折々の記へ
過去の生活から
いくつかの足跡
【北海道三ヶ月】 【土浦の予科練】
【○○○○○】【○○○○○】
〔北海道三ヶ月〕
鶴居村の朝は気持よかった。ここは深い霧がたちこめ、朝日はいつも白くて丸かった。
朝起きて外へでて見ると、20メートルほどある木々は、うすい霧がたちはじめたその中に、ひっそり立っていた。それからだんだん霧はこくなっていき、10時頃には消え去っていくのである。どうして美しい霧がかかるのかは判らなかった。この珍しい光景はいつまでも私の脳裏から離れなかった。北海道を思い出すたびに浮かんでくる光景なのである。
私が住んでいる下伊那地方は、秋になると、といっても9月過ぎの残暑が去ってからだが、朝霧が立ちこめるようになります。この霧がかかるために、市田柿が美味くなるんだと言い伝えられてきました。
だが、鶴居村に霧がかかるのは6〜8月の夏の盛りなのである。すてきな景色である。
後でわかったことだが、黒潮の流れが北上して釧路沖合いで、寒流とぶっかりあい霧が発生するんだと言う。朝霧に浮かぶ白い太陽の映像を見たい。
北海道へ行ったのは、戦時中のそれも敗戦前年の昭和19年のことだった。その当時は挙国一致の意識を高めるためだったと思うんだが、学校の生徒まで軍需工場で働かせたり、食糧増産ということで農家の手伝いをさせたりした。男たちが戦争に行ってしまったからである。そのころ北海道の農家のお手伝いのために援農隊が毎年組織されるようになっていた。私は下伊那農学校の二年生だったから、それに組み入れられたのである。前年は十勝平野南部の大正村という名前の村だったと思うが、その年は釧路郡の鶴居村だった。
昭和19年といえば第二次大戦の末期であったけれど、勝つも負けるもわからなかった。そのような意識は毛頭なかったといってもいい。それどころか、若かったからかあるがままを受け入れて、毎日の生活が嬉々としていたのである。いまでいえば高等学校一年生の年齢だった。飯田中学校の生徒も飯田長姫商業学校の生徒も、みんなそれぞれに勤労奉仕にかりだされていた。
そんな戦時体制であったから、英語の勉強は一年生の一学期までしか教われなかった。rainbow
という単語が教えてもらった最後の単語だった。英語の勉強がなくなるといわれても困ったなとも思わず、いい気なもので平気でいたが、これが後々とんでもない損失だったことに気づかされたのである。どのくらいの学習時間が戦争のために勤労奉仕に振り替えられたのか、調べたこともないので判明していないが、この時期の学習できなかった損失は計り知れないと思う。
ともかく、長野県から釧路へ出かけたのである。
交通の便は今とは比べものにはならない頃で、記憶に残っていることは、次の二〜三のみである。
新潟の直江津へ出て青森に行き、青函連絡船で函館に渡り、十勝へ出て大楽毛、鶴居村へ行くという経路であった。わいわいがやがや、おしゃべりをしながら新潟では油井を見た。あとで思ったのは、日本の油田というと、誰もが新潟を挙げたのだが、あれじゃあ石油資源が採れたとはいえないほどだということだった。
山形県の海岸を走っているときに見えた鳥海山は、すばらしかった。ともかく格好のいい山だったんだが、誰が教えてくれたのか地理の勉強で憶えていたのか、その名前がわかったのだが、実にすがた形のいい山だった。
青森では、臨時列車のためにホームから外れた場所に停車した。水筒の水がなくなっていたので、近くに見えたおばあさんに、「みずをくださ―い」と言ったが怪訝な顔をされたので、水筒を振って「水を下さい」と叫んだ。そのおばあさんは、姿が見えなくなったとおもうと、まもなくバケツ一杯の水を汲んできてくれたのである。感謝の気持ちで一杯だった。言葉のやりとりは余りなかったと思うが、方言ということからみれば「みずをください」という言葉が判らなかったのか、水筒を振って「みず」と言ったからすぐ判ったのか、と思った。ありがたかった。
二日目の夕方、汽車は十勝平野を後にしていた。
窓辺に移り行く十勝の原野を見ながら、「ああ紅の血は燃ゆる」を口ずさんだ。この歌はいつも思うんだが、どこかに幽(かす)かな哀調を含んでいる歌だ。年輩の方ならわかるかもしれない。
ああ紅の血は燃ゆる(昭和19年) 作詞・野村俊夫 作曲・明本京静
1 花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて
国の大事に殉ずるは われら学徒の面目ぞ
* ああ 紅の血は燃ゆる ( * 以下・繰り返し )
2 後に続けと兄の声 今こそ筆をなげうちて
勝利揺るがぬ生産に 勇み立ちたるつわものぞ
3 君は鍬取れ 我は槌 戦う道に二つなし
国の使命を遂ぐるこそ われら学徒の本分ぞ
4 何をすさぶか小夜嵐 神州男児ここにあり
決意ひとたび火となりて 護る国土は鉄壁ぞ
岡田國男さんの家は北海道の釧路のてまえ大楽毛から二本の線路のうえにトロッコを2〜3連つないで馬でひっぱっていく、そういう鉄道トロッコで二〜三時間走ったところにありました。あたりいちめん平地で、開墾されていない土地はなにやら名も知らない木々が林になっていたのです。隣の家は100メートル程離れたところに一軒見えるだけでした。
辺鄙といえば辺鄙に違いないんだが、一向に苦にならなかった。岡田さんのお爺ちゃんは釧路市に家があり、長男に商いを継がせて、牧場経営をねらってこちらへ来たようでした。歯が何本か抜けていたが、磊落なお爺ちゃんでした。次男の國男さんは結婚してまもなくの頃のようでした。東京のほうへ出ていっていたが、食糧事情も悪くおじいちゃんが呼び寄せたようでした。
うちの近くに五反歩ほどだっただろうか畑があった。馬鈴薯を植え付けたり、鳥がほじりださないように鳥がいやがる赤色の薬品処理をしたトウモロコシの種をまいたり、そういう仕事の応援でした。うちの裏手に5町歩ほどの林地があり、5分ほど離れたところに20町歩ほどの馬用の牧草地があった。放牧地は馬に乗って30分はかかる場所に200町歩ほどの面積の原野であった。岡田さんちはそれほどの大規模農家ではなかったのである。
結局は、五反歩ほどの畑の仕事のほかは、放牧地の馬の管理が仕事と言えば仕事だった。
畑仕事でびっくりしたのは、馬で畑を耕すときに使う鋤(すき)でした。普通、内地(北海道の人たちは本州のことを内地と呼んでいた)下伊那地方の鋤というのは耕す幅がせいぜい20〜30センチだったのだが、二頭立ての馬耕の幅は40〜50センチであった。そのために全体重を鋤にかけないと起こせなかった。うまくいかないと、地上に滑り出てしまうこととなった。まだ体重も60キロあるかなしかの頃だったから、大変な仕事だった。
それでも、岡田さんは専門の農家ではなかったから、つめて働くようなことは一度もなかったのである。気楽と言えば気楽な坊ちゃん農業であった。
このプラオという馬耕の後に、鉄の爪が何本も下に出ている土ならしの作業があり、種馬鈴薯の植付けをした。岡田さんの家に行ったのが5月中旬か下旬頃だった。北海道ではやっと春の仕事が始まったところだった。
次の仕事は牛にやるトウモロコシの播種だった。カラスがほじって食べるというので、赤い薬品処理をした種を蒔いた。これは乳牛の飼料で、家庭用のために2頭飼っていたように思う。牛の乳搾りもはじめての経験だった。人差し指のほうから順序良く力を入れて搾らないと、牛は異様な感じがして嫌がるのだ。搾り始めの頃、いちど失敗して乳入れのバケツへ足を踏み込まれたことがあった。おじいちゃんにお詫びを言いましたが、「慣れれば大丈夫さ」と応えてくれた。それからは失敗もしなくなった。食糧難のころだったが、ご飯にも飲み物にも不自由はなかった。
さて、馬については、いくつかの体験があった。
お爺ちゃんは馬飼いを計画していたから、競馬用なのか種馬用なのか、二歳馬に毎日走る運動をさせた。脚力をつけることと、胸幅を広くするというのが狙いのようでした。その馬の運動の手伝いだった。
1メートル50センチ位の太目の杭の上に、鉄の杭を打ちつけ、馬の口取りから7〜8メートルのロープをつけ、その先に金具のワッパをつけて、そのワッパを杭のうえにひっかけ、二歳馬の尻をたたいて円運動をさせるのである。人間は杭の周りを歩き、馬が怠けるとそれをみていて折々尻を叩くのである。馬には気の毒な訓練であった。馬はおじいちゃんの考えまでは判らなかったであろうし、まして手伝いの若者が気楽そうに尻だけ叩いて平然としていたのだから、馬はやりきれないに違いなかった。
ある日のこと、いつもの通り運動してから馬の体を水で洗ってやっていた。30分位走り続けると馬は充分汗をかくのだ。顔から、首や背中、胴体、後脚、前脚へと洗っていった。前脚を洗うときに、馬の頭のほうに自分の尻を向けて洗ったのである。馬はこれ幸いと思ったのか、私の尻をパクリ、かみついたのである。痛いというほどではない。この野郎ッと見返してみると、その二歳馬、馬耳東風として涼しい顔をしていた。おかしくもあり、かわいくもあり、「よう、かんにんしてな」と首をたたいてやったものだ。この若造め、と馬は思っていたに違いない。
野生の熊や鹿は、塩気をどのようにして補給しているんだろうか。馬の放牧地には一週間に2回くらいは岩塩をやっていた。これが牧場管理の一つである。馬は心得たもので、今日あたりは人が来ると予想しているらしく、頭陀袋に岩塩を入れて200町歩の牧場へ行くと、離れた高い場所にチラホラ見え隠れしていた馬たちは、「ポーッ!ポーポォーッ!」と呼び立てると、一斉に塩場へ駆け下りてくるのである。その光景は勇壮である。この塩場というのは、湧き水のある場所でなくてはならない。
岡田さんちの塩場はそうした湧き水のあるところでした。差し渡し70〜80センチある切り株の上へ、岩塩を一掴みずつ置いていくのである。馬は駆け寄ってくるなり、岩塩を音を立ててバリバリ食べる。遅く来た馬も早い馬も、仲良くそしてゆっくり食(は)むのである。決して慌ててはたべない。ころあいを見て馬は、これもゆっくりと水を飲むのである。牛飲馬食というが、馬が水を飲むときの有様は、それは美味そうなのである。たっぷり水を飲んでから、馬たちは三々五々気ままにあちらこちらへ離れていく。馬たちは別に飼い主に挨拶はしないんだが、なんとも美しい情景なのである。
冬でも同じように塩場へきて馬の健康をみるのだそうだ。孕んでいる馬への気配りはことに大事のようだった。餌は熊笹などで、雪を前脚でかき、熊笹を見つけて食べているとのこと、馬に「ごくろうさま」と言いたくなる。馬は可愛い動物である。
そんな可愛い馬なんだが、お産のために近くの放牧地へ移してあった馬が、難産のために死んでしまった。お産の兆候は知っていたのだが、それをおじいちゃんに話さなかったのが災難の原因だった。大きな失敗だった。報らせろとは言われていなかったのだが、気がとがめてしかたなかった。援農隊の手伝いは西村君と二人だったのだが………。近隣の人たちが集まって、皆で解体し肉は分け合って持ち帰っていった。悲しい出来事だった。
馬の種付けにも連れて行ってもらった。種馬はやっぱり立派な一物をもっていた。連れて行った馬はまだ発情していないということで、当て馬だけで帰ってきた。これはどのくらい離れた場所だったのか、今では見当もつかない。
もう一つ、岡田さんちから、馬を離れた牧場へ連れて行ったことがある。だいぶ慣れてきた頃だったので、馬にまたがり、一頭をつれて行ったのである。林の中をあっちこっち見ながらまたがって行くと、突然馬が足を止めてしまった。「どうしたんだ。いけ!」と声をかけても馬は動かなかった。どうしたのかな、と思って振り向いて見ると、道がY字路になっていて、自分が間違ったほうへ手綱をひいたことがわかった。馬は仕方なく少しは歩いたのである。間違っているぞとは言わずに、立ち止まったのである。馬は利口だ、馬は可愛い、と思わざるを得なかった。この時は、馬がいつものところへ帰れると思ったのか、ほっておくと早足になり、南京袋を二つ折りにして背中に乗せただけで、またがっていたので、後で尻の皮がすりむけてヒリヒリした。
雌阿寒岳登山と阿寒湖への旅
細かいことはどこかへ消えた。あれはどの位距離があったのだろうか。いわゆる北海道の原生林は朽ちた倒木で道が阻まれたり、あるやなしやの道をたどりながら歩いた。雌阿寒岳の近くになってから、川沿いには巨大なフキが群生していた。人間がすっぽり入るのである。茎の太さは握れないほどあったんで、びっくりした。それに、熊の足跡がみんなを緊張させた。山登りはどの位時間がかかったのか憶えていない。
ただ、今でも写真にあるような赤色や青色の火口湖が足元はるか下のほうに見えた。これは雌阿寒岳の特徴に違いない。山頂には無数の噴煙口が開いており、硫黄の匂いが鼻をついた。近寄ったが息ができない。鼻をつまみ近くまで駆けていってみたが、ゴォーという恐ろしい噴煙音がして気味が悪かった。山が陥没しかいかという心配が人知れずしてきた。地球は生きているのである。
阿寒湖ではマリモを空き缶にいれて記念に持ち帰った。これは珍らしかったので、韮とともに生まれた家まで持ち帰ったのである。湖畔では熊の木彫りを買った。これは帰ってからしばらく置いてあったが今はどこへ行ったか見かけない。まずは無事に登山が終了した。
話は変わるが、北海道で美味かったのは、馬鈴薯とカボチャであった。ともかく美味かった。寒い地方の作物は、作物自体澱粉を多く蓄えるのだろうか。そのためかどうかは知らないけれど、いまでも取り立ての北海道産の馬鈴薯と南瓜は美味い。是非とも北海道のものを買ってほしいと思う。自分の味覚が懐かしさもあわせ持っているのかもしれない。
韮(にら)を持ち帰ったのには訳があった。実は若奥さんが折々おつゆの身にニラを入れたり、卵とじを作ってくれたりしていたのである。勝手口から出ると直ぐのところに、ニラの株がいくつかあって、ちょこちょこと行って葉っぱを摘み取ってくるのである。ニラは数日するとまた新しい葉がずんずん伸びてくるのである。都合のいい野菜だなぁ、ニラを知らなかった偽らざる感想である。こんないいものはない。帰りに分けていただいたのである。家へ帰って「これはいくらでもあるよ」と母から聞いてガッカリした。
三ヶ月はたちまち過ぎてしまった。
帰りが近づいて関係者が村中で、送別会をしてくれた。このとき初めて岡田さんのかくし芸の道にいっているのをみて驚いた。やってくれたのは、「俺は村中で一番………」ではじまるエノケンの歌だった。
洒落男 坂井透訳詞 L クレイン作曲
一 俺は村中で一番 二
我が輩の見初めた彼女
モボだと言われた男 黒い眸でポップヘアー
うぬぼれのぼせて得意顔
背が低くて肉体美
東京は銀座へと来た おまけに足まで太い
そも々その時のスタイルは
馴れ初めの始めはカフェー
青シャツに真っ赤なネクタイ この家はあたいの店よ
山高シャッポにロイド眼鏡
カクテルにウイスキーどちらにしましょ
ダブダブなセーラのズボン
遠慮するなんて水臭いわ
三 言われるままに二三杯 四 アラマアそれは素敵
笑顔につられてモウ一杯 名誉とお金があるなら
彼女はホンノリ桜色 たとえ男がまずくても
エッヘッヘしめたぞモウ一杯 あたしは貴方が好きよ
君は知ってるかい僕の オオいとしのものよ
親父は地主で村長 俺のからだはふるえる
村長は金持ちで倅の僕は お前とならばどこまでも
独身でいまだにひとり 死んでも離れはせぬ
五 夢かうつつかその時
飛び込んだ女の亭主
物も言わずに拳固の嵐
なぐられて我が輩は気絶
財布も時計もとられ
だいじな女は居ない
怖い所は東京の銀座
泣くに泣かれぬモボ
勿論自分では始めて聞く歌だった。けっこう長い歌詞で物語風になっており、身振り手振りをくわえた踊りは、やんやの喝采だった。
もう一つやってくれたのは、綱渡り芸だった。番傘を両手に、たたみのへりを綱に見立てての綱渡りを、サーカスの曲に乗せて演技するのでした。その見事さにはただただ唖然とし、忘れ得ぬ思い出となりました。サーカスの唄を聞くと、岡田さんを思い出します。
この思い出の記は、関係者が見れば話に花も咲くだろうけれど、そうでなければ面白くもない記事でしょう。でも、私が少年の頃、こんな歩みがあったことを、身近な方々にやがて見てもらえば多少は意味もあろうかと思います。では以上で「北海道の三ヶ月」を終わります。
北海道三ヶ月へ