四十二、 講談本

 若い頃からけっこう教育ママであった私の母は、私が三年生の時に弟昌也が生まれたので、私への関心が当然のことながら赤ん坊の方へ行ったわけであった。
弱かった私の体も丁度その頃からだんだん丈夫になって来ていた。大人の関心がうすれたのを良いことに私は勝手気ままに遊び呆けていた。近くの練兵場へは晴れてさえいれば毎日のように行き、学校の友達とも少しづつ行き来していた。そして高学年になると煙草店の店番を云いつけられることもあったが暇を見つけては西陽の射す物置き同然の室に祖父がさんざん読み古した講談本が山積みになっていたものの中から手当たり次第に引っ張り出して読むのが楽しみであった。大人に見つかるとそんなものは子供の読むもんじゃない、等と言われそうでこっそりと夏などは汗をかきかきだれも来ないその西向きの部屋で読んでいたものである。

 その頃漢字には大抵ルビが振ってあったのでよく分からないなりに読むだけは読めたのである。そして読んでいると凡その察しはついて何となく大体はわかるのであった。
 講談ばなしは大しでむつかしい話ではなく剣豪小説、補物帳、武勇譚等の類であった。でも片っ端から手当たり次第の乱読は後に国語の読解力の多少の助けになった位で大したことはなかったけれどもまだ教科書に出てこない字も割に知っているようになった。
 塚原ト伝の鍋蓋試合とか宮本武蔵の巌流島の決闘とか幡随院長兵衛の侠客ものとか、柳生但馬守宗矩とか、又赤穂浪士の仇討ち等、押川春浪の胃険愛国小説や黒岩涙香の本もあった。
 母は子供の情操教青のために小さい時はコドモノクニや子供の友、少し大きくなってからは鈴木三重吉の童話とか、ギリシャ神話の子供向けに書かれたもの等、私に買って与えたのであっだ。勿論そういう本は読んだけれどもいつの間にが講談本など読み耽っている娘を誰も知らないのであった。肘をついて夢中になって読んでいて畳のあとがくっきり付いていたりする。夕飯の頃にはちやんとお腹が空くので知らぬ顔でご飯の部屋へ出て行くのであった。
 疾風迅雷、絶体絶命、天地開闢、針小棒大、荒唐無稽、苦心惨憺、断腸の思い、天変地異、猪突猛進、文武両道などであって何の脈絡も無いけれどただこんな字が読めるようになっていったのである。そして、
 馬子にも衣装 とか、
 立つ鳥あとを濁さず とか、
 情けは人の為ならず
等昔から言い慣わされた言葉使いも少しづつ覚えたのであった。


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