四十三、 歌

1.手遊び
 セッセッセーで始まる女の子の手遊びには私が子供の頃は水師営の会見という日露戦争が終わった時の歌がよく歌われた。

  「旅順開城約成りて
   敵の将軍ステッセル
   乃木大将と会見の
   所ばいずこ水師営」

 4/4拍子を勝手に二拍子に変えて一拍は目分の左掌をたたき二拍目は相手の掌をたたきして、二人でも三人でも出来る、どういうわけかあの頃はセッセッセーをする時は皆この唄であった。八番まであってよく憶えている。冬は外の運動場は大抵雪に被われてしまうので女の子達は休み時間になると屋内運動場のあちこちにグループを作ってセッセッセーをしたりお手玉をしたりして遊ぶのであった。
 戦後に姪達が遊ぶときは「夏も近づく八十八夜」の茶捕み歌や「一かけ二かけ三かけて、四かけて五かけて橋をかけ、橋の欄干腰をかけ、遙か向こう眺むれば、十七・八のねえさんが花と線香手に持って」等と唄ってだんだんと手を早く動かしてゆくのであった。「コレコレ姉さんどこ行くの、私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です・・・・・・・・」あとはよく分からない。


2.戦友
一、 「此処は御国を何百里
    離れて遠き満州の
    赤い夕腸に照らされて
    友は野未の石の下」
二、 「思えば悲し昨日まで
    真っ先躯けて突進し
    敵をさんざん懲らしたる
    勇士はここに眠れるか」

        〜

十三、「筆の運びは拙いが
     行灯のかげに親達が
     読まるる心思いやり
     思わず落とす一と滴」

 よく練兵場に夕方、兵隊さん連が環になって行進しながら歌っている軍歌であった。他にも軍歌がいろいろ唄われたけれども勇壮なものが多い中、この歌は短調のメロディーとしみじみとした歌詞が大好きであった。この歌をきく度に歌詞を少しづつ覚えて小さな手帳に全部十三番まで書き付けで置いて、たばこ店の店番をしながら小声で唄ったりした。殊に初めの章と終章の詞の哀切さとメロディーの物悲しさが軍歌らしくなくて好きなのであった。


3.流行歌
 竹町から大通りへ出る手前の小路にカフェ等がゴチヤゴチヤと並んでいる一帯があって前を通ると賑やかにレコードが鳴っているのがきこえた。白いヒラヒラのついた独特のエプロン姿の女給さん達も見えた。

  「昔恋しい銀座の柳
   仇な年増を誰が知ろ
   ジヤズで唄ってリキユルで更けて
   明けりやダンサーの涙雨」

 美しいとも良いとも全然思わながったが流行歌というのは何となく調子が良くて覚え易いので聞くとはなしにきいているうちにいつの間にか覚えてしまった。家では台所で女中が唄っていることもあった。私が何気なしに唄うと父母に厳しくしかられた。そんな品の悪い唄なんか唄うもんじやない。他に良い歌がいくらでもあると。特にモーツァルト、ベートーベン、シユーベルト、ショパン等々懸命に音楽の勉強をしている父にとって娘が流行歌を唄うのはもってのほかであった。
 それでも何とはなくうちとは別の大人の世界を覗き見る様な興味があって禁止されるとよけいに覚え込んだりしたけれども今は大半忘れてしまった。断片的に覚えているのは

  「女給商売サラリと捨てて
   可愛い坊やと二人で暮らす
   抱いて寝かせて母さんらしく
   せめて一夜の子守唄」

  「山は高いし野はただ広し
   一人トボトポ落ち行く先は
   どこの国やら果てさえ知れぬ」

  「逢いたさ見たさに怖さを忘れ
   暗い夜道をただ一人
   逢いに来たのになぜ出て逢わぬ
   僕の呼ぶ声忘れたか
   あなたの呼ぶ声忘れはせぬが
   出るに出られぬ篭の鳥」
等々であった。

父のいう通り小学校唱歌には良い歌がいっばいあった。おぼろ月夜、我は海の子、冬景色、春が来た、砂浜等なつかしい。また家では荒城の月、城ケ島の雨、故郷の廃歌、庭の千草等、母達が良く歌っていて私も好きな歌であった。


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