三十七、 怖かったこと

1.上座敷
 上の間(かみのま)と呼んでいた座敷は庭に面して檜の縁側が続き軒か深く作られてあった。南向きの部屋どはあったが暗緑色の壁の色のせいもあってか少し暗い感じがした。祖父が専ら来客用に使う部屋であった。
 庭の眺めはここからが最高で少し斜めに池と向こう岸の大松が見られ右端に小さな数寄屋、左方は前景に梅の古木があり、その向こうには東寄りに小高く松が二、三本配置良く植えてあった。縁からは飛び石が置かれて池までの距離が広やかな空間をなして座敷内の暗さと対比していた。子供は常に行かない所だったが来客の帰った後など夕方になって雨戸を閉めて来いと云われると何か怖ろしい気分がした。日の昏れ方、池の面や木立はまだ西の空の明かりを映して明るいのに、深い軒端はもう夕闇が寄せて手もとも暗いのである。祖母や母達は遠い台所に居て忙しいし、祖父は茶の間に居る。上座敷の方には誰の姿も見えず、声も聞こえない、通りの遠くの方で豆腐屋のラッパの音がかすかに響いてくる、するとなお一層しーんとした気分になるのであった。
 言いつけられたので仕方なくソロソロと戸袋の中から雨戸を繰り出して二,三枚づつ押してやるとガラガラという戸車の音がひっそりとした軒端の暗がりに響きわたる、オバケなんかいないのだと思っても何とも云えない恐ろしさを感じて手がすくむ、最後の一枚を閉めて心張り棒をかうと逃げるようにして茶の間にもどってホッとするのだった。


2.ふくろう
 庭を囲むようにして築山の後ろは杉と松の高い木立があり、その前側は椿やもみじ、金木犀などの植え込みがあって私が幼い頃はもうかなり鬱蒼とした感じの茂みであった。
 ひがすっかり昏れて女達は台所を片付けみんな茶の間に集まる頃高い杉の梢でホーホーと淋しそうな声がする夜があった。ああ今夜は梟が来てないている、と思うと又私は一人でお便所に行けなくなるのだった。
 その頃のお便所は汲み取り式の都合もあってどこの家でも大抵裏の方の勝手口に近い場所にあるのが普通で、皆の居る茶の間からは廊下を通って中庭をまわり、台所に行く廊下の一番端にある。二燭の電球がつけてあるだけでとても一人で行く元気がなかった。
 いろいろの話がはずんでいる大人達のそばにまつわりついて「ねえ行こう」と誘うけれども「お前行って来らっしゃい」等とあしらわれてなかなか行けない。いよいよ我慢出来なくなると強引に母を引っぱって行ってもらう。戸の所で待っててねと念を押してやっとおしっこをするのだった。お便所の前からは真っ暗な台所が見えて時々ねずみがガタガタ騒ぎまわる音をきくとゾッとする程怖かった。その頃夜の台所にねずみが居るのはどこの家でも当たり前だったようである。ふくろうの啼き声はゴロスケホーとか、祖母は「糊つけ干ーせー」と云っているのだとよく言った。明日は晴れるという時に来て啼く事が多かった様な気がする。


3.逢魔が時
 学校から帰ると私達子供は家からすぐ近くの練兵場へよく遊びに行った。行く時は祖母は必ず言った。
「夕方になったら早めに帰ってございや、夕方になってうす暗うなると逢う魔が時と云うての、悪いことがあるとわりいすけな」
そう云われると面白く遊んでいても日暮れになると何となく云われたことを思い出してさっさとうちへ帰ったものであった。
 凶凶(まがまが)しいという言葉もあるから大凶時とも通じるような気もする。
又誰云うとなく神かくしにあって子供が居なくなったとか、人さらいに連れてゆかれるとか、それは子供をさらって行って朝晩酢を呑ませからだを柔らかくしてサーカスに売るのだとか様々な話もきいた。
 今にして思えば日昏時、友達が皆帰った後に女の子が一人ひろい淋しい原っぱにとり残されている状況は色々な意味で危ないことであるのは充分考えられるのであった。

 練兵場は勇名とどろく歩兵十六聯隊の血気壮んな若者達の兵舎が立ち並ぶ前である。濠を隔てているとは云え、正門にはいつも衛兵が立哨しているとは云え、町に様々な用事で出ることもあり、自由時の外出もある。兵隊さんの姿は町でよく見かけたものであったが、必ずしもそれとは関りなかったかも知れないけれども大人達は女の子を要心ぶかく目配りしていたようであった。でも軍律きびしい十六聯隊のそういう不祥事は耳に入ったおぼえは無かった。
 夏になって夜、夕飯が済んでから母や叔母、信子姉、弟妹達皆が連れ立って夕涼みがてら、蛍を見にお濠のあたいまで散歩に行くのは楽しいことだった。


4.農民組合
 竹町の家の裏門から細い通りをはさんだ斜め向かいに板塀の廻った普通の造りの家であったが北蒲原郡農民組合と大きく書いた看板を揚げた組合の寄り合い場所があった。時々近郷の小作農の人達が寄り合って酒を飲んで大きな声で騒ぎ、時には倉の後ろ等へ投石された事もあって恐ろしかった。
 小作争議等と不穏な空気があると刑事が数人張り込みに来る。うちの倉の脇や木の茂みにひそんで道路をはさんだ向こう側の集会の様子や動きを監視するのであった。

 社会党の大物であった故三宅正一氏はこの辺でその頃からの小作争議や農民運動の指導者であり、闘士であったと母からきいた。私はまだ子供でそういう事は何も知らなかった。
 少し話は別であるけれども後年私はテレビニュースくらいでしか知らない三宅正一に何となく好感を持っていた。社会党の言うことすること事態は余り好きとは思えなかったが、政治問題は別として若いときから農民運動の指導者として、あるいは労働運動の闘士として一筋に生きたその人柄が好きなのであった。若い時の顔を私は知らないが晩年の三宅氏の顔には一筋に生きた男の風格が感じられて良いと思う。どう考えても別の陣営の人が選挙の前になって組織的な票が欲しいために右往左往するということが間々ある中で彼は生え抜きの党人として重きをなしていたのであった。


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