二十八、 お盆

 うちは浄土宗でお盆がくると仏間の飾り付けやお供え物がたくさんあって祖母は大層忙しかった。先ず八月の十一日と十二日には上町と下町にかけて近郷近在の農家の衆が道の両側にびっしりと花市の店を出す。お盆用の花が主でまだ若いすすき、蓮の蕾花、桔梗、おみなえし、赤いボンボンの盆花等の外にも瓜や西瓜、お供用の野菜、きび、長なす等が並べられて、町中の人が買いに行くのでそれは大層な賑わいであった。子供達も小さっぱりとした浴衣に三尺帯を結んでもらい、暗くなる頃から家中で出かけて買い物をしてくるのであった。うちの仏様用のお花、お供物、西瓜等の外にお寺の墓前に供える小束の花、お供物とそれを盛る眞菰をざっと編んだ小さなすだれ等一式を買い整える。

 前日に仏壇を清め仏具はお磨きをして上げ直す、そして十二日は前夜に買った各種の野菜、果物、そうめんの束等を供える。又お壇の前に浜なすの赤い実や長いささげ豆、赤くなりかけたほうずき、梨の小さいもの等、七種位はあったと思うが水引きの白い紐で結んでかけならべる様に上からぶら下げるのであった。又長めの茄子の形の良いものを選び馬に見立てて、割り箸四本刺してお供えするのを作るのは子供の仕事であった。

 十三日の早朝には、祖母がお花とお供物を持ってお寺に行く、お花の外に白瓜、茄子等を小さい賽の目に刻んだものを菰すだれに乗せて墓前に供える事になっていた。

 十三日の夕方は夕飯を早めに済ませて家中揃ってお墓詣りに行くのであった。母達は早めに土蔵から皆の着る夏紋付きを出して用意する。先ず祖父は絽の黒紋付きに夏袴、黒い夏足袋、母達は水色の綿ちぢみの紋付き、帯、白足袋、又襦袢には衿をかけておかなければならない。私用の子供紋付きはあったようで小さい子供達は浴衣であったと思う。

 夕飯が終わると先ず子供達が着せてもらい、それぞれ三尺帯を形よく結んでもらう、女達は皆手早く自分で着る。最後に一風呂浴びて汗を流した祖父や父に紋付きを着せ袴をつけてあげるまでなかなか時間がかかる。足袋が片方無いとか紐が足りないとかてんやわんやの大騒ぎになる。

 一同揃うと「皆いいか、出かけるぞ」と祖父の声でゾロゾロと連れ立って墓まいりに出かけるのであった。子供達は小さい盆提灯を持たせてもらって、父母をはじめ家中でつれ立って歩くことなど他にはない事なので嬉しくて仕方がない。でも竹町からお寺まで少し離れていて子供の足で三十分足らずと思うけどお寺につく頃は新しい下駄で緒ずれが出来たりして早くうちへ帰りたくなる。お寺につくともう日は昏れて大善寺の本堂だけはきわだって明るい。お寺の横から裏にまわると広い墓地には盆参りの人が灯したお墓のローソクがあちこちに揺れて暗いまわりの景色の中で何とも云えない幻想的な光景であった。

 帰りは仏様がおぶさって来なさるから肩が重たくなるのだと祖父から聞かされた。本当に帰りはくたびれて足も重くなりやっとの思いで家につくと、いつもは閉め切りの大玄関に明かりがついて開けてあり、祖父はご先祖様がうちに帰りなさるのだから今日はこっちから入れと皆にも云って直ぐ仏間に入り丁寧に拝礼する、皆一同それにならって拝み今日の行事は終わりとなる。
 皆は紋付きを脱いでヤレヤレと一息つく。
「ご苦労だったのう」との祖母の声に皆が台所の板の間に集まって冷やしてあった西瓜を切ってもらうのであった。先ず仏様と祖父の分に一番良い所を二切れづつ皿に入れて持ってゆくのが私の役目で、あとは幾切れでも無くなるまで食べるのであった。

 十四日には午過ぎに大善寺の和尚様が読経に来られる。終わると茶の間でお茶が出て祖父と大きな声で話してゆかれる。「カッカッカッカッ」と笑い声がひびく。賑やかな感じの和尚様であった。それから祖父は親戚の家々を廻って盆参りに行かれる。

 十五日にはうちから嫁いだ祖父の妹達が墓参りに来られる。横町と新築地の小母様方である。外にもお参りの人達が来て祖母はその接待が一仕事であった。お茶出しの切れ間がない。傍らの茶こぼしには次から次と茶殻が入れられる。又銅の水差しに台所から水を汲んで来るのが子供の私の仕事であった。親戚の人達が昼近くに来られれば祖母は手早くソーメンを茹でて、二、三品のお菜と共にもてなすのであった。

 そして十六日になるとお精霊(しょうらい)様が帰りなさる日だといって蓮の広葉に供物を包み、なすの馬と共に川に流しに行ってお盆の行事が終わる。


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