二十二、 新発田の大火

 明治二十八年頃のことと母は聞いていたそうであるが、新発田に大火があり主要な町並が皆燃えてしまった。日清戦争に出征していた新発田第十六聯隊の兵士達は戦争が終わって帰る時この火事でほとんど丸焼けになった町に凱旋してきたのであったという。(兵営は町並みから少し離れていたので残っていた。)

 その頃本家と同じ下町(しもまち・二十軒離れていた)に雑貨店を構えていた祖父は旅に出ているうちにこの火災にあって店も家も焼けてしまった。もうその頃道具屋をはじめていた祖父は買い集めてあった値打ちのあるものをほとんど加治の祖母の実家と金子の白勢家にあづけてあったという。祖父は本当についていたと云うか強運に恵まれた人であった。店も店の品物もすっかり焼けてしまったが雑貨店の品物は単価が安いものであるから祖父がその頃扱いはじめていた道具類とは較べものにならないのであった。

 まるで火事を予知していたように不思議に感じられるけれども町並みで家がたて混んで狭かったせいではなかったろうか。
「家が丸焼けになったども一財産あるすけ心配するな」と妻や母に言ったそうである。

 祖父の妹の嫁ぎ先であった新築地の大森家が持っていた貸家二軒のうち一軒を借りてしばらくそこに仮住まいをし、町の中心部から少しはなれた竹町に土地を求めて祖父は先ず中位の広さの家を作った。練兵場の近くでまだ一面の草っ原であったという。はじめは北西の角に練兵場の方に向いてたばこ店があり、北寄りに居間があって東の方に台所と湯殿があり家は平家であった。

 その家で三十一年六月に母が生まれたのである。その後大小七回の普請があって私が子供の頃育ったあの大きな家に造られたのであった。

 家は建てたが家財道具がそう一時にはととのわなかったその頃のこと、本家のおっ母様のおまん様という人が絹地の座ぶとんと黄瀬戸の手あぶり五客分づつをそろえて寄越しなすったときく。本家のご主人が割と早く亡くなったあと、おまん様はなかなかしっかり者でやり手の人であったがうちの祖父を信頼し、たよりにしていられたという。商売のこと、財産管理のこと、何人かの子供達の 身のふり方などその時々に何かとうちの父(祖父)が相談にのって上げたものであったと母は云った。雑貨商の外に千俵程の地主でもあって豊かに暮らしていた本家は着るものでも道具類でも良いものを使って暮らしていたということであった。


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