二十五、 義兄弟の契り

 祖父は菅谷出身の代議士 高橋コウエイ氏の後援会で同じ政友会の仲間と四人組を組んで義兄弟の縁を結んでいたという。稲垣様、村上紺屋、時事堂、杉浦貞吉、この四人は皆同い年で甲子年の生まれであった。どういうわけか稲垣様と一人だけは様づけで呼ばれていた。村上紺屋は諸橋要作といって染め物屋、時事堂は加藤島太郎と云い本屋で新聞屋でもあった。又年が同じだけでなく気心もよく合った仲の良い仲間であって何事かあるたびにお互いに助け合ったものだという。一軒でたまたま不幸があったりすると親戚よりも先に駆けつけて手伝をしたものであったときく。

 大正になって二,三年の頃、二ノ丸で火事があった。三ノ丸小学校のすぐ脇に坂井病院があってそこの留守番をしていた老婆の失火による火事であった。そこからは小さな長屋が四軒ばかりあって次は竹町であったからうちは大さわぎになった。折悪しく祖父は旅に出ていて家は女、子供だけであった。親類衆も加治のおじさんも駆けつけてくれたが、この四人組の人が先ず来て甲斐甲斐しく働いてくれたのであった。

 若い女中が泣いて怖がるのをなだめてまず赤ん坊だった信子姉を背負わせて多聞にあった女中の実家に行かせ、赤ん坊を預かってもらった。持ち出すものの用意、野次馬の警戒、近火に驚いて見舞いに来る人々の応対、及びその帳面づけ、炊き出しの握り飯作りの指図、とそれぞれ手分けして主人の居ない家を必死に守ってくれたのであった。

 そして火元のお婆さんが火傷を負ってとりあえずうちの台所へ運び込まれた、皆が慌ててどうしたら良いかオロオロしていたが四人組の人達がお婆さんの身元を聞き出して連絡し無事に引き取ってもらったそうである。

 幸いにうちは類焼をまぬがれたのであった。このときどんなに心強かったかその事はずっと忘れられない出来事であったと母はいった。

 祖父の一代前に分家した杉浦五郎さの家は母の覚えによると殿様の別邸であった清水園の中に一時住んでいたことがあって、子供の頃遊びに行ったこともあるし、お招ばれしていってそのお座敷でご飯を頂いたこともあったという。溝口家の子孫の方からか、又は元の家老の方からお留守居の役として一時預かっていたのではないかとのこと、そんな関係からであろうか、祖父は名園として有名であったその清水園を使って例の仲良し四人組の人達とお茶会を催して楽しんだこともあったと云う。


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