十六、 教会

 私が少し大きくなった頃、乱暴な言葉や汚い言葉を覚えて云ったりするときつく叱られた。又不吉な言葉もいけない事とされていた。そして言葉は大切なものだよ、言葉というものは力があるもので悪いことを言っていると実際に悪いことが起きる。良い言葉を使いなさい。「はじめに言葉ありき」というでしょうと言われたのであった。

 母が十才位の頃、勉強好きであった姉が教会の牧師さんの家へ英語を習いに通っていたのについて行ってキリスト教会の日曜学校に顔を出したことがあった。教会では日曜日になると子供達を集めて牧師さんが聖書やキリストの話をしてきかせ、オルガンを弾いて賛美歌を唱わせる。二,三番練習して帰るのであった。母は歌が好きで上手であったから日曜日になると行って賛美歌を覚えて来て良く唱っていたそうである。キリスト教にはあまり熱心ではなかったが聖書のはじめの大事な所だけはしっかり覚えて私達子供に言葉の大切さを教えるのであった。(その成果の程は別として)

 今思うに祖父母は熱心な仏教徒であり乍ら、娘達の教会通いをよく許したものだねと問うた所、
「うんそうだね、そういう所は大らかだったよ。何でも私達のしたい事をさして呉れた親だったね」と言う。
「でも仏様をないがしろにする様なことは私共はしなかったし、まあ私は賛美歌にひかれて通ったみたいなものだったよ」と母は笑うのであった。

 母が通った頃の教会は三ノ丸小学校の向かい側あたりにあったそうで、私がもの心ついた頃は竹町の家の真向かいにあった。難波さんという牧師さんで練兵場へ曲がる角にお家があり、廊下続きに小じんまりした教会があった。前庭に柿の木が一本あり、そのまわりに子供らが二十人位は集まれる小さい広場でその奥に立つ教会は、木造で何の飾り気もなく屋根が普通の家より少し急勾配で正面に切り妻を見せた姿はいかにもそれらしく素朴で感じの良いものであった。

 日曜には信者の子供等の賛美歌の合唱が家に居てもよく聞こえて来たもので、また降誕祭の前夜にはキリストにちなんだ劇が子供達によって演じられて賑やかであった。その家の節子さんという娘さんが信子姉さんより一つ年下の人であった。皆がセッチャンと呼んでいた。私は二人によくくっついて練兵場に遊びに行ったりした。その節子さんから先年本当に何十年ぶりかで便りがあったと母は言った。いろいろな浮き沈みの人生を経験して今は東京多摩地方に静かに暮らしていられる由、聞いたのであった。

 教会についてはこんな事もあったという。母は入信したわけではなかったが、女学校を出てからも教会に出入りしていた。キリスト教婦人会といって時々会合があり、牧師さんの話と賛美歌の後に簡単な洋風料理の講習会がたまにあったという。竹町のうちの真向かいに教会があったし、気さくな牧師夫人とも仲が良かった。歌も好きであったし、又新しいもの好きな性分でもあった。教会の集まりから西洋風の合理的な暮らし方や色々な情報が得られるわけであった。

 しかしこの教会の財政は貧乏なものであったから大した料理ではなかったけれどもコロッケとか油炒め等は当時あまりすることがなかったので珍しいものであったという。そんな風に教会は信者でない人たちをも快く迎えていた。布教に役立てるためでもあったろうと思う。

 或る時その婦人会の人々が揃って新潟の教会に招かれたことがあった。その時、新潟の牧師さんは外人であった。何町のあたりであったかはもう忘れてしまったが、高台に建っていたその教会は堂々として立派であった。広々とした敷地で牧師さんの居宅もまた立派なものであった。数ある部屋をまわりベツドルームまで見せてもらった。どの部屋も清潔で美しく飾られてあった、そして日本人のメイドさんが広い庭の一方に綱を張って洗い上げたまっ白いシーツを広げて干していた。

 感心して見て回ったが母はあとであまり良い気持ちがしなかった。当時の人々の暮らしは倹約なつましいものであった、布教のために本部から高給をもらっているのであろうが、自分たちとはあまりにかけはなれた暮らしぶりを見せられて違和感の様なものを感じたそうである。

 教えの中には信者に対して常々物質よりも精神性を重んぜよ、ソロモン王の栄華も野の百合には及ばない等と聞かされていたもので、その日は心の中にちょっと反撥するものを覚えたのであった。

 それは他人の暮らしぶりに対する単なる妬みとはちがうものであった。母は地主や金持ちの暮らしぶりを知っている、金持ちは金持ちらしい暮らしをするのを人々は何の疑いもなく受け入れて、あの人達は旦那衆だからといっていた、良いものを食べ良い着物を着、使用人を大勢使って暮らす人達、それは「あそこんちは金持ちだから、」で納得するのであった。

 今から思えば県都新潟として相応のものが必要であったであろう、人口も多く県庁もあり港もあり大学もありでそれなりの人々が暮らしている、格段の華やかさもある街であった。そこの牧師さんもきっと有能な人であり権威ある人であったろう。

 新発田の人たちはやはり新発田へ帰ってホッとしたのである。そしてこの小さな教会が、地味でやさしい牧師夫妻が好ましく思われたのであった。


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