五十一、 水について(あの家の最後)

 祖父が火事にあって竹町へ来た時、屋敷内をあちこち何本も井戸を掘ってみたけれど一つも使える水は出なかった。(明治二十九年)
 「竹町は水の悪い所でね」と母は言ったが俗に言う金気(赤錆び)の強い氷で飲料はおろか庭木に水を撒くことも出来なかった。炊事に便う水がなければ一日も暮らせない。洗濯も赤錆ぴ水では出来ない、となれば水汲みは女の仕事であったからその頃の女中たちは大変だったという。練兵場の井戸まで水扱みに行くのであったから水道が引かれるまでなかなか難儀な労働であった。練兵場の北側にある井戸は良い水が豊富に出たから他の家からも汲みに行く人が多かったと母は云った。

 飲み水がその様であったから、まして風呂をたてることはやたらには出来なかった。母は幼い頃よくミイ祖母につれられてあちこちの湯屋へ入りに行った。普段は近くの有馬の湯とか下町の湯に行き、たまにはお諏訪様のあたりまで連れて行かれたこともあった。昔、お風呂屋は町のうちに何軒もあったもので風呂銭も安く皆が気軽に入りに行ったものだとのことである。
 あの辺りは加治川の伏流水もあるそうで水の悪いのは地盤のせいかと母は言うが本家の貞夫さん(今、本家というのは竹町の家のこと)によると竹町の屋敷はもと湿地を埋め立てた所であったらしい。祖父は先ず練兵場に向かった北西の角を少し手に入れ、だんだんと扇状に土地を買って埋め立てていったものらしく土地台帳にはその様子がありありと記録に残っていると言われた。祖父は草原で飲み水の井戸もなく、誰も住まなかった湿地帯であった所を安く手に入れたものであろう。そして家を建てるには充分に土を入れて整えたつもりであったろうが永い間に地盤が下がり昔の湿地であった地底から上がってくるしつこい湿気によって家がいたんだのである。

 私が育ったあの家は大正四年頃の普請ときいているが、いたみがひどくなったため昭和五十年から五十一年にかけて建てかえられたのであった。古い家を壊したとき座敷の下は土が沈んで雨水が溜まり池のようになっていたと貞夫さんは言われた。まず土台が腐ってきて床がボコボコになり敷居も鴨居も柱とのつぎ目がグズグズになっていたとのこと、築後六十年余り経たものであった。祖父の丹精込めた家も庭も自然の力と時の移ろいには抗し難いのであった。(当主貞夫さんの父小四郎さんが亡くなって間もなくであったらしい)
 私が三の丸校や外ケ輪小学校へ通った頃、その道筋にあたる竹町の途の北側に借行社とうちの間あたり一帯は窪地の湿地で丈高い葦などがぴっしりと生えていた。夏は草いきれでムンムンする中によしきりが来てギョギョス、ギョギョスとやかましいほど啼きたてていたもの、でも日暮れになると何かもの寂しい様子であった。しかし現在はもう立派な町並となり昔の湿地であった頃の俤はない。


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