二十四、 祖父の庭

 祖父は骨董屋という仕事柄、日本各地を旅して歩いた人であったが、その時に見て歩いた各地の名園の中で自分好みのイメージを形成していったものらしい。近くには新発田藩主の別邸のある清水園も品格のある美しい庭として有名であった。それ等には勿論遠く及びもつかないけれど祖父は自分なりに庭を作ってみたのである。母が子供の頃は普通の感じの平庭であったという。大正になって三、四年の頃、池を掘り、築山を作って気に入った大松を中心に造園したのであった。母の記憶によれば荷車で何百台となく土が運ばれたとのこと、奥の方に築山を築き、その前方に瓢箪形の池を掘り町の川を導き入れる様にして流れを作った。池の向岸に大松が植えられた。笠を段々に並べたような枝ぶりで能舞台の鏡板の様な横に枝を張った形の良い松で祖父は大層気に入りであった。

 しかしその大松は植木屋から買ったものではなかったという。次々と事業を営んで財をなしていった祖父はあちこちに土地を求めて何軒かの貸家を建てていった、その中で尾ノ上町の土地を買った時に既にそこに植えられていたという。もうその時は横に枝を張った立派な松で祖父はすっかり惚れ込んでしまったのであった。

 そこは招魂社の横であって竹町とは丁度練兵場を挟む位置にあったから片田町の細い路ではその大松を傷つけず運ぶことは無理であった。その枝ぶりが大事なのであったから枝折れしては何の甲斐もない。薪炭の納入業者として軍隊に少しはつながりを持っていた祖父は聯隊司令部へ頼み込んで特別に練兵場を横切って松を運ぶことを許してもらった。

 根まわしをしっかりとして菰で根元を大きく包み、広い練兵場の西の端から縦に通って東の竹町まで運ぶのは大変だったという。何を使ってどう運んだか、直接母は見てなかったが、多分大勢の人夫衆によってコロでも使ったものか、とにかく無事に運ばれてその松は祖父の庭に植えられたのであった。

 その松の下には池の端をふちどる様に石とつつじが程良く配置され、さしのべた枝の下には低い石灯篭が一基置かれた。祖父が一番念を入れて造らせた所であった。

築山の後方は深山の気配を現す様に杉木立と松の高木がとり囲み、その前をもみじや椿が彩り、金木犀、柘植、どうだんつつじ等が植え込まれていた。又築山の上手の方から谷川が流れ落ちる様に枯山水の小さな谷が石組みで作られた。

 先ず縁先から見てゆくと右側にもみじが二、三本、その足もとには十賊が一叢、飛び石伝いに池の端に出るまで手前の方は明るい苔庭であって池のふちは石とつつじの植え込みがある。池の右はしにかかっている石橋を渡って向岸に行くと少し上り坂の植え込みの奥に小さなお稲荷様の祠が祭ってある。赤い小さな鳥居がもみじの葉かげにちらちら見えるのであった。次に石組みによる谷川が池に落ちてゆく所にまた石橋がかかり、中心の大松から後方へは次第に奥山に向かってゆく感じに植え込みが作られてあった。小さめの石も所々に置かれて山路に入る風景を表している。そして池の下手にかかるもう一つの橋を渡ると上座敷の前に出て庭を一周出来るのであった。

 しかしあくまでも自然な感じで決して巨巌、奇石の類は用いられていない。県内産の庭石としてよく使われる佐渡の赤玉石も見あたらない。松を中心にしてバランスの取れた庭であったと思う。つつじの刈り込みも角型や丸型でなく自然な感じに丈低く整えられていた。そして桜の木をはじめとして花の木があまり無いのであった。花咲くものといえば椿、つつじ、どうだんつつじ、山茶花、金木犀位であったろうか。

 東の座敷の縁寄りに白梅の老木が一本あった。それは花よりも苔むした幹立ちと枝ぶりを愛された様である。この梅は七升程も実がなるので祖母は重宝して毎年これで梅干しを作っていた。

 その中で生まれ育ったものは特に何とも思わないまま毎日の生活が過ぎてゆく。祖父からことさら作庭の方針や理念をきかされたこともなく、自分から問うたこともなかった。「これだけ広い庭でどうして桜の木がないの」などときいてみたら祖父は何と云ったであろうか。

 それは私達が新発田の家を離れてみて、そして大人になってから気がついたことであったが、華やかな桜の木をことさら避けて奇石の類も用いずに松の品格を中心に作られた庭は、祖父の若い時からの茶道の修業で培われた趣味の良さであった様に思う。桜に限らず花の庭はまたそれなりに四季折々の楽しみがあり美しいものだと私は思うが、あの庭はあくまでも祖父の好みで作られたのであったから。

 祖父は庭の見える室にお膳を運ばせて庭を見ながら一杯やるのが日課で無上の楽しみであった。また身の軽い人で晩酌の最中でも庭を見ていて気になる所があると夏では褌一丁のまま庭下駄をつっかけてスタスタと庭へ出て石の向きをほんの少し動かしてみたり、混みすぎた枝を剪定したりして又晩酌の膳の前に座り直すのであった。

 苔も大事にされて雨上がりなど庭へ出て遊ぶと必ず「石踏んで行けや」と声がかかり飛び石伝いに歩かされた。足駄などはもっての外、はき古されてちびた下駄が庭下駄として用いられていた。父や母は陽がかげった頃を見計らって時々庭の草取りをした。雑草はゆだんするとたちまち庭を台なしにする。私も大きくなってから時々見習って手伝いをすると祖父は上機嫌であった。

 秋になって野分のあとなどもみじの紅や黄の葉が庭中に散らばって蕭々として冷たい雨に打たれる風情も寂しく、遊びに出られない子供心に雨戸のガラス越しに見ていた庭のものさびた景色が印象深い。

 十一月頃になると庭木の雪がこいが始まる。男衆が何人も来て先ず中心の大松に丁寧に雪吊りが施される。外にも何本かある松も雪吊りされ、あとの木はそれぞれ枝をよせられて竹と縄でキレイに丹念に囲われる。そこへ雪が降るとまた別な趣きの景色となり、祖父好みの墨絵の様な眺めになるのであった。

 十月頃のことであったが、少し肌寒くなりかけた或夜、私は一人でお便所におきた。その晩は明るい月夜で夜半の月光が真上からさしていた。雨戸のガラス越しに見た庭の景色は何といったら良いか不思議な感じであった。それは今まで昼の光で見ていたものと全然違った風景に感じられた。風が少しもなくて木の葉一枚動かず何の物音もしない。真上からの明るい月光を受けてシーンと静まりかえった庭の様子は椿などの葉がキラキラと濡れているようでかげになった部分がクッキリと暗く、そこいらに妖精でもひそんでいる様な不気味さもあり、又深い水の底にでも居るような不思議な感じもする。しばらく立ちつくして眺めたのであった。私が六年生になったころの思い出である。


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