十七、 白菊の君 (五十嵐志のぶ先生)

 或日父がピアノを弾きながら寝ている母に云った。
「あんたは女学校のとき先生からこんな歌習ったかね」と。
「庭の千草も虫の音も枯れて淋しくなりにけり、ああ白菊・・・・・・・」
五十嵐先生といったその先生は明治三十六年の女学校の開校以来大正八年まで十七年間、音楽の先生であった。その頃の女学校の生徒達の間ではなかなか人気があったという。

 美人ではなかったけれどもクリスチャンだった先生は何か芯の強い所があって別に肩肘張った外見の強さとは異なった一種の凛とした感じであった。明治から大正にかけてその頃、小学校先生は女先生が結構居られたけれども女学校では裁縫の先生を除けば女先生は少なかったもの、男先生の間に伍してシャンとした女先生の姿は心ある女生徒を引きつけたものであったと云う。

 先生は男兄弟がなかったか、くわしいことは判らないが自分の働きで両親を養っていられたとのこと、質素な服装でありながら少しも気にする風もなく、普通の女性であれば気になる所であったものを、お式の時でも母親のお下がりらしい古びた紋付きで出席されしかも堂々としている所が一種潔い感じを与え、あの先生ステキと思う女生徒がいたのであった。秋に咲き残る白菊の歌がぴったりであった。母も姉のキヨノも憧れたものであったとのこと。

 そしてどの様な事情からかは知らないけれども後になって五十嵐先生は二区出身の代議士の後妻になられたという話を母は聞いたのであった。氏は清廉な人であるという評判は聞いていたが、あの白菊の様な凛としたクリスチャンの先生が事もあろうに政治家の後妻にと聞いて母はずいぶん違和感を持ったとのこと、政治家といっても一人一人それぞれであろうけれども、とかく清濁会わせ呑むという風でなければ渡ってゆかれぬものと聞いている政治家の世界と清流の鮎の様な先生とがどうしても結びつけて考えられないのであった。

 その頃普通の女の子は学校を卒業すると、お花や裁縫を習いに通って花嫁修業をし、そのうちに親の定めた所へお嫁に行って平凡な結婚をする、子供を育てながら年をとってゆく、という風なものであった。殆ど女は男に依存して生きていた時代であった。でも明治から大正に入ったころ、女性としての新しい自覚にめざめて行く気風も起こってきた時期で古い女の生き方に対していろいろ批判的に考える娘も出てくるのであった。例外というものはあるもので、女手一つで立派に商売を切り回すとか、女傑といわれて名を馳せる人もたまには居たもの、又世に有名な歌人与謝野晶子や女医の竹内茂代等女性の成功者も居たけれど、並はずれた才能を持ち、それを生かす体力とたゆまぬ努力と多少の運もあろうし、三拍子も四拍子も揃って恵まれた数少ない人々であったと思われる。その頃女性が手っ取り早く生活の資を得る道は程度の差こそあれ、とにかく男に媚びを売る商売が近道であった。その様な時であったから五十嵐先生のように男に頼らないシャンとした生き方に魅せられる所があったものだという。

 そして純情な乙女の年頃に考える結婚の理想は真に自分の愛する人を見つけてお互いに愛情によってしっかり結ばれる「ただ一度、そしてただ一人の人に」というものであった。政治家の後妻に、ということを聞いただけでも「オヤ」とあまり先生にそぐわない印象であったのに更にしばらくして離婚されたと聞かされたとき「ああやっぱり」という感じは拭えなかった。こういう事は当事者及びそのまわりの人達のどの様な事情があったものか、知らない人間が軽々しく良否を論じることは出来ないものであろう。が先生の教え子達は多少のショックと違和感を覚えないわけには行かなかったという。

 本当にどの様な事情によって先生は結婚されたものか、経済的な理由も絡んで或いは信頼していた知人のすすめがあったとか、年老いた両親の嘆きに口説き落とされたとか、またほんのふとしたことで知り合ってとか、しっかりした先生とは云いながら女性は女性であるからひょんなことから縁は異なものという言葉さえあるものを、等と思ったりする。はっきりとはわからないことであったから凡人は勝手にいろいろと想像したりするのであった。若いときならともかく中年になった先生が結婚にふみ切るにはそれなりの決心があってのことであろう。そしてクリスチャンであれば簡単に離婚など許されないものと聞いている。それを押し切って離婚するには到底そこに留まることの出来ない状況というものがあったのだと察せられる。多かれ少なかれ葛藤があったわけであろう。一寸先のことは分からないのが人生の常であるとは云え、音楽の先生として大勢の生徒達に慕われていた頃、先生自身この様な後半生を過ごすとは夢にも思わなかったであろうに、人生はドラマであるとつくづくと感じられる話であった。

 

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