終わりに 

 一昨年の暮れから母の入院を機に母から祖父母のことをいろいろと間いて、それを少しづつ記録していた。書きながら私は昔の祖父母の面影をあらためて身近に感じたのであった。母が育った頃の様々な出来事を今まで少しは聞いて何となく承知しているつもりになっていたが、私ははじめて聞くことの方がはるかに多いのでぴっくりしたのである。この年齢になって母が入院するまで私と母の間でしみじみと昔のことを話し合ったことは少なかったのだなとあらためて感じさせられた。
 私は心からの感動をもって祖父母のくらしのありさまやいろいろのこと、そしてそれぞれの最後の模様を書きとめた。何の素養もない私にとって文は拙く、ろくに調べることもなしに書いたこの文は記録というにはあまりに不確かで文章というにはあまりに粗雑であるけれども、母の記憶による思い出話と幼い私の目にうつった世界はこんなであったという他はないのである。ただ書きたい気持ちにまかせて書いたというだけのもの、幸い弟が自分の知らないことがいっぱいあって面自いといってくれた。あの頃の昔を知る人に、また知りたいと思う人に読んでもらえれば良い。母の恩い出語りの中で昔の新発田弁での対話の部分はなかなかリアルで生き生きと場面が目に浮かぶ。ストーリーテラーとしての母の言葉に随分助けられた所が多い。
 大半は平成三年七月に一応終わりまで書いたが、後になってまた聞いた話もあるし、母の話も思い出がそれからそれへと飛ぴ火する様にうつってゆく。補足する分が少しづつ出てきて、どうにかまとまったのが今年の四月初めであった。
 数えて見ると今年は祖父の五十年忌の年にあたる。しかし誰も新発田までお詣りに行ける者はない。母は寝たきりであるし、父と妹はその世話に忙しく明け暮れている。私は及ばずながらその手助けに母の好きなお菜を持って時々通うのが精一杯であった。弟は東京でとぴ切り忙しい生活をしている。

 その日平成四年四月十四日、ありし昔を偲ぶことでささやかな五十年忌のつもりとし、私は丁度書き終えたこの拙い原稿を仏壇に供えて祖父母の鎮魂のよすがにしたのである。

 「臆面もなく自分史に涙する」一年前に或週刊誌の川柳欄に出ていた投稿句である。(失礼ながら作者のお名前は覚えていない)「臆面もなく」とズバリ自嘲的に言った所が面白い。なる程あり得る心情だなとその時は思ったけれど私の場合は違うのだという気持ちが強かった。自分のことに涙が出るほど感激しているわけではないとそのときは思った。
 しかし「祖母の最後」と「祖母の城」の所を書いているうちに私も涙が出た。祖母の晩年のざぴしい心情を思い、母の心残りの思いと私の至らなさを思ってその部分を読み返すたぴに何度も涙がにじむのであった。
 でも気がついてみれば母の両親のことだもの、私が祖父母のことを書いたのは広い意味で自分史なのだ、そしてこのなつかしさ慕わしさは勿論祖父母に対してではあるけれどその傍らに殆どいつも居た幼い頃の自分自身へのなつかしさ、いとしさでもあるのだ。祖母が梅干しを干しているそぼにしゃがみ込んで見ている私、米の虫とりを手伝っている私、台所のいろりで火を燃す手伝いをする私、祖父に燗徳利を運ぶ私、女の子であるから、そして小さい時は外に出て遊ぶことの少なかった私はいつも母や祖母のそばに居て何かの手仕事を見ていたのだった。年齢の差もあって同じ家に生まれても弟や妹が見ていたものより一しお鮮明に、又主婦としての祖母のはたらき様を私は女の子としてある程度は理解して見ていたと思う。なつかしい祖母の俤の中には傍らにいつも幼い自分がいるのであった。
 「臆面もなく自分史に涙する」の句は私の場合にも当らずといえども遠からずという事にこの頃やっと気付いたのである。


    平成四年四月十四日


目次に戻る     次へ進む