二十一、 祖母と台所

 私は祖母の怒った顔を見た事がない。穏やかでよく働く人であった。朝は暗いうちから誰よりも早く起きて先ずかまどの火を焚きつける。ご飯と味噌汁で皆の朝食の用意をする。ゴリゴリと摺鉢で味噌を摺る音が聞こえて私が起きて行く頃は母や従姉が食器を出したりして祖母を手伝っている。かまどにはもうご飯の火が引かれて燠だけ残し、いろりの方に火をうつして味噌汁の用意をする。広い台所は湯気と煙でもう暖かくなっているのだった。味噌汁といえば冬は千六本に刻んだ大根汁。里芋も入っている、夏はなす汁と凡そ定まっていたもので春先になると青菜のお汁が珍しくて大層おいしく感じられた。だしのきいたみそ汁の煮立った所へ刻んだ菜をパッと入れて半分火が通った位で鍋を下ろして頂くと丁度タイミングが良くとても美味しい。

 寒い時はいろりで暖まりながら私はよく火の番をした。端の方へだんだん燃えてゆく薪を中心の方へ押してやりながら煙らないでよく燃える様に組んでやるのだ。味噌汁の入った鉄鍋の底をなめて勢いよく燃える火を眺めていると飽きない。又いろりの真上に作られてある高い煙出しのやぐらの木組みの間に吸い込まれてゆくうす青い煙の色も美しい。そこへ庭の方から朝日が射すと明るい色あいになって春が近い感じがして嬉しいものだった。

 十時頃になると咳の声がして祖父が起きてくる。祖母は祖父のお膳を整えて茶の間の次の間に運ぶ。いつも別膳ながら朝は簡単に済ます様であった。

 やがて昼近くなれば皆の昼食の用意がはじまる。祖父は二食の習慣であったから夕食が早い。一休みして三時頃になると祖母はお酒の支度をしなければならない。夏には枝豆を鉄の大鍋に一ぱい茹でることから始まって(私共もお八つに食べるから)、二・三品の酒の肴、それから皆の夕食の支度と続くのであった。いつも二人位の女中さんが居て野菜や魚の下洗い、食後の片づけ、家中の人の洗濯、掃除等はしてもらっていたが献立から煮炊き、味付け等はしっかりと祖母が行なっていた。

 新発田はまわりが農村であるから野菜は豊富で毎日の様に近在の女衆が売りに来た。野菜かごにたっぷりの菜やなす、キウリ、芋等三銭や五銭で山程買えたものであった。又市も立つので買い出しに行く事もあった。又浜が近いせいもあって砂粒のついたままのいかにも海からあげたばかりという生きのよい鰯や鰈等浅くて大きな魚ボテに並べて上に何かの青い葉をかぶせて天秤棒でかついで売りに来る。春は主に鰯で、けだるいような暑い昼下がり「いわしやーいやい」と節をつけて通りを呼んで行くのであった。
 「おっ母さま晩の分は米何升とぎましょうか」女中がききに来る。「そうだのう少しご飯の余りがあるすけ一升といで置いてくたさいや」今の小人数の家では二カップ、三カップ等という所が、その頃家では大抵一升か二升か、またお祭りや法事等があれば三升位炊くのであった。大家族であったから台所は大変だった。三升炊きの鉄釜は大きくて重くて扱うのに力が要るが、多勢の分を薪で炊くので大変おいしく出来る。ご飯がたけると厚い釜敷におろし、よく乾かしたお櫃にご飯をうつすのである。大しゃもじの先を少し水で濡らして釜肌にそってさくさくとご飯を寄せ、なれた手つきで釜の飯を大しゃもじに乗せ左手のしゃもじを添えて外にこぼれないようにお櫃にうつしてゆく。香ばしいご飯の香りと湯気が台所に立ち込める。釜肌についた少し焦げた所を塩を軽くつけて握ってもらうと大層美味しかった。丁度お腹が空いている時には何かのお菓子より数等うれしかった。釜底のセンベイみたいになった所も必ず誰かの口に入り米粒は小量でも大切に扱われて決して流しへ流す様なことは無かった。米を粗末にするもんは罰があたるすけなと常々言われたものであった。空いた釜には水を張って丁寧に洗ったあと、外の小溝の所で釜の底についた煤を古包丁を使ってカリカリとこそげて落とすのである。煤が厚くついてしまうと熱のまわりが悪くなるし、火を引いたあともチカチカと火の粉がついたようになって釜敷にうつした時に火の用心も悪いのであった。

 又季節季節による炊き込みご飯が大層楽しみなご馳走であった。春の筍飯、うこぎ飯、秋は松茸ご飯等、祖母は塩梅が上手であったから美味しかった。皆がお代わりをしてたべるのでいつもより余計に炊いて置かねばならない。昔は近郊の五十公野山に松茸が出たので今程高値で珍重しなくても結構庶民の口にも入ったものである。うこぎは山に生えている木と聞いていたけれど裏庭に一本植えてあった。五月頃新葉が出た時に摘んで細かく刻み、軽い塩味で炊き込むと大層風味も良く、よもぎ飯の様で大好きであった。かすかな苦味があってそれがなんとも云えずおいしい。五加皮といって五枚づつの掌状の葉が出るが強壮剤として薬効があるという。


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