五十二、 母と歌 |
秋に退院した母は少しづつ弱りながら痰も咳も止まらないまま何とか年を越して二月になった。 この頃父は快快として心楽しまない母の為に少しづつビアノを弾いてきかせるのであった。丁度私が行った時パラパラと父は早春賦をかなでていた。時しもまだ雪の中、寒さきぴしく春の気配もない頃であったが、私も好きな歌であったから父の伴奏に合わせて出もしない声をはり上げて歌った所、母は非常に喜んだ。それは春を待つ心と春になれば母の病も少しは良いかという期待の心と昔々乙女だった頃愛唱した歌の懐かしさやらを心をこめて情感たっぷりに言葉を語るように歌った。母は母でやはり同じような思いでそれを聞いた事と思う。「良いねえ、心にしみ入るようだ」と涙を流さんばかりに喜ぶのであった。次いで「浜辺の歌」「菩提樹」と次から次と母の注文が来るのであった。 「あした浜辺をざまよえば 昔のことぞしのばるる・・・・・・」 「タベ浜辺をもとおれば 昔の人ぞ偲ばるる・・・・・・」 「泉にそいて茂る菩提樹 慕いゆきてはうまし夢みつ 幹には彫りぬゆかしことば 嬉し悲しに訪いしそのかげ・・・・・・」 「この道」もなつかしい名曲である。「からたちの花」も歌った。二拍子と三拍子が入り乱れて難しい歌であるけれど美しい名曲である。九十四才の父はこの頃難聴になって自分で歌うと調子はずれになってしまう。ビアノでならば昔散々練習した腕によってメロディーだけの譜面でも美しい和音をつけて弾いてくれるのであった。皆現役の頃生徒達に歌わせたポビュラーな歌であったから。 も少し高い音域が出せれば少しはましに歌えるのに私は高い部分にくるとだめなのであった。そしてその曲のきかせ所は大抵高い部分においてあるのであったが、でも私がまわりに聞こえる恥もいとはずに声をはり上げて歌うと母は大喜びして、 「どうしてこんなに良い声で上手なのに今まで歌ってきかせなかったんだろうね」 と口惜しがるのであった。私もふざけて 「どうしてこんなに上手なんだろうね、誰に似たんだろう」 等と云うと 「それはこのお母さんに似たんだよ」 とこれも冗談で返すのであった。 以来私が母の好物のゴマ豆腐や煮物を作って母を訪れると食後には必ず歌の催 促をされる、母一人にきかせるコンサートであった。 「幾とせふるさと来てみれば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 門辺の小川のせせらぎも過ぎにし昔に変わらねど 荒れたる我家に 住む人絶えて無く・・・・・・」 竹町の家には幸い跡つぎの人が住んでいるのであるから喜ばねばならないけれど、今の本家の様子を見ると本当にガッカリするばかりなのであった。軒を貸して主屋を取られるとはこの事か、前面を見ると昔の石壇の部分と玄関が少し左手に残るが右手半分はまるで他人の家になってしまった。果物や八百屋の品物が実に間口の半分以上も占めている程、巾巾として八百屋さんなのであった。法律は借り手の権利を守り家主は自分の家でありながら一旦賃すともう自分のものでなくなったも同然であった。昔の隆盛を知る者にとっては情けないやら口惜しいやら、それを思うと母には又々癇癪の種になる。 「腹が立つやら情けないやらで私は思わない様にしてんだよ」 と云うので「故郷の廃家」の歌は私と父の間でも禁物となった。 ある日、父は母に賛美歌を弾いてきかせていた。母は若い頃賛美歌が好きでよく歌っていたということはきいていた。私はあまりよく知らないのではじめはただ聞いていたが、その曲の後半に入ってあっと驚いた。「また逢う日まで」ではないか。 「また逢う日まで、また逢う日まで、神のめぐみ汝が身を、汝が身をはなれざれ、アーメン」 私はこの頃土曜日毎に母を尋ねることにしているのであった。私も七十才になった今、疲れ易くて大して何もしないで帰るのに行ってくるとガックリするので一週間に一度というのが私の限度であった。この次また私が来るまで元気でいてほしいと心の中で願いながら別れて帰るのであった。そんな気持ちでいたのでこの「また逢う日まで」を歌ったら涙が止まらないのであった。 この歌の本当の意味は、こんど天国でまた逢う日をということか、又はただの別れの歌で神の祝福を願う意味であるのか私は知らないのであった。寝たきりではあるけれど母がいつまでこうして顔を見て話し合い、時には笑い、時には歌いしていられるか、いつもそう思って帰る私にとって父の何気ない演奏ではあったけれどもこの別れの歌に私は胸をつかれた様な気分になったのであった。 車の中で涙をふきふき家に帰ったもののすぐ台所に入る気にはとてもなれなくて、家のわきにほんの少しばかりある花壇のそばにうずくまってしまった。そして小声でまた逢う目までを繰り返し歌って泣くだけ泣いてから家に入ったのである。 一年前に主人が亡くなったときから私の涙腺はだらしなくなってやたらと涙が出る。人は年齢のせいだといって笑うのであった。 |