四十七、 信子姉のこと

 「信さんも不幸な娘でねえ。淋しそうに縁に佇っている姿が目に浮かぶよ」と母は云う。生まれて二歳位で父に去られ七歳で母は亡くなり、祖母と叔母にあたる私の母に育てられたのであった。
 自分のことをママさんと呼ばせて母はよく面倒をみた。小学校へ入るときも母親代わりにママさんが連れて行った。勉強の世話もよく見てやって女学校へ入る時は少し先生の所へ通わせたりもした。後に私共が大津へ行ってからも夏休みに帰省する時は必ず帯とか服生地とか娘らしい土産物を忘れなかった。
 少しだらしが無いような所もあって外から帰って脱ぎかえた着物や帯が二・三日も衣桁にひっかけたままという事がよくあった。箪笥から美しい帯がはみ出したままというのも時々見たことがある。ミヨシ叔母はなかなかテキパキした人だったからそれが気に入らない。
 「サッサと畳めば−。いつもあんたはだらしがないんだョッ」
音葉鋭く叱号つけるのであった。言われるとすぐ信子姉は怒っで泣きわめく。
「叔母さんは私のことばっかりすぐ叱るんだよう」暫く泣いでいるのであった。
 私達の居間の隣に四畳半の次の間があって大きな衣桁が据えられていた。今の様な祈りたたみの出来るものではなく太い木でどっしりと出来た大きなものであった。何分女達の多い家族であったから、また昔は皆普段でも着物であったからちょっと脱ぎ替えた時にはそこに掛けるのだった。そしてついつい掛けたままになり勝ちであった。またこれを着るから等と恩うので。

 二十七歳の時であったか小四郎さという婿を迎えた。木崎村芋黒の農家の出身で日大を出て営林署に勤めている人であった。やがて男の子二人女の子一人に恵まれた。

 私達はその頃長岡に暮らしていたのであったが或日思いがけなく新発田から八ガキが来た。家の前を借りて店を出している八百屋の主人からであった。 「信子さんがちょっと風邪をこじらせた様で一月ばかり寝ていなさるがお前様に是非逢いたいと言うていなさるからお知らせする。なるべく早く来てあげて欲しい」と書いてある。昭和二十二年三月の事であった。母はとり敢えず新発田へ向かった。県内といっても新潟までは便も良く早いけれどもその先がながなか時問もかかるのであった。
 寝間に敷かれた床に並べて二箇月程前に生まれたばかりの女の子も寝がされていたが、信子姉は母の顔を見ると涙を流さんばかりに懐かしそうに喜んだ。やんちゃ盛りの男の子二人が寝ている母親の回りをとびまわるようにして遊んでいた。なかなか大変だなと思ったが顔を見るとそんなにやつれていない様子であった。遠い便所まで行くのが大儀そうだったので便器を便って小水をとってやったらああ楽だといって喜んだ。
 「明日昌也が仙台へ発つことになっているんで今日はとりあえず長岡に帰って支度をし、明日出発させて明後日また来るよ。元気になるまで私がしばらく居てやるからね」

 息子を仙台の二高に出発させて翌日、母は約東通り新発田へ行く用意をしていた所へ危篤の電報が来た。あっけない死であった。子供達も幼いのに心残りであったろうと母は悲しんだ。
 小四郎さが母に云ったそうであるが、昨日がらだに良いかと思って私がお灸をすえてやったのでそれがかえって悪がったかと思うという話であった。熱がある時のお灸は絶対禁物なんだよと母は云う。後になって云ってもせんない事であった。
 竹町の家の北向かいに西先生という内科のお医者が居られて母は葬儀の後で話を聞かせてもらった所、激症の結核ですねと云われた。栗粒結核というのであろうか。三人目のお産の後で少し体が弱りぎみの所へ罹病して一ケ月程であった。それで顔つきもあまりかわらなくてかえって可哀想だったよ、と母はしみじみと言つた。
 亡くなる前前目、彼女が寝ている枕辺で母はそっと尋ねた。
 「小四郎さは優しくしてくれるかェ」
頭を横に振って「冷たいんだョ」と云った切り目が涙になったと云う。年は三十三位であったろうか、哀れ深い短い生涯であった。


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