十八、 怖い病気

 母がまだ若い頃、癩病は業病又は天刑病とも云われて治療薬もなく、ただ忌み嫌われ恐れられていた。女学校で一級上のお医者さんの娘さんがこの病気になり、それと分かった時、教室から下駄箱まで厳重に消毒され、その人の机や椅子、小物は全部焼却され、大騒ぎになったという。

 「気の毒に、あの人はあれからどうされたやら『小島の春』にあるように瀬戸内の島にでもいかれたものだろうか」などと、母は気の毒そうに云うのであった。

 また繁盛した呉服屋さんにもこの病の人が居て色の白いお婆さんであったが、頭髪が抜けてしまっていつも白い布を頭に巻いている人だった。この人がたまに店に出てくると番頭さん達が非常に嫌がったとか。そのうちに主人夫婦が二人共首つり自殺をしてしまった。それでさしもの大きい呉服店も店じまいになったそうである。あの病気に感染したのかも知れないと町の人達の噂であった。

 今ではその治療薬も出来たそうで、日本では患者が殆ど無いと聞く。医学が進んで良い時代になったものだねと母はつくづく昔の事を思って言うのであった。

 私は小学校の頃、婦人雑誌の悲劇の実録記事という中に癩病の話が出ているのを読んで怖いと思った覚えがある。はじめは皮膚の或部分に知覚がなくなり、また髪が抜け鼻が欠けたり耳が取れたり、指が無くなって生姜の様な手の人もいたという。だんだん手足にも病状が進み、血膿が出るようになってゆく、等の記事を読んだ時は大層ショックを受けた。菌の感染力は弱いということであったが潜伏期が長いのでいつどこでうつったか分からない。本当に運が悪いとしか云い様がない気の毒な病気であった。

 家族にこの病気の人が出ると昔は一人隔離されて死ぬまで倉の中に閉じこもって暮らすとか、一人家を離れて物乞いをしながらあての無い旅に出て漂泊するとかと聞いたこともある。他の兄弟や姉妹の縁組の支障になるといってひたかくしにされ、とにかく忌み嫌われ恐れられたものだった。慕わしい父母や家族と一緒に暮らす事は出来ない。又愛すればこそ自分は離れて行かなければならない。かの有名な実録小説『小島の春』にあるように瀬戸内海の孤島に隔離病棟が出来たのはいつ頃の事であろうか、伝染を防ぐ為にはそこに入るということは仕方がないことであったとしても。

 そこで暮らせば同病の人達も居て患者同志の友情が湧くことも有ろう。お互いに励まし合い助け合って。しかし又重病になった人を見るのも切ないことではないか。癒ることがない病であれば遠からずやってくる自分の行く末の姿を見ることでもあるのだ。だんだん崩れてゆく自分のからだを日に日に感じて希望のない一生を生きねばならない痛ましさ。

 そんな過酷な運命に置かれた人達が神に縋る気持ちになるのは当然というか、無理もない事であったと思われる。どれ程悪いことをしたわけではなく、どうして自分はこんな辛い病になったのかと思えばこの世には神も仏もあるものか、という気持ちになる半面、すべては神の思し召しであるとでも思わなければ心の安らぎが得られないではないか。「み心のままになし給え」そしてその時が来れば神の御もとに召されるのである。それまでの苦しみは神が与え給う試練であると。「ただ信ぜよ、信ずるものは皆救はれん」そしてひたすら祈りに明け暮れる。

 又癩病院に医師として患者に接する先生も大抵は信仰の篤い人であったという。世の常のしあわせや栄達、金儲け等ということとは無縁の奉仕の生活、人の忌み嫌う病の人と毎日接し、その病人の具合を見て世話をし、慰めとなり杖とも柱ともなって共に生きる、ということは並大抵の人には出来そうもない事であった。篤い信仰に裏打ちされた愛と信念の人でなければ出来ないことであると思われた。母はずっと以前、知人で熱心な信者から信仰の話を聞かされて様々に教えを説かれたことがあったけれどいま一つ、信者として踏み切る気になれないものがあったという。でも癩病院の医師や看護婦さんに対してだけは文句なしに感心する外はない。誰にあんな真似が出来ようか、本当に頭が下がる、と母は言うのであった。


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