三十、 歳とりとお正月

 暮れになるとお正月の用意で皆忙しかった。神棚の飾り方も祖父は厳しかった。しめ縄、榊、お神酒、お供えの鏡餅、新しいローソク等であった。大晦日はお歳とりと云って清めた神棚にお明かしを上げて皆がお参りし、これで歳徳神様が来なさるのだと云う。年神様とも云い、くる年の豊年を願い家内に福をもたらす神であるとされていた。

 歳夜の料理は何日も前から祖母が手をかけて用意するもので品数もいろいろそろえて大変だったと思われる。毎年定まってはいたけれど、倉から膳椀を出す事からはじまって膾(なます)の用意、大平(おおひら)の煮物、塩引鮭の焼き物、小煮物、等あって祖母が忙しそうに立ち働いている姿が思い出される。膾は源平なますといって大根と人参の千切りなますに鮭の腹子が乗っていた。大平は親芋、くわい、厚揚げ等を大切りにしてゆっくり煮込んであった。百合根もあったようだ。小煮物は長岡ののっぺの様な汁物で小さく刻んだいろいろな野菜に鮭の薄腹と腹子がだしに入っていてうすい醤油味のものであった。
 暮れによそから鴨を頂く事があった。祖母は毛むしりから順々に捌いて上手にこなし、とり肉を甘醤油で煮て置くのであった。冬の鴨は油がのっていて美味しいものだったが、お平の中に少しづつ盛り付けてあった。油が浮いた煮凝りをつまんで食べてみると大層おいしかった。
 又年始の来客用に鮭の焼漬が用意され麹を使った鮭の飯ずしも作られた。又数の子やキントン等もあった。

 茶の間の次の間にお膳が据えられて皆がその前に並ぶと祖父は上機嫌であった。祖父、祖母、父、母、叔父、叔母、信子姉、私、弟、妹、道子凡そ十人位が居並ぶと(子供の数が少しづつふえて行ったのであったが)古い燭台に大ローソクがともされ、祖父の
「さあ今夜はお歳とりらすけ、皆よくたべれや」
「これで一つ年をとって大きくなるんだぜ」と声がかかり皆が箸をとる。誕生日に関係なくこの日に年齢が加わるのであった。

 一夜明ければお正月(もうこの頃は大抵寒気きびしく、外は白くなっている事が多いのであった)、こんどは餅の用意とお雑煮の仕度である。短冊切りの大根、人参、里芋に鮭のうす腹が味出しに使われうすい醤油味で煮てある。餅は鉄鍋にシュロ縄で編んだ丸い網を底に敷いて水から餅を入れて火にかける。お雑煮が出来る頃に餅が煮られるのであったが、煮るタイミングが大事で十二、三分位で芯まで柔らかくなる。それ以上煮れば外側からトロトロになってくるし、湯になってから餅を入れると中の方は芯があって硬く、外はとろけてくる、水から煮て十二、三分位というのが上手に出来るこつであって祖母はいつも上手であった。
 元旦は祖父の後ろについて皆で神棚に参り、並んで坐ると「おめでとう」の挨拶をし、餅を頂くのであった。大人はお屠蘇を祝ってから餅に箸をつける。子供達は特別にあんこもちにしてもらい、お雑煮はお汁がわりにしてたべたものだった。いつでも何でも売っている今と違い、その頃の子供にとってお正月の餅というのは大層珍しくご馳走であった。餅が食べられるお正月は嬉しいものであった。五つも六つも食べたいのであったが、元旦には学校で新年の拝賀式があるので十時からのお式に遅れないように行くため心残りであったけれど三つ四つ位で切り上げるのであった。

 餅の日はお昼抜きで早夕食であった。餅という名の通り腹持ちが良かったので大人はそれで丁度良い具合であったが、子供達は昼過ぎにお腹が空くと囲炉裏で焼いてもらい、きなこ餅にして二つ位食べたりした。


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