五十、 母の松並木

 竹町の家のすぐ裏手に続く屋敷には少し古びてはいたが風格のある平屋建ての家があった。間数は大小合わせて十二・三室位はあったか、庭も広く小川添いに松が植えられていて外からの眺めも立派であった。屋根つきの門があり古びた門扉には重々しい感じに錆びた大きな乳形の鋲が横並びにいくつも打ちつけてあるのがいかにも昔の武家邸を思わせ重厚な感じを与えていた。
 「司令官やしき」とうちの人達は云っていたそうで新発田聯隊の代々の司令官がそこに住むことになっていたうちの貸家であった。聯隊長の官舎は三ノ丸に元の家老の邸とかで立派な家が別に有ったとのこと。やはり武家時代からのものであろうか乳形鋲を打ったいかめしい立派な門があったという。何人か代わられた司令官の中で宇野少将という人を母はよく覚えているとのこと、昌也と同年位の息子さんが居られたからかも知れない。
 道路をはさんで向かい側に昔は厩があって馬丁さんが馬を引いて朝に夕に司令官を送り迎えに通ったのであった。
 祖父がまだまだ元気な頃、晩酌の相手をする母に
 「シゲや、お前に裏の邸を呉れるすけな」
とよく言っていたそうでその外にも
 「瀬戸物でも掛け軸でも好きなものは幾らでも持っていけや」
と上機嫌に言っていた。まさかと思われる程の祖父の突然の死であった。
 その古い家と屋敷だけは母のものになったけれどあとは大好きであった祖父の記念にと欲しいものがあったにもかかわらず貰う事は出来なかった。それだけでも残念な思いがある上にとうとう母は長岡に住みつくようになってしまったので祖父からただ一つ貰った邸に棲むことも出来なかった。私達娘は二人共ここで結婚した。父が定年退職した後も新発田へ帰ろうか何度か悩んだ末にやはり長岡に居ることに決めたのであった。東京に居る息子も長岡なら来易いし娘二人もここに居る。祖父母がどちらかでも居れば又違ったであろうがもう誰も居ないのである。自分自身が決断したその頃は七十才近い位であったから、それは当然の事とは言え、皆代替わりして知人も殆ど無い。でも母の言葉の端端に祖父から貰ったあの邸に強く執着している様子はうかがわれるのであった。
 祖父がその土地を手に入れたときもう若い松が植えられてあったようだと母は云う。三十年位経って子供の私が見た頃にはもう丈の高い立派な松並木であった。母が帰りたくても帰れないでいるうちにあの強烈な第二室戸台風が吹き荒れて十三本並んでいたその松は塀ごと皆倒れてしまったという。昭和三十六年のことであった。

 余談になるけれど昔男子中学校があったあたり五十公野街道といわれた古い街道沿いに美しい立派な杉並木があった。明治天皇が北陸御巡幸に来られた折にその並木をお通りになり
「立派な並木である。あたかも京都の伏見街道のようである」
と仰せられたとか、その街遣の大杉も同じこの台風によって大半倒れてしまったそうである。

  松頼の恋しきあたり八重むぐら
  松風の絶えてさぴしき虫の声


目次に戻る     次へ進む