四十四、 いろいろのこと

1.柿の花が落ちる頃
 何月頃のことだったか今思い出そうとしてもはっきりしない。多分六月頃、晩春か初夏の頃であったか、庭の東の隅に丈の高い柿の木が二、三本あって、その頃に花が咲いてちょっと風が吹いた翌朝など、庭に柿の花がずいぶん散らばっている事があった。いわゆる柿色で可愛い筒型の花がいっばい落ちているのを捨って紐をもらって通したりして遊ぶのであった。親ゆぴの先位の大きさで子供が玩ぶのに小さすぎず大きすぎず、甘い香りがして柿の実と同じ柿色であるのが何かなつかしい。
 母がまだ女学校の生従であった頃、秋に柿の実が熟れるとそれをもいでたべるのが母の楽しみであったという。その項同い年の女中が居て、母が学校から帰ってくると待ちかねていて、「シゲヨさま、柿もぎましょうて」と云う。二人で台所の屋根に上がって柿をもぎはじめるのであった。以前は台所が庭の東側にあった。「三人姉妹のうち、そんなことをするのは私だけだったからね、女中にも人気があったさ。」等という。おてんば娘であった。そして女中と腹がパンパンする程食べたという話であった。


2.蚊帳
 夏が近くなってくる頃「ゆうべは蚊がいてよう寝らんねかったわ」と誰かが云い、「そろっと蚊帳出さんばならんのう」と祖母が云う。女達は蔵の中や長持から幾張りか蚊帳を出して来て陽に干し風を通すのであった。蚊帳を吊って寝るというのも今から思えばうっとうしいものであった。署苦しい夏の夜、蚊帳もいやだけれど蚊がくると眠れないので仕方がない
 吊ったばかりの頃は何かもの珍しくて子供たちはやたらと出入りしたもの、寝床に入ってからもまた水を一バイほしいとか、おしっこをしてくるとか何度も出入りしてそのたびに母は蚊帳の裾をゆすって素早くからだを入れさせる、何人もがそんなにしているうちに蚊がまぎれ送むこともあって眠ろうとすると頬のあた
りにプーンと羽音がする。蚊のなく様な声と小さな音の形容に云われるが、これがながなか気になってねつかれない、放っておけばあちこち刺される。「蚊がいるよう」と支句を云うと「あんたたちが何度も出入りするすけさ」などと云われる。母はローソクをともしで蚊の居そうな隅の方を探してとってくれるのであった。
 蚊帳は緑色の麻布に赤い綿布でしっかりと縁を回して縫ってあり四隅は吊り紐と鐶がついている、寝間の四隅には全具が打ってあり、十センチ程の割箸がひもで下げてあった。蚊帳を吊るときには鐶をそれに引っかければよい。
 蚊帳を吊るのは母や叔母の仕事であったようだ。又朝それをたたむのは箱をたたむ要領で、ちょっと子供の手に負えるものではなかった。
 子供の頃私はよく熱を出した。水枕をさせてもらって一晩中ウツラウツラと寝苦しい夜を過ごして明け方になると熱が下がる、蚊帳をたたんでもらう頃にはすっきりとした気分になったものであった。蚊帳をとりはらったときの涼しいさっばりした気持ちと熱がとれた朝のはればれとした気分とが妙にセットになって思い出される。
 客用の蚊帳は白で水色の裾ぼかしの涼しそうな色合いだったように覚えている。


3.籐椅子
 母は藤製の長椅子を持っていた。いつ頃買ったものか判然としないが、私の子供の頃、母は愛用していたもので、妹が生まれる前後少し体調をくずしていたことがあったのでその頃求めたのかも知れない。背もたれから足の部分が少し斜めで身体に添ってカーブしていて寝心地が良い、夏は特にそれにかけると涼しいので喜ばれたものであった。
 土蔵の前から母屋の廊下へ続く庇の間が五坪程のコンクリートのたたき仁なっていた。中庭がその北にあったので涼しい場所であった。夏は私達子供もよく遊び場にしていた所だが、そこへ藤椅子を据えて母は例の自分で縫った簡単服を着て夏の午後のけだるい様な時をその上で過ごすのであった。それはしっかりと作られたもので綾織りの目で編まれたこの藤椅子を母は大切に使っていた。子供たちが乱暴によじ昇ったりすると大事にしてねと注意される。
 母のたっぷりとした体格ではクーラーもない頃のこと夏の暑さは耐え難いものであった。いよいよ暑くてたまらないとき、母は一計を案じ涼をとった。服のボタンをつ一はずして肩と胸を少しはだけた所へ手拭をぬらしてかけてこの椅子で寝るのである。北風を受けてそうしているとひえびえとして暫くは涼しい。「あ
あいい気持ち」。しかしこの光景を祖母に見つがると母は叱られたものである。
 「お前、そんげなことしてからだに悪りいすけやめらっさい」
 「からだ冷やすと毒らすけナ」
祖母にとっで家族の健康は何ものにも増して守らねばならないものであった


4.米の虫
 裏庭にある米倉の白壁のそばに月見草が五、六本あって夏には夕方になると黄色い花が次々に咲く、四弁の花で、真っ平らでなく少し盃形にひらく姿が良い、ほのかでやさしい花であった。祖母が植えておいたものだろうか、誰も世話をする様子もなかったが、毎年子供の丈程に草丈が仲ぴて良い花を咲かせたのを覚えている。
 倉の米は夏を越すと味が落ちるので早めに出荷されたものであったが、自家用の米は秋のとり入れの時までの分を余分に見てとって置くのであった。当時米は俵に詰めてあり、今の様に厳重な管理ではなかったので虫がつき易いのであった。
 「米の虫取らんばならんすけ、ちいと手伝ってくたさいや」
祖母が天気の良い日に裏庭に筵をしいて米をひろげると黒い小さな穀象虫がチラチラ出てくる。又小さな蛾になる長虫がいることもあった。米に虫がつくとご飯の味も香りも悪くなるので虫とりはおろそかに出来ない祖母の大仕事であった。
 虫とりを終った米は母や私が手伝って台所の脇の米櫃に入れる。米櫃にはネズミ対策としてしっかりとブリキが張りめぐらしてある。米を磨ぐときも注意が要る。虫がいれば水に浮いてくるので流すようにしで気をつけるのであったがたまにはご飯の時、
「ヒャー虫が入っている、いやだぁ」ということもある。
母は「だまって小皿のわきに出しておけばいいて」と云う。
「よく見てとったんだろものう、悪かったの」と祖母は云うのであった。秋になって新米が出たときのご飯は香りもよく美味しいものであった。


5.初秋
 ご飯をたく時はかまどに火を焚き、その火を囲炉裏にうつして味噌汁の鍋をかける。魚を焼くときは竹串を便って囲炉裏の火のまわりに刺して焼くこともあり、コンロの炭火を便うこともあった。とにかく火を燃やすことは台所が自然と汚れるもので気をつけていても灰が散ったり煤が舞ったりするものだから広い台所は三度三度食事の片づけが終わると雑市がけをして常に拭いて置かねばならない。怠ると人が行き来する度に家中が汚れることになるのであった。又流しが床と同じ高さに作られた低い流しであったから膝をついて洗いものをするとどうしてもまわりの板の間が濡れ勝ちになるのでやはり手まめに拭いて置かねばならない。黒黒と拭き込まれた台所の板の間はすべすべとして素足に快いものであった。女中も居たけれども主婦としての祖母のたゆまぬ手入れのたまものであったと思う。
 夏も終わりの頃、朝起きて台所へ出て行くと板の問を踏む素足に少しひいやりとした感じがしてオヤ、と恩うことがある。あついあついと云い暮らしでいた昨日までは感じながったことでそろそろ涼しくなるかな、等と思うのであった。 味噌汁は夏は大抵茄子汁と定まっていたが、たまに夕顔のくずかき汁やくじら汁もあった。お盆過ぎの頃になるとなす汁に茗荷の刻みが入っていることがあった。子供のときは特にその様なものはどれ程美味しいとは思っていないのだったが独特の香りが季節の変わり目を感じさせる。初秋に入ってゆくときの徴妙な感じが好きなのであった。


6.松籟
 庭の植え込みの木木はその時々の風に応じてざまざまに響き合うのであった。初夏の風は高い松の枝を渡るとき軽やかなさざめく様なさわさわという音を立てて通り過ぎた。秋になると梢の秀を撓らせてざわざわと鳴らして通っていった。
 初冬に入りやや荒れ模様の強い風が吹き続けるときはこうこうと響き合う様な音に鳴るのであった。そんなとき昔は朝起きると口口に言うのである。
「ゆうべは吹きましたねし、おっ母さん」と母、
「ほんだのう、ひと晩中こうこうと鳴ってたようらなあ」と祖母。
 風が吹き荒れたあと翌日あたりに裏庭に出て杉山のうしろへ廻ってみると杉の枯枝があちこちにたくさん落ちているもので、それを大きな篭に捨い集めてくる。乾いた杉の葉はよく燃えるのでかまどの焚きつけにするのであった。


7.鶺鴒
 寒い冬の日、雪が小やみになった昼ころなど、池の畔に鶺鴒がくることがあった。つばめの様に背が黒く独特の長い尾を叩く様に上下させて石の上をあちこち渡って歩く、この鳥がくると小さな生きもののリズミカルな動作が白一色の静かな庭に何か生き生きとした表情を与える。
「あ、まだいるよ」などといって母達とガラス戸の中からしばらく見ているのであった。


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