三十八、 小学校

 私は子供の頃大人ばかりの家の中で過保護に育てられて、ぐずでメソメソで冬は風邪ひき、夏はお腹をこわしてどうしようもない子であった。従姉の信子姉が私が生まれた年の春に小学校一年生で丁度その頃流行していた百日咳にかかってしまい、それが私に感染したのでそれから身体が弱くなった、と母は云っていた。
 父が病気療養で実家に帰っていた事もあり、祖母は祖母で母に
「お前は台所仕事しねでいいすけ久美が径我しねように病気しねようにしっがり面倒みてらっせい」
と言い渡していた。母は私にかかり切りで色々と健康法を試みた。乾布摩擦もしてもらった。虚弱体質の子に良いと云われる肝油(ビタミンA、Dであろうか)も呑まざれた。在の人からきいて孫太郎虫を持って来てもらって食べさせられた事もあった。何だが気持ちの悪いものだった。八つ目うなぎも食べた。山の芋が良いという人もあって御飯にかけて食べると美味しいけれどもつるつると胃に入ってしまって御飯をよく噛まないのでいけないと、別々に食べさせられた。同じ埋由で生卵を御飯にかけて食べるのもだめだった。
 雪が積もると子供心に面自くて、小さなこすきを買っでもらい、タンタン叩いて段々を作ったり、お豆腐を作ったりして遊んだ。でも寒いのに外に出ていると夜になって咳が出るからと直ぐ家の中に呼びもどされるのであった。

 当時幼推園があったがどうか憶えていない。とにかく七才になって私は御免町小学校に入学した。受け持ちの先生は斉藤キミ先生といって小柄で愛嬌のあるいつもにこやかに優しい先生であった。
その頃一年から三年までは町のほぼ中心部にある御免町校で、四年、五年が昔のお城に近い三ノ丸校、六年になると城の北側にある外ケ輪小学校へ通う事になっていた。それぞれ昔の城下町当時からの地名で呼ばれていたのである。
 竹町はニノ丸の西にあったがら御免町校まではしかもの距離があった。子供の足で三十分位はかかったのではないか。よその子と遣って雪道になれていないからゴムの長靴の底がつるつる滑って上手に歩けないのであった。何度も転んで靴の中に雪が入るし、靴下が濡れて足は冷たくなるし手はかじかんでくるし、冬はいつも泣きそう仁なってやっと学校へ行ったものだった。その頃は母の編んでくれた毛糸のセーターにズックの鞄を肩から下げてフードのついたマントを着て通学した。他の子供達も大抵その様な恰好であったと思う。

 当時女の子、男の子の組は分かれていで組六十人位居たのではなかったか。背丈は高い方で後ろの方に座っていた憶えがある。教室の前の方には木で作っでプリキを張った四角な大火鉢が置いてあり、朝のうちに小便いさんが火種と炭を大きなシヤベルで山程配ってゆく。
 やさしい先生にたすけられてどうにか通ううちに三年生頃にば自然に私の身体は丈夫になって来たのであった。勿論手塩にがけて世話してくれた母のおがげである事は云うまでも無い。四年、五年と家から近い三ノ丸校舎へ通ったがふしぎな事にコの字型の校舎と校庭の風景の外は何も記憶にない。町はずれの方にある外ケ輪の校舎へ通う様になったのは六年生の時であった。ここで印象深い五十嵐セキ先生に受け持たれる。キリリと髪を結んだ痩せ型の地味な感じの中年の先生であった。

 先生は教科の合間合間に小作農民の暮らしがどの様なものか、東北農家の娘達が凶作になると売られてゆく事や製糸工場で働く貧しい女工達の辛い仕事、身休をこわしてもよく療養もさせてもらえない事、又炭鉱の鉱夫の仕事の大変さ、不衛生さ、そして低賃金であることなどさリげない態度ではあったが静かに説得力のある話し方で語してくれた。六年生位になるとそういう話も少しは理解したもので家に帰るとその話を逐一母に報告したらしく、母に言った事を私は忘れていたけれど母は憶えているよと云っていた。
 人の世にそう云う暮らしのある事を始めて知ったのであった。教室の外の廊下を教頭先生や又小使いさんでも人影が通ると先生はそ知らぬ顔でそういう話の板書したものを消すのであった。その後五十嵐先生はどうされたか私は知らない。女学校一年生の時に私達は父の転任で大津へ行ってしまったのである。


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