四十九、 祖母の城

 又後日にきいた話であるが、母は長両に住むようになってからたまに新発田の
家へ行くことがあった。でも、
 「私が行くと小四郎さが良い顔をしないんだよ」
と云うことであった。
 財産分与の事で何か文句を云うのではないか、あるいは祖父の残した絵や陶器の良いものを呉れとか言い出しはしないかと思っていたらしい。それで「何しに来た」とでもいう風に機嫌悪そうな顔をして無愛想な様子を見せる。
 「自分はただ年とった母に時には顔を見せてしみじみと話をしたり、元気づけたりしたいだけなのに変に気を回すのでそれが嫌だった。父が遺言もなしで逝ってしまってから腹の中では残念に思っても私はもう諦めて何も言い出さないでいたのに、そんな態度を見せられるとやはり面自くなくて自然と足が遠のいた
のだった」と云う。
 ミヨシ叔母が近くに居ながら足繁く来ることがなかったのも同じ理由からであった。昔から叔母と信子姉は気があわないのだったけれど小四郎さが来て、更に又祖父が亡くなってからは一層間遠くなっていった。気性の激しい叔母は近頃小西郎さの顔を見るのもいやと云うのであった。
 情けない話ではないか、家族水入らずでいたときはあのように信頼と愛情で密接であった親子姉妹の問糖が婿という他人が入ることによってぴぴが入ってゆく。どこの家でもよくきく話ではあった。それは婿に限らず嫁でも同じことであった。良い婿(嫁)が来て家庭内がしっくりゆくことはそれ以上の幸せはない。娘であれば婿を貰い縁組みをしなければ子孫の存続も繁栄もないのだ、いつまでも水入らずでいるわけにはゆかないのである。
 祖父の葬式のあと、税務署が士蔵の中を見せてくれと要求したけれど、小四郎さはどんなに上手に言いくるめたものか、それを断わってとうとう見せなかった。相続税は全部で三十六円で済んだとの事であった。(昭和十八年のことである)
 「あの人は利目な男でね、そういうことにかけては才能があったんだよ」
母はつくづくとそう云って驚いたのであった。祖父の残したものを失うことなく次代に引き継ぐ、これは大事な婿の勤めであった。そして男児二人、女担一人生まれて、その二点では婿の資格は充分であり期侍に答えたものであったと云えようか。
 しかし何年か経ってから土蔵の中の祖父の骨董品は殆ど売り払われてしまったという。或酒屋の好事家の手に渡ったらしいことを母は聞いたのであった。
 石川旅館の仲居をしている何とかという女といい仲であるという噂が耳に入ったのもその頃であった。母は何とも情けない気がして口惜しかった。「あんなに良いものがいっぱいあったのにみ−んな金に換えて、下らない女につぎ込んで遊んだんだよ」
 そう聞くとなる程と思いあたる、信子姉の最後の淋しそうな様子は裏にそんなことがあったのだなと思うわれた。
 しかしその小四郎さも、六十四才で肺癌のため亡くなったと聞いた。
 祖母のからだが弱ってきた頃、小四郎さと気の合わない様子の祖母に父が
 「長岡に来て私等と一緒に暮らしなさるかね」
と誘ったこともあったときくが、祖母は首を横にふって
 「ここが俺の城らすけどっこも行がね−て」
ときっばり断わったと云う。まぎれもなくあの竹町の家は永い女の一生をかけて祖父と共に営々ときづき上げた立派な城であったものを。祖母はあの家を美しい庭も含めて誇りに思っていたのだ。忍従の日々もあったには違いないが三人の愛娘の生長と祖父の経済活動の原動力として一日も倦まず支えて来たのが主婦としての祖母のはたらきであった。

 茶の問での祖母の様子の一コマを思い出す。私が五年生位のとき、親威の小母様が来て(祖父の妹)祖母と話し込んでいた。その時祖父はよそに出かけていて留守であった。いろいろと世間ばなしのあとで小母様が云った。
 「ほんにおっ母様もようやりなすったもんだねし、あの面倒なお父様に仕えて、このうちも立派に仕切って、大した働きでありますこっつお−」
 祖母が若い嫁であった頃、実家へ来ては勝手なことを云い、わがもの顔で振舞っていたこの小母様も今は祖母の永年にわたる実績に対して率直に認め一目も一目も置くようになっていた。丁寧なもの云いであった。祖母は
 「内助の功と云うての」
としづかに一言いってニッコリしただけでアレコレ云わなかった。今は自他共に語めるこの城の女主人であった。
 祖母の心の底にはここまでやり遂げたという達成感と自分自身に対してほんとによくやったよという満足感のようなものがあったと思う。そして楽しかった日々の思い出もいっばい詰まっているこの家、正しく祖母の城であった。


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