四十五、 祖父の死

 その朝祖父は六時頃小用に起きた。台所に三本程牛乳が配達されていたのを見て、仕事をしていた女中に
「この牛乳は何でのむんだ工」と聞いた。
「これを飲むと身体に長いと云いますわねし」
「そうか俺もひとつ飲んでみよか」
と祖父は冷たい牛乳を一本のむと、
「まだ早いすけ、もうひと眠りだな」
といって寝間へ戻った。十時過ぎ祖母が今日は遅いなと思って見に行ったらもう息がなかった。下顎の義歯がはずれてのどの奥の方に落ちていたので、祖母は掴み出してお医者を呼ぴにやった。心筋梗塞だということであった。
 杉浦貞吉 八十才、安らかな眠ったままの最後であった。誰も知らない死であったが少しも苦しそうなあとは無く本人としては病床の苦しみも経験しない一番幸せな逝き方であったのではないか。

 一方残された祖母はじめ家族一同の悲しみと狼狽は大変なものだった。
 母は長岡の桜木町の家でその報せをきいた。全身が震えて箪笥の引き出しが開けられず、お向かいの多田さん夫婦に来てもらって喪服を出して用意し着物を着せてもらうと飛ぶ様にして汽草に乗った。
 昭和十八年四月十四目の朝であった。その年太平洋戦争は三年目に人ったがまだ敗戦の様子はなく祖父は無二の楽しみである晩酌に事欠くようなことはなかった。前の晩もいつもと変わらず庭の散歩を楽しみ晩酌を楽しんで寝たのである。その項は長女キヨノの遺したた一粒種の信子に小四郎さという婿をもらって待望の男の子二人に恵まれ(後に女の子も生まれて)、祖父にとっては曽孫が男児二人とあって家内も賑やがになり喜んで居たのではなかろうか。私共一家はその頃長岡に暮らしていたのでその精しい様子はあまり知らない。
 母は一生敬愛してやまなかった父親の最期に逢えなかった事を後々までも非常に残念がった。そしてその年に祖父が大切にしていた庭の大松は肝心の頂きの芯の部分が枯れて
「見る影もない姿になってしまったよ」と。
それも不思議な廻り合わせに思われた。

 「ホントに八十にもなって遺言も書いて置かないなんて…」父親に対する敬慕の情の外に怨みがましい母の本音がチラチラするのであった。生前あんなにシゲちやシゲちやと言われて信頼と愛情に満ちた父娘の問柄であり「財産もお前にいっばい分けて呉れるすけな」と云う父親の言葉を信じていたのに亡くなった後には何の書いたもの一枚遺されていなかった。「別に欲ばるわけではないけれど、三人姉妹であったからせめて三分の一位は貰っても良いのではないか。松ケ崎に土地もあったし町うちに貸家が十五軒程あった。土蔵の中には美術館が出来るほど(少しオーバーだと思うけれど)書画骨董の良いものがいっぱいあったんだよ」 母は残念そうに言うのであった。
 祖父の急死により当時の事であるから長女キヨノの一人娘信子夫婦が当然跡を継ぐことになった。祖父が生前シゲに呉れるぞと公言していた通称司令官やしきだけは母のものになつた。

 ミヨシ夫妻は既に尾ノ上町に邸をもらいそこ仁住んでいた。
「あの娘は少し成績が心配でね。女学校へ上がる時は個人的に勉強をみてもらう為に先生の所へ通わせたんだよ」と母は信子姉の事を思い出す。それで祖父は一時信子夫妻にほかに商売でもさせることを考えて私達夫婦(勉、シゲヨ)にうちへ入って呉れないかと話があったことがあると云う。父はそれを断わった。自分は音楽の道に進むつもりであったし、あの財産を管埋し運用してゆくという才覚もなく興味もない。自分には向いていないと思った。又世間によくある揉め事の種になるのも嫌であった。
 次にミヨシ夫婦の所にもその話があったが、姉夫婦が断わったものを何で私達が出来ようかと云う事であった。

 「あの子ってなかなか欲の強い子でねェ」母の言葉はだんだん容赦なくつづく。
信子姉は強く自分がこの家と財産を継ぐことを主張した。あの時代ならそうなるのが当り前で仕方がないことであった。相続の法律が変わったのは戦後の事であり農地解放があって地主でもなくなってしまった。
 「それに小四郎さという婿は頭は良い人だったけどね。あの財産目当てに来たらしいんだよ」と母は良く思っていないのであった。あんなに有った美術品も皆勝手に処分したらしいし、どうなった事やらと情無い顔をするのであった。
 栄枯盛衰世のならい、また驕る平家は久しからずとも言うではないか、殊に敗戦という激動の時代を経たのである。地主制度もなくなった。盛大であった祖父の時代から見て今は曽孫の代になっているのであるから様子が変わるのは致し方ない事であった。血筋を引いた子孫があの邸に棲んでいるがら良い方だと思わなくてはならない。他人の手に渡ったのではないのだから。
 でもあの美しい庭がただの薮のようになって
 品格のあった大谷石の塀が半分になって
 半分は八百屋の店に取られた恰好になって
 広かった家は小ぢんまりと建て替えられて
(実際に今住んでいる人にとってあんなに大きな家は大変だと思う。女中が居なくては掃除も満足に出来ないとは思うが)次々と母の嘆きの種は尽きないのであった。


 祖父にはふしぎに女の影が感じられなかった。不思議にと云う言い方は変だけれど、昔は多少金に余裕がある男は大抵遊んだもの、女の一人や二入位そこいらに置いて時々行って遊んでくる等、よそではしょっ中きいた語であった。祖父の仕事は旅暮らしが大半であったが帰ってくるとゆっくり家にくつろいで庭を眺めて楽しみ、タ方からは祖母の手料理で晩酌を楽しみ、謡をうたったり、子供達に昔噺をきかせたり、時には一杯呑み終えてから母達を連れて活動写真を見て来たり、又夜は拒燵で講談本を読んだりして割と早く寝てしまう。外で遊んでくるという風は一切見えなかった。もっとも私はまだ子供であったからわからない事もあったかも知れない。

 最近になづて母にその事をきいてみたら「そうだね−私も聞いたこともないし気がついたこともないけれど本当の所はわからないね−」という。でもかりに女が居たとすれば祖母の素ぶりに感じられるものではないか。子供の私にわからなくても少なくとも母や叔母にはわかると思うのであるがどんなものだろう。庭といい古美術品といい、茶器や掛け軸に至るまで品格のあるもの、美しいものが好きだづた祖父の美意識はその私生活に於いてもキレイなものであったのではないか。一口にそう割り切れないのが男と女の問ではあろうけれども。そう思うのは大好きであった祖父に対する私の贔屓目というものであろうか。


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