四十八、 祖母の最期(蝶々のように)

 位牌には昭和二十二年十二月十四日 宇野 八十二才 とあった。母は云う、
「私はどういうわけか誰の死に目にも会えなかったんだヨ。姉は東京の親戚の家に居るとき、スペイン風邪で一週間程で亡くなってしまった。父の時は自分は長岡に居て突然知らせを聞いて驚いた。信子の時も一度見舞いに行って一旦帰ったその間に亡くなった。母の時も亡くなるときそばに居て上げられなかった。寝た切りになったのを聞いていながらなかなか行けなかった。」
 敗戦後間もない昭和二十二年の頃はまだまだ食料難の時代であった。母は自分の家族五人分の毎日の食事の世話で手いっばいである所へ親戚の娘、知人の娘等を次々と世話をしなければならない羽目になり、少しの空き地を借りて芋を植えたり米や野菜の買い出し等一日として気を抜く事は出来なかった。皆がそれぞれ必死の思いで生きている時代であった。父もまだ現役で忙しい暮らしをしていた。
 祖母は八十二才の生涯の最後の年をどんな思いで暮らしたことだろう。姉娘が早く亡くなった後、何かにつけて二女である母を頼りにし、話相手とし、心の支えであったと思われる。いざという時はなかなか威勢の良い娘であったから。それが県内とは云えそう度々会うこともかなわない距離にへだてられてどんなに淋しかったか。その頃竹町の家では信子姉の残していった子供達がなかなか賑やかにしていた。自分には娘だけしか生まれながったがやっと男の曾孫が出来ていた。女にとって日々の暮らしは煩いでありながら又救いでもある。家の中の仕事、しなければならない事は或時は嫌であり、一面忙しくからだを動かすことで気が晴れることもある。でもからだが元気な時はそれでいい、そして歳月が次第に悲しみを癒してくれる。片ことでまつわりつく幼い者達の愛らしさは祖母にとって救いであったと私は思いたい。けれども八十才という年齢では又煩わしさでも負担でもあったであろうか。
 小四郎さという信子姉の婿とはあまり気が合わない様子であったと聞く。利口な人であったが何か気を許せないような所もあり、そしてやはり婿は気を遣う相手であった。殊に晩年になってくると心を許して語り合える人と近く居たい。シゲは長岡に居るのだからいざとなったらハガキ一枚出せばすぐ飛んで来る。きっと来てくれる。そのうちにそのうちにと思いながら自分は寝込んでしまえばなかなか思うにまかせない。母も思いつつも行けないでいるうちに悲報が来てしまった。

 祖父の時にも一通りでない悲しみであったが、祖母の時は又それ以上に涙が出て止まらなかった。寝込んだのを聞いていながら母はどれ程そばにいて上げたかったか、それが出来なかった悔いと生涯いつも変わらず優しかった祖母との永遠の別れが非常に辛かったという。でも人は皆愛する者といつかは辛い別れをしなければならない。
 私は本当に何も知らない女であった。この様に大事なことに気かつかないなんて迂闊と云うか馬鹿というか。祖母の訃報を聞いたのに私は弔いに行かなかった。あの様に慈しんで育ててくれた祖母に最後のお別れの挨拶にも行かないなんて。
 その年に私は結婚したばかりであった。焼け出されの夫と義弟夫婦と亡姉の遺児二人と一緒の暮らしで、始めは間借り生活、夏には乏しい建材を集めて家を建てにかかり、十月末に現在の所に引っ越した。木造二階建てであったが二階は形だけで階下に粗壁のまま畳、戸障子を入れてとりあえず住んだのであった。
 終戦の年、昭和二十年八月一日の空襲で町は八割焼けたのであったから、長岡の暮らしは資材といい生活物資といい食糧といい無いものだらけの中で、いくら米所といわれる新潟県内であっても、ほかの町に比べてなかなか大変であった。今がら思えば若さだけで皆よく頑張ったなと思う。
 国が戦いに負けたのだもの、山河が有るだけ幸せ、いのちが有るだけ幸せ、実際戦死した人、戦災死した人、数多い中で残った者は皆同じ思いであったろう。勢い、しばらくは今目、明日の事、自分達の目の前の事しか見えない生活であった。その年の十二月祖母の死を聞いて私は何が遠い出来事に感じていた。そして母は私の暮らしぶりを見ていて
 「お前のとこも大変だすけ行かんでいいて、私が行くから」
 「杉浦のうちから出た人間だすけナ」とも云った。
お前はもう堀田の人間なのだからと云うわけであった。夢中で過ごして来た若いうちはともかく、私の心の隅でこの事がずっと気にかかっていた。祖母の逝った年齢に近くなって来た私は今この時のことを思い出すたぴに胸が痛くなる様な済まなさと自責の念に駆られる。

 先日私は母に整理するよう頼まれて二階の箪笥をあけてみた。昔なつかしい母の着物数枚の上に紫の縮緬の袱紗に包まれたものが大切そうにしまってあった。祖父からの手紙一枚、ハガキ一枚、それにはじめて見る祖母の手紙が一通あった。昔の事とて巻紙にやまとがなまじりの読み難い筆のあとであったがわからぬ所はとばしながら読むと村杉温泉へ行っている母に宛てた手紙であった。
 「ゆっくり養生して元気になるように、勉にもよろしく云うてくれ。私はいろいろ言いたいこともあるけれどお前が帰ってからにする。私は毎日お父っつあんにこごとばかり云われておこられながら蝶々のように忙しく働いています」
等と読まれた。この最後の行を読んだ時、どういうわけが私の頭に悲歌の高音部が悲鳴のようになりひびいた様な気がして胸がせまり涙が出そうになった。
 使用人や近所の人や親戚や物売りに到るまで御大家の主婦として敬われ、おっかさま、おっかさまと立てられて私達へも柔和な温顔しか見せなかった祖母にも若いときは辛い思いもあったのだなとその時ハッと気がついたのだった。
 思い出してみると祖父はなかなが口やかましい人であった。家の中の事でも座敷の片づけ方でもああせいこうせいと指図して自分の思い通りにして置かないと気が済まない、そして気短かな人であった。
 世の中には大した働きもないくせにうちの中では妻子に威張りちらし、はては暴力をふるう父親がある中で、祖父はなかなか稼いだ人であった。家を経済的にしっかり支え、大きな家と美しい庭をつくり、また親戚や友人との交際も落ちなくつとめ、祖先のまつりや年中行事は率先して行ない、いわゆる男の勤めをしっかり果たした人であった。子女の教育にも熱心で立派な家長であった。そして厳然たる家長としてその家族に対しても君臨していたのである。
 自身は茶道、生け花に一通り以上の教養を持ち、古美術にも目が利くなかなかの人であっただけに多少口やかましくなる位仕方がない。
 それでも感心なことに祖父は女中を怒鳴りつけるとか番頭に怒るとか云う事はない人であった(女中の代わりはいくらでもいる時代であったが)。おこられるのは専ら祖母であった。この事を裏返して考えれば祖父は家中の責任者として祖母を重んじていた証拠ではないだろうか。そして祖母はそんな祖父によく仕えて蝶々のように翅を休めるひまもなく身を粉にして働いた人であったのだ。

 八十二才という永い女の一生の中で昭和十八年に祖父を送ったのは祖母七十八才の時であった。自分にやかましく言った人の口はもうもの言わなくなってしまった。もう怒られることもない。でも永い年月を一緒に苦労して来た人だもの、この家を作り盛大に経営し娘達を大きくし、それぞれ結婚させて孫も何人か出来た、苦しいこともあったし悲しいこともあったが一緒に乗り越えてきた。そして楽しい日々もあった。その相手に逝かれたのだから寂しかったであろうことは云うまでもない。
 祖父の葬儀の後、間もなく四十九陰が来る、一周忌、三周忌と次々と忌を修しでほっとする暇もなく今度は自分が寝ついてしまった。(その年の三月に信子の死を迎えたのであった)
 末娘であるミヨシ叔母はそう遠くない所に住んでいたがたまに来ることはあってもしょっちゆう祖母の世話をしに来るということはなかった。(それには理由があったのだが)家にはまだ女中も居た。でもあの武勇伝以来かげになり日向になりして常に祖母の強い味方であったヤンチヤ娘の母に会いたいと思っていたに違いない。手を握って背を撫で、
 「おばあちやましっかりしなせえて、また元気出してサ」
等とはげまして力づけてくれたら、ああせめて顔が見たい。母は今その時のことを思うとやるせない辛い思いがするという。私こそ今頃位牌に手を合わせても甲斐がないような気がしてならないのであった。
合掌。


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