二十、 叔母の結婚

 ミッチャンにはさすがのおぢいちゃまも手を焼いたものだったよという。仲の良い友達が何人か居ていつも行き来し、又映画を見に行ったり気侭な暮らしを楽しんで少しも結婚話には耳をかさなかった。長姉の不幸を見たり、次姉は主人が病弱で心配が絶えないのを見ているし、あまり結婚というものに期待する気持ちが無かったものらしい。

 色々と縁談も持ち込まれたけれど、どれも気が進まない、又街ですれ違った若い男が「私の顔を見て赤い顔するんだよ。バカみたい。にらんでやったわ」等となかなか気の強い人であった。祖父も心配して候補者探しでいろいろ知人にきき合わせてもらったりした所、これはと思える人をついに探しあてたのである。(神明様のそばの小さな呉服屋のおかみさんでお梅さという人の推薦であった。この人は商売柄あちこちに知り合いが多く口ききの上手な重宝な人でこういう話の橋渡しのうまい人であった。)

 婿様は県北の村上市の近郊鵜渡路(うのとろ)という所の中流農家の三男で志田三郎という人である。自家でも農業をしているが小作人にも作らせていてちょっとした地主でもある農家の人で、その時は東京中野の電信隊に勤務している陸軍少尉であった。温和で頭も良く、背が高く男ぶりも立派な人であった。祖父はすっかりこの三郎さんに惚れ込み「ミヨシが嫌だというのなら俺が別の嫁をもろうてやるすけ、とにかく家へ来て呉れ」という程熱心に口説いて娘の承諾もないままさっさと話を取り決めてしまったのであった。叔母はふくれっ面のまま花嫁衣装を着せられ、親戚衆が居並ぶ座敷へ坐らせられた。

 私はその時二年生位になっていたろうか、祖父の書斎が婿殿の控え室にあてられていた。物珍しさもあってチョロチョロとのぞいたり出たり入ったりしていた。家の人達はそれぞれに忙しく立ち働いて誰も私に注意する人もいない。叔父さんは陸軍少尉の軍装で白手袋をはめ、サーベルを腰に吊ったのを見て珍しく思った私は「これ誰の?」と聞いた。「僕のさ」と答えた。その「僕」という言葉を男の人から初めて聞いた私は「エーッ」と叫んで逃げ出した。本当にどうしようもない田舎者の小娘であった。何か気恥ずかしいのとびっくりしたのと交ぜ合わせたような妙な気分であった。礼装した叔父さんの姿は又一段と立派であった。

 普段は誰も使っていない上座敷の二階が新婚夫婦の室であった。六畳二間位の狭い所であったが、皆が居る茶の間や台所とはずいぶん離れていて落ち着いた室であった。「久美はあんまり行くなや」と云われていたけれど行ってみたくて仕方がない。昼過ぎ頃だったか、そっと階段を上がってのぞきに行ったものである。それは寒い季節であって、叔父、叔母は二人で炬燵に入って随分親密そうな様子で話し合っていた。前の晩までのふくれ面を思うとびっくりする程の変わりようであった。「久美ちゃんこっちへおいで」と声をかけられてみかんをもらったりしたけれど来たばかりの叔父さんに対して気恥ずかしい気持ちがあって早々に引き上げたのであった。

 暫くして叔父さんは東京の物理学校に入って勉強する事になり夫婦で上京した。何でも大層難しい所だそうで入学しても進級出来ない人はどんどん落とされるのだとか、叔父さんは大層勉強して優秀な成績で卒業したのであった。

 その頃夏休みに帰っていた時の事であったが、休みとは云え叔父さんは毎日勉強に余念が無かった。ある日前年に生まれた長女道子を叔母は「あなたちょっとお願いね」とばかり軽く押しつける様にして独身時代の気分で例の友達二・三人と映画を見に行こうとした。叔父さんが雷を落としたのは後にも先にもこの時しか私は知らない。凄い剣幕で「俺が勉強しているのがわからんのかっ。子供を置いて遊びに行くとは何事だーっ」長姉は既に亡く、こういう時のなだめ役は母であった。泣き出した叔母に「あんたが悪いよ。三郎さんはいっぱい勉強があるんだから、子守をさせて遊びに出るのは悪いよ」と云い聞かせてなだめ、叔父に謝ってその場を納めたのであった。

 卒業後叔父は下関中学の数学と物理の教師として赴任し一回応召の後、新発田中学に定年まで勤めた。招魂社の近く、尾ノ上町の邸をもらって分家し一男三女に恵まれた。

 「おじさんが怒ったのはあの時だけでふだんは穏やかないい人だったからね。ミッチャンは幸せだったと思うよ。本当にあのジャジャ馬をよく馴らしたものだ、三郎さは。」と母はつくづくと追憶する。昨年ミヨシ叔母の七回忌の法事が行われたのであった。


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