二十三、 祖父のこと

 祖父杉浦貞吉はなかなか商才にたけた人であったと聞く。竹町の家はもと下町にあり祖父の四代前に同じ下町にあった本家から分家したもので代々雑貨商であった。いわゆる生活一般に使う何でも屋で当時は蓑、笠、唐傘、盥、洗濯板、台所用品では臼、杵、釜、箸、シャモジに至るまで種々雑多なものを店で売っていた。

 祖父の父は早く亡くなり(祖父十六才の時)母の手一つで育てられた。といっても母の言によれば昔は十六才といえばもう一人前に働いたものだよと云う。一男三女の中で一人息子であったから非常に大事にされ、幼い時は色白で可愛らしい子であったそうな。それが何才かのとき流行した痘瘡にかかりそのあとが顔に残ってしまったとのこと。その母が(ミイ祖母)種痘を受けさせなかったことを大層悔やんでいられたそうであった。私は子供の時から見なれている祖父の顔を大して気になる程とは思わなかった。商売或いはその他、いつも忙しく出歩く人であったから顔色は色白なんてものではなく、男らしくいい色をしていた。背丈は中位でどちらかと云えば痩せ型の顔は少し面長で角ばった感じのふだんは目が鋭いという程ではないが全体に威のある人であった。

 祖父はいつ頃からか軍隊に納める薪炭を扱う様になった。火災にあって竹町へ来てからであろうかと母は云う。竹町の家の道をはさんで前側に大きな倉庫があって荷が着くと広い倉庫一ぱいに炭俵が積み上げられていたのを母は憶えているとのこと。産地をまわって或程度買い集めて置き、まとめて納入していたという。

 また瓦の製造販売をやっていたこともある。水原新道という町はずれの一本道を大宝寺の方へ行く途中、右に町浦練兵場をみて少し先に行くと左手に松の疎林がある小高い丘があり、その松林の奥まったあたりに祖父は瓦工場を営んでいた。

 母は小さい頃番頭の広川につれられて姉と二人でその工場へたびたび遊びに行ったおぼえがある。瓦の型押ししたものをズラリと幾並びも並べて天日に干してあった。姉と二人で粘土でキウリやなす等いろいろ作って「今度来るまで焼いて置いてね」と職人さんに頼んでおいて帰る「ハイヨ」と返事はしてくれるが何日かあとに行ってみると前に作ったものは何一つあとかたもないのであった。それでも懲りないで又々なにか子供らしい形を作って頼んでくるのであったが一度も焼き上げてはくれなかったようだという。その辺りで良い粘土が採れたのではないかと思われるのであった。

 又焼き物も手がけていて主に普段使いの茶碗を焼いて売ったのであった。うちの裏庭に茶器を作る工場があって年取ったろくろ師がいつもろくろを廻して茶碗を作っていた。外にも数人の男衆が働いていて土を捏ねたり成形しては天日に干したりしていた。茶器は黒い地に所々に金粉が散らしてあり蟹のもようがついている。細かい蟹の姿がはっきり出ているのが不思議だったが見ていると型があって粘土をつめてポンと伏せるとちゃんと細かい足の爪の先まで良い形に蟹が出来上がるので、それを茶碗に二三匹づつ貼りつけるのであった。窯場はは別の所にあったか、それとも庭の奥の隅の方にでもあったか母ははっきり記憶にないとの事、焼き具合の均等でないものや形の出来の悪いものは一隅に山の様に積んで無造作に捨ててあったそうで、それを幾つも拾ってママごと遊びに使っていた、いくらでもあったものだという。今思えば少しましなものを貰って置けばいい記念になったろうにほんとに子供の頃はなんとも思わないで皆次々と遊んでは捨ててしまったと心残りの様子で母は云った。この焼き物は高級品ではなく日常に使う安い茶器であって急須一個、茶碗五個が一組で杉箱入りで売っていたものであった。

 「祖父(ちち)は随分色々な仕事をしてよく稼ぎなすったものだよ」と云う。他にも煙草工場を祖父は始めたのであった。家のすぐ裏手が二ノ丸でそこに工場があり、年若い女工さん達が十人程働いていた。乾燥したたばこの葉を一定の細さに刻むのが女工さん達の仕事であった。さきの大火で焼けてから竹町へ来たときに二ノ丸に工場を作ったのである。その頃うちで作っていた煙草は殆ど刻みたばこで母の記憶では「天狗たばこ」「ヒーロー」などがあったという。

 女中が朝仕事を一通り片づけてしまうと幼かった母を連れてたばこ工場へよく遊びに行った。裏から行けばすぐ二ノ丸であった。年若い女中は昼の仕度に少し間のある時間を見計らって子守をする名目でそこに遊びに行き同じ年頃の仲間たちと、又中には自分と同じ村出身の娘達も居たかも知れぬ工女達とおしゃべりを楽しんでくるのであった。なに、口を動かしても手さえ休めなければ監督に怒られることもない。まして女中は主人の娘を連れているのであったから怒るほどのことはないのであった。

母が小学校へ上がる前の年に煙草は専売制となったので工場を手放したのであった。明治三十七年であるから祖父がその工場を経営していたのは七年位でしかなかったが、たばこ店の方はずっと続けてやっていた。煙草が専売制になったとき最初に売り出された口付き煙草として敷島が二十本入りで八銭であった。落ち着いた感じの黄色地に遠松原の図の敷島は味も良く、デザインも良く人々に好まれたと云う。

 私が覚えがある頃の店は玄関より南寄りにあって竹町の通りに向かって各種タバコ、収入印紙、ハガキ等を売っていた。私は四年生位から学校から帰ると店番をさせられた。場所柄、兵隊さんが良く通るのでゴールデンバット(七銭)が数としては一番良く売れた様に思う。緑の葉かげに朝日の昇る図柄の朝日は十五銭、少し高級な敷島はその頃二十銭であったように記憶している。昭和五、六年頃のことであった。もうその頃、母からきいた天狗たばこや岩屋たばこは店でも見た覚えがないから無かったのだろう。萩、桔梗など割に品の良い刻みたばこがあった。煙管を使って吸う人は主にお年寄りでその当時もかなり売れた模様である。
 又たばこは進物用としてもよく使われて敷島十ケ入りを一箱包んでもらいたいとか、印紙のお客には奥へとんで行って母か祖母に来てもらうのであった。
 横町と新築地の小母様方はよそへのおつかいものとして、うちの煙草の箱入りを時々頼みに来られた。勿論お金は払わないのであった。なにせ実家のものであるから。
「祖父(ちち)も承知でそうさせて置いたんだと思うよ」と母は云う。

 やがて父母と私達弟妹三人が父の任地、大津へ行く事になり(昭和八年)人手不足で店は閉じられたようであった。常に誰かが店番として居なければならず、祖母が殆ど常にいる台所と遠いこともあって続けられなかったのだ。雇人を置いてまで続ける必要もなかったらしい。

 生活必需品ではあるが、どちらかというと単価の安い雑貨の商いをやめて次々と別の事業に手を出した祖父は商人としての勘というか、見通しが良かったのだろうかと母に問うてみた所、いやそればかりではなく子供のときから書画の類が大好きだったんだよとのこと、まだ幼い時に絵紙屋の前を通ると飽かずに眺めて一向に動かなかった、とその母(ミイ祖母)が云っていられたそうであった。いろいろの仕事に手を出したあげく最終的には書画骨董を扱うようになったのは祖父の生来の好みの道でもあったのだ。

 そして祖父は一年の大半を旅で暮らす様になっていた。若い時からポツポツはじめていた道具屋を今度は本腰を入れて専門に取り組んだのであった。もうその頃は瓦工場も茶道具造りも煙草屋もすっかりやめてしまった。書画骨董を扱って主に古いもので値打ちのあるものを見つけては買っておき、その道の好事家に売るのである。その頃豪壮な邸宅を構えて盛大に暮らしていた蒲原地方の大地主の白勢家や市島家、相馬家などへ出入りし、広間の大床の間を飾る掛け軸、床飾り、屏風など、茶室にはまたそれに相応した茶掛け、香炉、小物、茶碗などを売ってくるのであった。

 この商売で一番気をつけねばならないのは偽物を掴むことであった。単価が高いだけに買い物が偽物であった時の損害は大きい。真贋を見定める眼識が当然大切であった。いつの頃の時代のものかとか、又作者の画風、書風、筆跡、落款、花押などを怠りなく研究していたものである。又名の知られていない人の焼き物であっても民芸風といって馴れた手さばきに良い味のあるものもある。本当に良いものとつまらないものとの見分けが大切であった。

 祖父の所へは「もくろく」と書いた分厚い写真図版が時々送られて来て常に熱心に見入っていた。祖父はいつの間に修業したものか茶道と生け花は一通り心得ていて殊にお茶は師範の免状を持ち、古い茶碗などに良く目が利いた人であったという。きっと若い時に勉強して身につけたものだったろうと母は云った。

 お茶に付随して行儀作法もきっちり心得ていたので明治天皇の北陸御巡幸の際にはお給仕人として選ばれて奉仕したさうであった。ついでながら母達三姉妹が娘の頃、しばらくお茶を習いに通ったという尾ノ上町の青木先生は祖父が習っていた頃の相弟子であったという。

 祖父が好んで扱った掛け軸は主に水墨画で色の華やかな花鳥より山水が多かった様に思う。色があっても淡彩の絵であった。でもお客の求めに応じて少しは色の物を扱うこともあったらしい。

 時には知人に頼まれて絵や骨董品の品定めをすることもあった。座敷の奥のつきあたり、祖父は拝見の間といっていたが(後に父のピアノ室に改造された)西の採光のある落ち着いた小部屋で茶色の砂壁に下方に流水の模様がくすんだ水色で塗り分けられてあったのをよく覚えている。

 年に何回か上野の美術倶楽部という所で古美術の競市があって売り立てをするという案内が来ると祖父は欠かさず出かけたそうである。仲間内でも目が利く人だと定評があったらしく「越後の親父が来た。どんなものに目をつけるかみんなよく見て居れ」と注目を集めたものだそうであった。

 他にも目ぼしいものを見つけるため殆ど全国を歩いたそうで北海道だけは行ってみなかったという。古都である京都や奈良のあたりは何度も行ってついでに名のあるお寺や名園なども見物して歩き楽しみながら目を肥やすことを忘れないのであった。

 又浄土宗であったから京都へ行く度に総本山の知恩院へも何度か訪れて本堂の中まで上がってお参りをし見学をしてくるのであった。祖父は高野山へも登った。奥の院へ向かう橋の傍らに越後、杉浦と刻んだ石塔を立てて来たそうで、どれ程お包みして上げなすたものだやら、と母は半ば呆れ顔で述懐する。その近くには明智光秀や滝川一益など歴史に有名な武将の墓も見られるあたりであるとの事であった。(その石塔は四段の石組で最上段に梵字の一字と杉浦家累代之墓とあり、向かって右側面に明治四十四年四月登山之を建つ、左側面に越後新発田杉浦貞吉母とあり二段目の右には一重の円が彫られ、第三段の石には字はなく、これを取り巻く石の柵があり、最下段の台座には正面に杉浦氏と右から書かれ、最も右に縦に越後、最も左に縦に新発田と書かれている。昌也記)

 又九州旅行は殆ど観光であったようで高千穂の峰の山頂に立って天孫降臨の天の逆鉾を前にしてとった記念写真が一枚残っている。それから沖縄にも行ってみた、首里城あたりの絵ハガキが父宛に来ている。

 大正の時代に旅行といえば大変なことで東京へ行くにもまだ信越線まわりであったから十三時間はかかった。(上越線が開通したのは昭和六年のことでそれでも普通で八時間以上、急行で六時間もかかった)。北陸線で京都へ行くには十八時間位か、九州へはほんとうにどれ程かかったやら、沖縄へは勿論船であったし、なかなか体力も要ったことで楽なものではなかったろうと思われる。けれども祖父にしてみればそれぞれの土地の風物を楽しみ、美しいものを見て楽しみ、土地の酒も味わい、たまたま珍しい掘り出し物があればまたこれ幸いと買いつけて家の方へ送らせる、一石二鳥の旅であって少しも苦にしている様子はなかった。又健康であったから疲れも知らずにキビキビと動き廻られたのだと思われる。本当に自分の好きな道で生きたから幸せな人だった、と母は云うのであった。

 先日父の書類タンスの中から祖父の旅先からのハガキと和紙に走り書きした祖父の書き物が出て来た。古物の売り立てのメモの様であったが昔よく見た書き慣れた筆の字で達筆に「古文書、古硯、筆、墨、水滴、古瓦、皿、茶碗」等々書きつけてあるのを見てとても懐かしい思いがしたものである。


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