三十一、 祖父と普請

 祖父は普請好きの人であった。母の言によると竹町の家は大小合わせて数えると七回建て直し普請があったという。私が覚えているのは土蔵の建築であった。大工さんは裏庭に木工台を据えてズコズコと鋸を使ったり、鉋をかけたり、トントン金槌でのみを叩くと見る見るうちに木組みのほぞが上手にあけられてゆく。音を聞くだけでも威勢が良い。
 大工さんの使っている墨壷も面白い道具であった。ピンと張る糸の先に針がついていて寸法の所へ刺して糸をはじくと間違いなく真っ直ぐに墨の線が引かれる。ふだんは壷についた糸巻きに糸は巻かれている。いかにも職人さんの道具として合理的で簡単なものであった。
 左官の仕事も面白かった。土蔵の壁は何回も丁寧に厚く塗られる。慣れた人の鏝(こて)の動きは無駄がなく見る見るうちに平らに塗り上げられてゆく。
「邪魔になるすけそばへ行くなや」と云われていたが見ていて飽きないのであった。そして祖父は時々仕事の具合を見に来て上機嫌であった。
 何軒かある貸家も祖父は半分道楽で少し傷んだといってはこわしたり建てたりしたものだと母は云う。又うちの親戚でもあった大工さんは仕事がひまになるとうちへやって来て、
「お父っつぁま、何か仕事がありませんろうかねシ」等といって頼み込むのであった。すると祖父は「そうだな」とばかり、小さな貸家を一軒建てたり直しものをさせたりして仕事を作ってやったこともあるという。
「今度は◯◯の普請するんだとー、お父っつぁんてば道楽で普請しなさるからたまらんてばー」などと母や叔母はぼやくのであったが、祖母はそれにウフンと軽く応じるだけで何も文句らしい事は云わない。毎度のことでわたしゃもうとっくに馴れているんだよ、と云わんばかりの様子であった。土蔵を造るときはまさかそんな思い付きのように始めたものではなかった。

 普請が始まると祖母をはじめ女達は忙しくなって大変であった。朝早い職人さんのために早朝先ずお茶の用意をする。昼は味噌汁と漬け物位を出す。三時のお茶、お茶うけの菓子、又上がりには酒が用意された。
 母の若い頃は家の東側に庭へ張り出して台所と湯殿があったそうで、私がもの心ついた頃はそれと反対に西の方に台所が出来ていた。勝手口も西の通りに向かいていたから買い出しに出かけるにも物売りが通るにもこの方が都合がよい。家の東側の通りは三ノ丸校や偕行社などへ行く道であまり一般的な通りでなかった。
 母の記憶によると、この時の普請で家の東側をとりこわした際にそこから土を運び込み築山を作って造園したものではなかったかと云う。大正三、四年頃のことと思われる。

 手間とりと祖母は云っていたが、私が子供の頃『長尾のおとと』という人がいつも出入りしていた。年齢は四十過ぎ位であったろうか、小太りの丸いはげ頭の人であまり無駄口をきかないでよく働く人であった。いつも紺色の股引きの上にやはり紺色の腹がけの様なものをシャツの上から着ていた。母の言によると人入れ屋というのか人夫衆の頭であったという。何日に雪卸しをするから頼むといえば必要な人数を揃えて連れて来てくれる重宝な人であった。
 おととはよく家へ来て祖父の指図で庭木の整理をしたり、祖母に頼まれて薪の束を作ったりしていた。普請の廃材が出た時は使える寸法に切って割って束ねて薪小屋に積んで置く。そして雪が降る前に台所のかまどのそばの軒下に薪の束をキチンと積み上げて置いてくれるのもおととの役目であった。
 又俵入りの木炭を土間の押し入れの大きな箱にあけて置いてもらう。コンコンと鎚でかるく叩いて使いやすい大きさに小割にしてあれば子供の私でも炭斗に入れて持って行くことが出来る。炭斗(すみとり)は丈夫に出来た木箱のまん中にしっかりとした取っ手がついていていっぱいに炭を入れると子供にはかなり重いのであった。今では町で炭をふだんに使う家はないので炭斗も火箸も見なくなって久しい。
 後になって聞いた話では、長尾のおととはその後、胸を病んで亡くなったという。力仕事でも何でも次々とこなす律儀な働き者であったのに結核で倒れたとは気の毒なさいごであった。


目次に戻る     次へ進む