけ、嫌な感情が

芽生えてしまったことは確か。

「じゃあ聞くけどさ、これからも変わらないで、新崎のこと信じられる?」

「…………それは」

「やっぱ、不安には思うよね」

 膝の上に肘を突き、古谷さんは頬杖をついてため息を落とす。

 古谷さんの言うとおり、私は今謙悟くんに対して不安を抱いている。もっと言ってしまえば、不信に近い感情。彼の行動や言葉をこの先信用していいの

だろうかという、疑問。

もちろん私は謙悟くんの恋人である以上彼の言葉は信じるし、これまでも信じてきた。だけど今回の一件が引き金になって、これから先謙悟くんの言動に

何の疑いもなく頷くことが出来るかと言われれば……すごく苦しいけれど、出来ないかもしれない。

 そんな私に、古谷さんは。

「それでいいと思うよ、あたしは」

 本当に当たり前のことのように、さらりと言った。

「それでって、不安のままでいろって事ですか!?」

「うん……って、近い近い!」

 無意識に距離を詰めていたのか、気がつけば私は古谷さんに掴み掛からんばかりの近距離にまで顔を寄せていた。彼女は私を面倒臭そうに引き剥がすと、

ゆったりと後ろの席に背中を預けた。

「あのさ……彼氏の言うことになんでもかんでもイエスで頷いてるだけで、彼女がつとまると本気で思ってんの? 相手の言葉をちゃんと聞いて、おかしいと

思ったところは意見して、真っ向から否定する時だってあるでしょ? その為には多少なりとも相手のこと不安に思ってるってのも必要だって、あたしは思うね」

 ぐさり、と胸に刺さる言葉。言われてみれば、私は謙悟くんの言葉のほとんどに従っていたようなところがある。反論した回数はそれこそ両手で数えて

足りるくらいだし、今日もあのメールの内容に関して以外は、疑うことさえしていなかった。

「彼氏彼女って言ったって、お互いの考えてること百パーセント理解できるわけじゃないんだから。つか、そんな奴等どこ探しても絶対いないって」

「……メールで嘘ついたりも、します?」

「するね。間違いなく。なに、新崎に嘘つかれたの?」

「いえ……私の一方的な勘違いでした」

 携帯を取り出して、謙悟くんからのメールを古谷さんに見せる。古谷さんはさっと目を通すと、すぐに携帯を返してくれた。

「相変わらず素っ気ない文章打つね、新崎のヤツ。どんな勘違いしたの?」

「……私や麻那ちゃんを巻き込まないために、一人で話をしに行ったんじゃないか、と……いたっ!?」

 がすっ、と遠慮なしに頭にチョップ。手加減はしてもらったとは思うけど、不意打ちなのでやっぱり痛い。

「どうして叩くんですか!?」

「うっさい! あんたはどっかの少女マンガのヒロインか!? 深読みしすぎなのよ!! いい? はっきり言っておくけどね、新崎はものっすごく不器用!!

メールの中に行間を読ませるような仕込みなんて、逆立ちしたって出来ないんだから!!」

 うぅ、確かに古谷さんの言う通り。だけど自分の彼氏である謙悟くんを貶されて黙ってなんかいられなし、そういう風にキッパリ断言されるのはまるで

自分のほうが謙悟くんのことを分かってるわよー、と言われてるみたいでとても腹が立つ。

 まぁ……なんとなく、確信に近い予想はついていたりするのだけれど。

「不器用なことくらい知ってます! 友達を作るのも下手で、問題事や厄介事も自分で背負い込んで、でもそれが普通だって言い切っちゃう。私にだってもっと

頼っても、感情をぶつけてもいいのに。……それがどんなに辛いことか、謙悟くんは分かってないんです」

「…………凄いね」

 ぽつりと古谷さんが呟く。私も本当に、謙悟くんは凄い人だと思う。だけどそれは、自分を追い詰めるだけの辛い選択。

 いつかきっと、重さに耐え切れなくなる時が来ると思う。そんな時に彼を支えてあげられる人がいなければ、間違いなく謙悟くんは謙悟くん自身が気がつかない

うちに壊れてしまう。

「今村サンさ、新崎と付き合ってどのくらい?」

「え? 一ヶ月経ってませんけど……」

 いきなり投げかけられた古谷さんの問いに答える。ていうか、今初めて名前で呼んでもらったような気がする。

「凄いよ。あんたはちゃんと新崎のこと見てる。たった一ヶ月で……羨ましいわ」

 嬉しそうに、だけど寂しそうに、古谷さんは微笑む。

 確信に近かった私の予想は、最後のピースがかちりと音を立ててはまり――――ようやく完成した。

「古谷さんは、謙悟くんのこと好きなんですね」

「…………気づいたのはさ、アイツと会わなくなってから。何人かと付き合ってはみたけど、どうにも落ち着かなくて……結局、新崎と付き合ってた頃のほうが

まだ楽しかったなぁって、思うようになってたよ。それでようやく気づいたの。あたしはいつの間にか、新崎のことを好きになりかけていたって」

「…………」

 覚悟はしていたけど、やっぱり胸が痛い。謙悟くんは今の彼女である私より、モトカノである古谷さんと話をすることを選んだ。きっと謙悟くんにも

言いかけていた言い分があるのだろうけれど、今はただ単純に悔しい。

「だけど、あたしは今村サンほど新崎のことを想えない。だってあたしはアイツにあんなこと言われないし、嬉しそうな顔も見たことないから」

「え? な、何があったんですか?」

 きょとんとする私を見て、古谷さんは意地悪な笑みを浮かべて。

「いい? 新崎には絶対内緒だからね? あと、一発だけでいいから新崎のこと殴っておいて。あたしにこんな恥ずかしい台詞で惚気た罰としてね」

 これから先、思い返すだけでにやけてしまいそうなくらい嬉しい言葉を囁いた。

 

 

 

 古谷さんと別れて、電話をかけた後、本当に一分もしないうちに謙悟くんは麻那ちゃんをおんぶして、屋上に来てくれた。けれど流石にちょっと

きつかったのか、珍しく肩で息をしてる。

 麻那ちゃんはずるずると謙悟くんの背中から降りると、「おねえちゃん!」って言いながらばふっと私の腰にしがみついてきた。さっきは怖がらせて

しまったけれど、幸いなことにまだ嫌われてはいないみたい。

「早かったですね。走らなくても良かったのに」

「いつまでもコーヒー一杯で粘ってるほうの立場にもなってくれよ……大丈夫だった?」

「はい。一回だけ頭叩かれましたけど、そんなに痛くなかったですし」

 さっと謙悟くんの表情が曇る。その顔は痛々しいくらいに申し訳なさそうで、見ているこっちまで悲しくなってしまう。

「ごめん、全部俺のせいだ。俺が古谷と会ったりしなかったら……冴霞のこと、もっとちゃんと考えてればこんなことに」

 言葉を遮るように手を振り上げて、ぺちんと謙悟くんの頬を打つ。まったく力の篭っていない平手打ちだけど、これで古谷さんとの約束は果たした

ことにしよう。だって、私が謙悟くんに手を上げるなんて絶対にありえないんだから、せめてこれで許してもらわないと。

「謙悟くん」

「……はい」

 そっと両手をほっぺたに当てる。ほんの少し背伸びすれば、いつでもキスが出来るくらいの距離。

「馬鹿にしないで下さい。私、そんなに弱い女じゃありません」

 ちょっとだけ嘘をつく。私は本当は、そんなに強い人間じゃない。それは謙悟くんも知ってることだから、この言葉が嘘だっていうのはすぐにバレてしまう。

でもそれはささやかな罠。謙悟くんにほんの少しだけ不安を与えるためのずるい嘘。

「……だから、不安があったり、迷ったりしたら、私にも相談して。今日みたいな事も、ちゃんと言ってくれれば私は平気だから」

「冴霞……、分かった。もう裏切ったりしない。今更もう言い訳にしかならないけど、ちゃんと言うよ」

「うん。でも……」

 仲直りのしるしとして。麻那ちゃんが見ている前で、初めてのキスをする。

 

 ……古谷さんは不安でいてもいい、と言ってくれたけれど。

 私は私で、私と謙悟くんに合ったやり方を探して行こうと思う。

 だから古谷さん。

 今は素直に、ありがとうと言わせてください。




あとがき:

恋愛観念、としていますが。
信じることを選んでいた冴霞と、不安を抱いてもいいとした美優。どちらの言い分や持論が
正しいかは個人の経験と認識によって多様に異なるので、どちらも正しいかといえます。
そこまでドロドロした修羅場ではなかったし、そもそもこの程度のものを修羅場といっていいのでしょうか。
美優と冴霞も、なんだかんだで仲良くなりかけていますし。


管理人の感想

どうにか丸くまとまって良かった良かった(ぇ
冴霞の激昂には少し驚きましたが。そしてその後、自分では立てなくなるくらい後悔するのもまた彼女らしいというか。
個人的には、美優はもう少し悪女的な存在なのかと思ってたんですけどねぇ。やはり過去の自分の所業からの罪悪感か。それとも・・・謙吾に幸せになって欲しいだけなのか。
どちらにしても、冴霞にとって今回の一件は、彼との関係を客観的に見直す機会だったのかもしれませんね。もちろんそれは、謙吾においても同じことが言えますが。



2008.3.11